第17章 生還の可能性
翌朝、私の部屋を乱場が訪れた。時刻を確認すると、午前六時半。
「石上先輩、おはようございます」
乱場はベッドに近づいてきて、小さく声を掛けた。私は当然目を覚ましており(予定どおり一睡もしていなかった)、頷きで答える。
「石上先輩、大丈夫ですか」
盗聴対策のため、あくまで乱場は私の容体が悪いことをこの場で確認する芝居をしている。無論、私もそれに合わせる。
「ちょっと、体がだるいかな」
「熱は……」
音声だけの芝居でいいのだが、乱場はわざわざ私の額に手を当ててくれた。私はそこに自分の手を重ねる。乱場の手はもう昨日ほど冷たいとは感じない。熱はかなり下がっていることが自覚できる。
「……かなり熱がありますね。ちょっとそのまま寝ていて下さい」
乱場が速歩で部屋を出て行くと、私は音を立てないよう気をつけてベッドから起き上がり、鍵を手に部屋を出た。
廊下を走る、ばたばたという足音が聞こえる。それが止むと同時にドアが勢いよく開け放たれて、
「部長! 大丈夫か!」
汐見が部屋に飛び込んでくると、一足飛びにベッド枠まで来て布団越しに私の体を揺すった。
「汐見さん! 病人ですよ」
その後ろから朝霧の声も聞こえる。それを聞いた汐見は、
「ああ、悪い。部長、具合は……うわ、凄い汗だな」
私の襟元が濡れているのを見て、体を揺する手を止めた。これは、乱場が部屋を出たあと、洗面所へ行って濡らしてきたものだ。小細工が過ぎるかとも思ったが、汐見は素直に、これが発汗によるものだと信じてくれたようだ。見ると、部屋には朝霧のあとから、さらに大勢入室してきている。乱場、河野、村茂、高井戸。飛原の姿もある。皆、心配そうな表情をしている。さらには、火櫛も神妙な顔で私を見つめていた。
「ご覧のとおりです」乱場は、その火櫛を向いて、「石上先輩を近くの病院まで連れて行ってもらえませんか。もしくは、救急車を呼んでくれるとありがたいのですが」
すぐには返答せず、じっと私の顔を見たままだった火櫛は、
「熱を測りましょう。体温計を持って来ますから――」
踵を返しかけたが、
「その必要はないわ」
その声に足を止めた。一番後方にいた笛有霞は、縫うように皆の間を歩いてきて、そっと私の額に真っ白な手を当てると、
「……熱なんて、ないじゃない」
微笑を浮かべた。見下ろす彼女の目に私は、どこか軽侮するような色を見て取っていた。やはり、この人には通じないのか。さらに霞は、私の濡れた襟元に指を這わせると、指先を桜色の口紅を塗った唇に持っていき、舌でぺろりと舐めて、
「これも、汗じゃないわね」
ふふ、と笑みを漏らすと振り返り、再び集まった皆の間を縫うようにして、ドアが開け放たれたままの出入り口を通り抜けていった。
「霞様」
私を一度見てから、火櫛も霞のあとを追う。しばしの間、皆は無言のまま、二人が出て行った廊下を見ていたが、
「いけない」
河野が走って退室していった。
「朝食の準備中だったんです」
朝霧が事情を説明する。河野は、この隙に霞か火櫛が料理に何かを混入する恐れを抱いたのだ。
「部長、本当に……?」
汐見の声に、私は上体を起こすと、
「すまない。彼女の言ったとおりだ」
ばつが悪い顔をして皆に謝った。乱場のため息が聞こえた。
私と乱場が事情を説明すると、
「なるほど。それは上手い手を考えましたね」
「ああ、その発想はなかった」
汐見と高井戸は頷き、
「だが、霞さんには通じなかったということか」
「恐ろしい人ですね」
村茂と朝霧は顔を見合わせた。
「なあ、部長」と汐見が、「もう少し粘ってもよかったんじゃないか? いかにも死にそうに悶えるとかして」
「例えば?」
朝霧が振ると、
「ぐわっ……くくっ……」と汐見は表情を歪め、歯を食いしばって、上げた片手を空を掴むようにわなわなと震えさせ、「し、死ぬっ、く、苦しいっ」
