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第21章 橋の秘密

 二階に上がり自室に戻る。私は意図してゆっくりとドアを開け、私以外の全員が間違いなく部屋に入ったのを見届けてから、自分も敷居を跨いだ。一度ドアを閉め、数秒経過してからまた、ゆっくりと――音を立てないように、ドアを開ける。目の前の廊下には、すでに乱場(らんば)が立っていた。彼の自室は階段と私の部屋とに挟まれているため、誰に気兼ねすることもなかったのだろう。また、注意しながらゆっくりとドアを閉めて施錠すると、私たちは頷き合って階段に向かった。

 万が一、部屋を出る人がいても視界に入らないよう、階段を二、三段下りてから、乱場が、


「すみません、石上(いしがみ)先輩」


 小声で話し掛けてきた。私も同じくらいのボリュームの声で、


「いったい、どうしたっていうんだ?」

「これから、一緒に一階まで行ってもらいたいんです」

「なにを?」

「これです」


 乱場が懐から取りだしたのは、一本の鍵だった。高そうなブランドものと思われるキーホルダーが付いている。


「……これは?」

(かすみ)さんが持っていた鍵です」

「なんだって――」


 大声を出しかけて、私は慌てて言葉を飲み込んだ。二人で沈黙し、二階から――一階からも――何の物音も聞こえてこないことを確認すると、


「霞さんの遺体の姿勢を戻すときに、隙を見てスカートの懐から失敬しました」

「……悪い子だな、君は」感心するやら、呆れるやら。私は音を出さないようにため息をつくと、「それを使って、霞さんの部屋に侵入しようというんだね」

「そうです。周囲を警戒するのに、二人いたほうがいいと思いまして」

「そういうことであれば、少しでも時間が惜しい。すぐに行こう」


 私は階段に一歩足を踏み出す。丈夫な木材で出来ている階段と靴底が触れ、僅かではあるが足音が響いた。


「……急ぐのはまずいな。ゆっくり行こう」

「石上先輩」と乱場は、まだ一歩も踏み出さないまま、「僕をおんぶしてくれませんか?」

「えっ?」

「そうすれば、足音が鳴るのをひとり分に抑えられます」

「一歩当たりの荷重が増して、階段が軋む音が出るんじゃないのかい?」

「それなら心配いりません。この階段はかなり堅強に作られています。あの大きな村茂(むらしげ)さんが最も曲げモーメントの掛かる階段中央を歩いても、軋んだりはしていませんでしたから。僕らが注意すべきは足音だけです」


 私は再び、この少年探偵に対して、感心と呆れがない交ぜになった感情を抱くことになった。


「石上先輩、時間が惜しいです」

「あ、ああ」


 乱場にせっつかされ、私は屈んで彼を迎える体制を取った。「いきます」と乱場がその体を私の背中に預け、首に両腕が回された。私は彼の大腿部を支え、ゆっくりと立ち上がると、慎重に階段を一段下りた。なるほど、二人分の荷重を支えているにも関わらず、階段はまったく軋まず、乾いた私の足音が鳴るだけだった。

 私は無事一階に下り立った。そのままロビーの向こう、霞たちが居住する東館へ進もうとしたが、


「石上先輩、もういいです。下ろして下さい」

「ああ、そうだった」


 乱場を床に下ろした。東館に向かう廊下を覗き込み、誰の姿もないことを確認する。頷き合って私たちは廊下を進んだ。リビングの扉の前を通るときには複雑な感情に襲われた。この扉一枚隔てた向こうに、霞の遺体がある。

 長い廊下を渡り終えて曲がり角に差し掛かると、また角の向こうを覗き込む。


「大きな部屋のものと思われる扉が、廊下を挟んで二つあります。そのどちらかが霞さんの部屋に違いありません」


 耳元で乱場が解説した。昨夜、彼は館内捜索組だったことを思い出した。

 ゆっくりと、だが音を立てないで済む最速の歩行で、私たちは乱場が言った二枚の扉に挟まれた廊下まで移動した。左右に互い違いになるように、似たようなデザインの扉が配されている。私は右手の扉に近づいて耳を付けた。左手の扉でも乱場が同じことをしている。微かに、非常に微かにだが、扉の向こうから――内容まではまったく聞き取れないが――人の話し声と、物音が聞こえる。私は扉から離れて乱場のもとに行くと、