「汐見さん、見えない相手にコブラツイストを掛けられてるみたいになってますよ」
「違う! 病気で苦しんでるんだよ!」
「箒どころか、空気を相手にプロレスを成立させてしまっています。汐見さん、アントニオ猪木を超えましたね。闘魂継承者ですね」
「バカ言うな! あのレジェンド中のレジェンドを、そう簡単に超えられるか!」
話が違う方向に進みつつあるところに、
「いえ」と乱場が「僕が甘かったかも知れません。石上先輩が迫真の演技で霞さんを騙せたとしても……いや、もし、石上先輩が本当に重篤な状態になったとしても、霞さんは何の処置も施さず、放っておいた可能性が高いかもしれません」
「おいおい、それはさすがに……」
村茂が声を上げたが、乱場は冷静な口調を崩さず、
「むしろ、渡りに船だと思ったのでは?」
「渡りに船って、それは……」
「はい。『殺す手間が省ける』それくらいにしか思わなかったのではないでしょうか」
「まさか……」
村茂は、ごくりと喉を鳴らした。
「ですが」と乱場は、「とりあえず、こちらから今のが仮病だったと公表する必要もないでしょう。霞さんはともかく、火櫛さんのほうは半信半疑のようでしたから。石上先輩の病状が悪化したというのは僕の勘違いだったことにしませんか。僕だけ残って石上先輩を看ていることにして、あとから二人で下りていきますから、皆さんは先に食堂に行ってて下さい」
「それ、いいかもな」汐見は賛同して、「乱場なら、部長のことを慕ってるから、病状を大げさに捉えてしまったって言い訳も出来るもんな」
「そうですね」と朝霧も、「これが私か汐見さんだったら、信憑性に欠けるでしょうからね」
ん? ということは? 喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
「まあ、その対応が無難かも」
「ああ、芝居を打った、なんて告白して、下手に向こうの機嫌を損ねる必要もないしな」
高井戸、村茂も納得して、
「お前はどう思う?」
村茂は残る飛原に訊いたが、
「あ、ああ、いいと思う」
飛原は簡潔すぎる答えを返した。短いながらも、久しぶりに聞く彼の声。その表情は、昨日から全く変わっていなかった。
「あ、というか」朝霧が何かに気付いたように、「もし、本当に盗聴がされているのだとしたら、この計画もばればれということになりますけれど」
「ええ、しかし」と乱場は、「部屋が盗聴されているというのは、あくまで僕たちの思い込み、可能性に過ぎません。盗聴されているのであれば、確かにもうこの計画は敵の耳に入っているでしょう。ですが、盗聴がないとすれば、知られていないということになり、その場合、正直に『あれは仮病だった』と告白することには何のメリットもありません。逆に言うと、仮病と言い張ったところで、僕らには一切のデメリットはないわけです」
「なるほど。『せいぜい、こいつら往生際が悪いな』くらいに思われるだけだな」
村茂をはじめ、高井戸、飛原、朝霧は納得したようだが、汐見ひとりだけが首を傾げたままだった。
とりあえず乱場と私だけを残し、他のメンバーは――朝霧が汐見に乱場の言ったことを解説しながら――食堂に下りていった。
「何だか、浅はかな計画になってしまったね、乱場くん。すまない」
「いえ。石上先輩のせいじゃありませんよ。あの、霞さんが異常なんですよ」
「異常、か……」
「そうですよ。いくらなんだって、あんな応対の仕方あります? 石上先輩が苦しんでいるっていうのに、端から仮病だと決めつけて……」
乱場は随分と憤慨してくれているようだ。
「私の芝居が下手だったのかな」
「それはないと思います。石上先輩、実際に顔色が悪いように見えましたから。事情を知ってる僕でも、本当に病気なのかな? と思ったくらいでしたから。汐見先輩のあの演技くらい嘘くさければ、一発でばれますけどね」