「向こうは中に誰かいるらしい」

「……こっちは、何も聞こえません」


 こちらが霞の部屋だと決め、乱場が鍵穴に鍵を差し込んで回すと、カタリ、と小気味のよい音がした。ノブを掴んで回し、ゆっくりと引くと、


「開いた」


 私は思わず呟いた。音も立てず扉は軸回転し、人ひとりが入り込むだけの隙間が作られると、乱場は素早く室内に滑り入り、私も続いた。室内は窓がないのか、真っ暗だった。廊下からの明りで見つけた壁のスイッチを押す。天井に照明が灯ると、音を立てないよう扉を閉める。施錠するのも忘れない。


「ここが、霞さんの部屋……?」

「間違いないようです」


 広い部屋だった。私たちが使っている二階の部屋何個分になるのだろうか。私は入ったことはないが、高級ホテルのスイートルームとは、こういう感じなのではないかと思わせた。机、ソファ、戸棚などの調度類は、素人目にも相当の高級品と分かる。ここが霞の部屋と確信できたのは、鼻孔を付く残り香のせいだった。霞の体や髪から発せられていた、あの甘い香りが、部屋のそこかしこに漂っていた。

 調度の中には意外なことにテレビもあった。ぱっと見サイズを正確に言い当てることは出来ないが、横幅は優に一メートルを超えているだろう。50型以上はあるはずだ。さらに呆れたことに、これほど広い部屋にも関わらず、扉を背にした左右の壁には、まだドアがある。私のその視線の移動を見たのか、乱場が、


「たぶん、寝室とバスルームじゃないですか?」


 確かに、この部屋にはベッドがない。個人用のバスルームがあるというのも、これほどの部屋ならば頷ける。

 乱場は、だが、その二枚のドアには目もくれず、何かを探すように戸棚や机に目を走らせていた。


「……あった!」


 乱場は喜びを含ませた声を上げた。見ると、彼の手には一台の電話機端末がある。


「携帯電話? しかし、電波は通じていないはずじゃ?」


 私も彼のもとに駆け寄る。


「……いえ、これは、衛星電話です」

「衛星電話!」

「はい。静止衛星を介して通話を行える電話機です。これなら、電話線を引く必要もありませんし、携帯が圏外の場所でも使えます」


 どうりで、携帯電話にしては、ひと昔以上も前の機種のように異様に大きく、携帯電話というよりは、固定電話の子機を思わせる形をしている。乱場の狙いは電話だったのか。衛星電話を手に乱場は、向かって左手のドアを開けて中に移動する。すこしでも廊下側に声を漏らさないためだ。ここにも窓はないようだ。真っ暗な部屋で、ここでも電灯のスイッチを見つけて押す。果たしてそこは寝室だった。壁際中央にベッドが設えられている。私たちが使っているベッドを何個くっつけたら、このベッドと同じ大きさになるだろう。そんなことを考えているうちに、乱場が衛星電話のダイヤルボタンを押した。その数字は、「1」「1」「0」。さらに彼は、衛星電話を持つのとは反対の手で、自分のスマートフォンを握っている。私も顔を近づけて会話内容に耳を澄ませた。


「事件ですか? 事故ですか?」


 110番通報を受ける警察官の声が聞こえた。この、世界と隔絶された妖精館で、初めて私たちが外部との交信に成功した。体がぞわりと粟立つのを感じる。


「人が死にました。宮城県仙台市の山中です。詳しい住所は不明なのですが……」


 乱場は、ここ(そもそもの目的地だった撮影場所)に来るまでの詳細を出来るだけ事細かに話して聞かせた。前もって話す内容を頭の中で整理していたのだろう。その声に淀みはまったくなかった。