「本人に言っておくよ」
「やめて下さい!」
それから私たちは一階食堂に下りていった。「さほど悪くはないが、あくまで風邪を引いたまま」という体を装うため、私は(実際にはほぼ完治していたが)生気のない顔を作った。例によって席順はシャッフルされている。空いている席に着くと、まず乱場が、私が重体に見えたのは自分の勘違いだった、と詫びた。二階での我々のやりとりを知らない河野は、心配していいのかどうか曖昧な目をしていたが、火櫛と霞の表情は涼しいものだった。
霞などは、私と目が合うと、桜色の唇を弓なりにして口角を上げ、意地悪そうな笑みまで浮かべる。笛有霞、やはり。
朝食が始まったが、気分的なものなのか、私は本当に病状が悪くなったような気がして、あまり食事が喉を通らなかった。霞は、早々と箸を置くと(いつものように小食だった)、
「食後にコーヒーをいただきませんか。私、また村茂さんの淹れたコーヒーが飲みたいわ」
そう提案して、ナプキンで口元を拭った。
「ええ、喜んで」
ご指名を受けた村茂が即座に返事をした。
「いいですね」
と高井戸も賛成する。その目は霞を、さらには彼女が置いた、ワンポイントのように口紅の色が移ったナプキンに注がれていた。恐らく彼は、また霞が刺激的な服装で現れることでも期待しているのではないか。他のメンバーは、霞の提案に賛同の意を表しも、不参加の表明もしなかった。つまり無言を貫いていたということだ。
「では、十時にリビングで」
コーヒータイムの開始時刻を決めて、霞は食堂を去った。食堂の時計によれば、現在時刻は八時十分前。約二時間後ということになる。
食事も終わりかけの頃、村茂が、
「今日は、俺たちに何か手伝う仕事はありませんか」
火櫛に訊くと、
「いえ、何も。今日は皆さん、自室やリビングでくつろいでいて下さい」
そう答えて火櫛は立ち上がり、霞に続いて食堂を出た。もう私たちが後片付けをすると決めてかかっているのか、いつもの「食器はそのままに」という言葉は聞かれなかった。ただ、自分の使った食器だけは、厨房まで運ぶワゴンに置いていってくれたが。遠ざかっていく火櫛の足音が聞こえなくなると、
「くつろげったって、なあ」
汐見が朝霧を見て、彼女も頷きを返す。
「私、もういい加減に帰りたいわ」
河野も不満を訴えて、高井戸を見たが、彼は何の返事も返さず、
「じゃあ、俺は部屋に戻るわ」
食器をワゴンに載せると、三人目の退出者となった。河野は深く嘆息する。
「俺は、コーヒーの用意をしてくるかな」
村茂も立ち上がり、高井戸と同じように食器をワゴンに置いて廊下に出た。彼の行き先は自室ではなくリビングだろう。
それから数分は、誰も席を立つでなく、食事を続けるでもなく、まんじりとした時間が過ぎていった。そこに、
「あっ」
汐見の声に目をやると、出入り口に笛有庸一郎の姿があった。相変わらず、骸骨が白黒の服を着たような出で立ちで敷居の上に立ち、私たちを見回すと、
「霞は?」
「もう、食事を終えて戻りました」
乱場が答えた。
「そうか。で、薬は?」
「はい?」
「霞は、薬を飲んでいたか?」
そういえば、霞はいつも食前に薬を飲んでいた。父親である、この庸一郎に飲むよう言いつけられているという話だった。この質問には河野が答えた。
「はい、食事が始まる前に服用していましたよ」
乱場(と私)は、朝食が始まる直前に食堂に入ったため、その現場を目撃していなかった。それを聞くと庸一郎は無表情のまま満足そうに頷き、踵を返して歩き去ろうとした、そこに、
「待って下さい」
乱場が声を掛けた。庸一郎はぴたりと足を止め、体ごと振り返る。乱場は立ち上がって、
「庸一郎さん、少し、お話させてもらってよろしいですか?」
庸一郎は返答を返さなかったが、立ち去りもしなかった。それを見た乱場は、出入り口に一番近い空席を示し、座ってくれるよう促す。庸一郎は数秒間の無言ののち、おもむろにその席に着座した。
「庸一郎さん、ありがとうございます」
乱場は礼を述べた。庸一郎は相変わらず何の返事も返さず、表情も微動だにさせなかったが。
「この館、〈妖精館〉について、お訊かせ願えるでしょうか?」
無言を了承の意味に理解したのか、乱場は続けて、
「ここは、どういうところなんですか? どうして、外界との接触を拒んでいるのですか?」
「……妖精館、か」またも数秒間の無言を挟んだのち、庸一郎は口を開き、「誰かが言い出したのだよ」
「言い出した?」
「おお。『妖精がいる、ほら、あそこを飛んでいる』などと抜かしてな。見ると、何のことはない、窓の外を舞っている蝶だったよ」
〈妖精館〉の名前の由来らしい。乱場の質問に対しては見当外れの返答だが、そこを指摘して機嫌を損ねて帰られても困る。乱場もそう考えているのは間違いない。
「蝶……この周辺に生息している、オオムラサキという蝶々のことですね」
庸一郎の話に合わせて会話の舵を切った。
「ふはは」と庸一郎は笑い、「まあ、蝶を妖精に見間違えるなど、かわいいものだて。他のやつなど……」
ここで言葉を止めた。
「その、蝶を妖精と見間違えたというのは、誰なんですか?」
庸一郎の「誰か」という言い方からして、霞や火櫛でないことは明らかだろう。が、乱場のこの質問に、庸一郎は沈黙でしか答えなかった。これ以上突っ込むのは危険だと判断したのか、乱場は、
「実は僕たち、アクシデントから、この館、妖精館に辿り着いてしまったんです。泊めてもらったうえ、食事やお風呂まで提供していただき、本当にありがたいのですが、そろそろ帰らないといけないんです――」
「帰れんだろう」
今度は即答した。私は――この場にいた他のメンバーも同様だったはずだが――戦慄した。庸一郎の、淡々とした口調で、まるでそれが当たり前のことであるかのように「帰れない」と言われたのだ。変に凄みを利かせた声で脅されるよりも、一層の恐怖があった。
「帰れんよ」改めて庸一郎は告げて、「アクシデントだろうが何だろうが、ここに来た以上、お前さんらは誰ひとり、ここからは帰れん」
「か、帰れないって……」さすがの乱場も若干声を震わせながら、「どういう意味なのでしょう?」
「そのままの意味だよ」
真っ直ぐに乱場を見据えながら答える庸一郎の姿に、私は恐怖を通り越して滑稽ささえ感じた。
「僕たちが帰る手段は、何かないのでしょうか?」
庸一郎は黙ったまま首を横に振った。
「た、例えば」乱場は諦めない。「僕たちが、皆さんの、笛有家の仲間、同士になる、とか……」
それを聞くと、庸一郎の薄い眉がぴくりと動き、
「……そうか、ふふ、霞のやつ」庸一郎は、にやりとした笑みを浮かべると、私たちを見回して、「だが、いかんせん数が多いな」
「数が多い? それは、僕たちの人数のことを言っているのでしょうか?」
「いち、にい、さん……」庸一郎は、目で私たちを数えだし、「六人か――」
「八人です。二人、席を外しています」
すぐに乱場が人数を訂正した。
「どのみち、多すぎるて」
「では、何人なら――」
「お父様」
庸一郎の背後から声が掛けられた。娘の霞だった。座ったまま、庸一郎はゆっくりと振り返る。
「お父様」霞はまた父を呼び、「すぐに朝食をお持ちしますわ。お部屋にお戻り下さい」
庸一郎は億劫そうに椅子から腰を浮かせると、娘の横を通り抜けて廊下へ向かう。
「あ、あの――」
その背中に乱場が声を掛けたが、
「お父様はご病気なのです。話し掛けることはご遠慮下さい」
霞に制されてしまい、その間に庸一郎の姿は廊下へ出て見えなくなった。
「病気」
「はい」と霞は、乱場から私に視線を動かして、「仮病じゃありませんよ」
愉快そうな笑みを浮かべた。