「……ええ、そういった事情があるので、陸路で辿り着くことは難しいです。……はい……はい……分かりました」


 乱場は通話終了ボタンを押して衛星電話を置くと、手にしていたスマートフォンの画面もタップした。ふう、と一度深く息を吐いて、頬に浮かんだ汗を拭うと、


「ヘリを飛ばして捜索してくれるそうです。この妖精館が発見されて、警察官が来るのも時間の問題でしょう」

「どれくらいの時間が掛かりそうかな?」

「何とも言えませんね。僕もざっとした地理の説明しか出来ませんでしたし、ヘリの台数にも限りがあります。それに、この山は霧が多いですから」


 確かにそうだろう。この部屋には窓がないため見えないが、妖精館は今日も、深く白い霧の底に沈んでいるはずだ。


「運が良ければ、今日中、最悪でも、数日後には発見されると思います」

「そうか……」


 そうなれば、霞殺しも鑑識が入ることにより、科学的な分析、捜査がされることになるだろう。名探偵、乱場秀輔(しゅうすけ)の出番はなくなるかもしれない。


「それと、乱場くん、今、スマホで何をしていたんだ?」

「ああ、これですか。今の通話を録音していたんです」

「録音? どうして?」

「みんなに聞かせて安心してもらうためです。僕が110番通報をしたと口で言うだけじゃ信じてもらえないでしょうから」

「そういうことか」


 本当に抜け目のない少年だと、私はまたも半ば感心して、半ば呆れた。

 用事は済んだ。乱場は衛星電話をもとの場所に戻し、照明を消す。私は解錠した扉に耳を付けて廊下の気配、物音を窺う。


「大丈夫だ」


 私はそっと扉を開けて素早く廊下に躍り出る。乱場もすぐに続いた。鍵穴に鍵を差し込み施錠して、鍵を乱場に返すと私は、


「戻ろう」

「ちょっと、もう一箇所、いいですか」


 だが、乱場は二階に戻るのとは逆の、さらに東館奥へと廊下を進み始めた。私は彼を追うしかない。乱場が足を止めたのは、廊下を一度曲がった先にあったドアの前だった。耳を澄ますと、何か機械の稼働音のような唸る音が聞かれる。


「乱場くん、ここは」

「はい。昨日話した、電源室と思われる部屋です」


 私はドアノブを握ったが、押しても引いてもドアは開かない。


「確かに鍵が掛かっている」

「ええ、でもですね、もしかしたら……」


 乱場が取り出した鍵をドアの鍵穴に挿し、捻ると、カタリ、と音が聞こえた。


「開いた?」

「やっぱり、これは正確には霞さんの部屋の鍵ではなく、この館のマスターキーだったようですね」


 それを確かめるためにここに来たのか。なるほど、庸一郎や火櫛の部屋でこんなことを試すわけにはいかない。リビングや私たちの部屋のドアで試してもよかったが、せっかくここまで来たのだからと乱場はここを選んだのだろう。


「入ってみましょう」


 乱場と私は室内に滑り込んだ。スイッチを入れて照明を灯す。窓がないことは霞の部屋と同じだったが、面積では比べるべくもなかった。私たちが使っている部屋よりも狭いだろう。調度の(たぐ)いはひとつもなく、床には地下へと下りる階段が伸びている。


「間違いない、ここから下りられる地下に、発電機があるんだろうね」

「石上先輩!」


 私は階段から乱場に、さらに彼が見ている先へと視線を移動させた。


「……これは?」


 そこにあったのは、壁に作り付けの機械だった。そう多くはないが、いくつかのボタンや計器類が並んでおり、何かを操作するためのものに見える。機械の上部には黒いパネルがあった。いや、これはパネルではなく、


「モニターですね」


 言いながら乱場が、そのモニターのスイッチと思われるボタンを探しだして押下する。すると、


「あっ!」


 私と乱場は思わず声を上げた。予想どおりモニターに電源が入った。そこに映し出されたのは、外の情景らしい。霧が(けぶ)っているところから、この妖精館周辺のどこからしいが。モニターをじっと見つめて、乱場が、


「ここに映っているのは……あの川じゃないですか?」

「川? 私たちが渡ってきた?」

「ええ、そうですよ。この断崖のような川岸、間違いありません」


 なるほど、目を凝らして見てみれば、霧のフィルターの向こう、画面を横切るように見えている一本の線は、河川だと言われれば納得する。


「しかし、どうして。川の氾濫状況を見るためにモニターでもしているのか?」

「いえ、これは、恐らく……」


 乱場は機械の下段にある棚から書類を引っ張り出してめくった。


「やっぱり!」


 乱場は興奮した様子で私に書類の一枚を見せた。それは図面だった。そこに描かれていたのは、


「……橋?」

「そうです。これは、橋を出し入れするための操作盤なんですよ!」

「これは……」私も図面を凝視して、「〈旋回橋(せんかいきょう)〉と呼ばれる橋の一種だね」

挿絵(By みてみん)

 旋回橋とは、その名のとおり、橋が平面的に「旋回」することで架け外しを行う構造の橋をいう。図面によれば、妖精館と外界とを繋ぐこの橋は、回転軸が中心から距離をおいた位置にあり、ほぼ振り子のような動きをして橋の架け外しを行うようになっている。


「図面によると、橋の旋回に合わせて、橋へ続く取り付け道路も消えたり現れたりする構造になっているね」

「ええ、橋が外された状態では、取り付け道路自体が隠されてしまうわけですから、橋に続く道が川岸で断絶するという、不自然な状況の隠蔽もできるというわけですね。ここに来た日の往路で、運転していた村茂さんを始め、誰もこの橋の存在に気付かなかったのも無理はありません」

「随分と念の入ったことだね。しかも、やはり乱場くんが推理していたとおり、外された橋は、こちら側ではなく、向こう側に収納される構造になっているね。こちら側の崖をいくら調べても何も発見できなかったわけだ。でも、これでどうしてこの橋が向こう側に収納される設計になっているのかが判明したね。橋だけでなく、取り付け道路も同時に隠蔽しようとすれば、回転軸を向こう側に設けるしかないからね」


 感心するとともに、そこまでするか、と呆れたのも事実だった。


「乱場くん、どうする? すぐに橋を架けるか?」


 乱場は、だが、腕を組み、熟考してから、


「……いえ、まだその時期じゃないと思います」

「どうして?」

「橋がどういう状態にあるかを、庸一郎さんの部屋でモニター出来ているかもしれません」

「その可能性はあるね」

「はい。そうなったら、僕たちがここに侵入したことを悟られてしまいます。それに、足の問題もあります」

「足――そうか、車か」

「ええ、車庫にはまだ鍵が掛けられたままですからね。このマスターキーが玄関にも使えるかは分かりませんが――僕は使えると思います。昨日、火櫛さんが施錠した玄関を開けたのが霞さんであれば、この鍵を使った可能性が高いですから――玄関を開けて外に出られたとしても、車庫の鍵は全然違うタイプのものでしたから結局、車を取り返すことは出来ません。走って逃げたって、車で火櫛さんにすぐに追いつかれてしまうでしょう。というか、そんなことをしたら、まず橋をまた収納されてしまって終わりです」

「うーん、もどかしいね。どうする?」

「操作パネルはいじらず、この部屋を施錠しないままにしておきます。今は、こんな状況ですから、庸一郎さんや火櫛さんが橋を操作するとは思えません。ということは、この部屋に入る用事もないわけです。だから」

「ドアの鍵が開いたままでも、気付かれる心配はないということか」

「そうです。いざという橋を架ける必要が出たときに、改めてここに来ることにしましょう」

「うん、いい考えだと思う」

「さて」言いながら乱場はモニターの電源を落とすと、「じゃあ、リビングに戻りましょう」

「リビングに?」

「はい。この鍵を霞さんの遺体に戻すんです」

「どうして? せっかく入手した貴重なアイテムなのに」

「火櫛さんが間違いなく回収に動くからですよ。そのときになって、霞さんが所持していたはずの鍵がないとなったら、僕たちが疑われてしまいます」

「確かに、あの人ならやりそうだ」

「ええ、急ぎましょう」


 私と乱場は、注意して東館の廊下を歩き、リビングの前まで辿り着いた。扉を開けると、


「――あっ」


 乱場は入室するなり足を止めた。ソファに寝かせた霞の遺体のそばに火櫛が屈み込んでおり、その手は、霞のスカートの懐に入れられていた。

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