第16章 分水嶺
「……先輩、石上先輩」
声を掛けられるとともに肩を揺すられ、私は目を覚ました。ぼやけた視界ながらも、私の顔を覗き込むようにしているのが――そして掛けられた声からも――乱場だということはすぐに分かった。
「ああ、乱場くん」
「石上先輩、夕ご飯です」
「もう、そんな時間か……」
「午後六時半です。起こすのは悪いかなとも思いましたが、食事だけは摂らないとと思って。病気なら、なおのこと」
「ああ、ありがとう」
上体を起こすと、乱場が私の額を触れて、
「熱は……ちょっと下がったみたいですね」
「そうみたいだ。少し気分も楽になった」
そう答えて私は乱場の手を握った。寝る前に比べて、彼の体温を温かく感じる。ということは実際、薬による解熱作用が効いたということなのだろう。私はベッドから起き上がると、
「みんな揃ってるのかい?」
「はい。庸一郎さん以外は、全員」
「あの人は、またも欠席か」
「みたいですね。というか、何だか霞さんも火櫛さんも慣れっこだから、庸一郎さんは普段から、あの二人とは一緒に食事をしていないみたいですね」
「そんな感じがしたよ」私はベッドから起き上がると、タオルを掴んで、「顔を洗ってから行くから、乱場くんは先に下りていてくれ」
「いえ。僕も一緒に行きます。石上先輩が途中で倒れでもしたら大変ですから」
「ありがとう。乱場くんはやさしいな」
私は彼の頭をそっと撫でた。さらさらの髪の感触が手の平に心地よい。
「料理は、また全て河野さん、汐見先輩、朝霧先輩の三人で全て用意できたそうですよ」
「それはよかった。あの三人もやるね。こう何度も続くと、さすがに火櫛さんに怪しまれるかという懸念もあったんだけれど」
「河野さんたちの話では、火櫛さんは、むしろ食事の用意をする手間が省けて、ありがたがっていたみたいです」
「そうなのか。ということは」
「はい。少なくとも、火櫛さんには、僕たちが口にする料理に何かを混入させようという魂胆は、最初からなかった可能性もありますね。もしくは、河野さんたちがあまりにしつこいから、諦めたとか」
「はは」
犯人が食事に睡眠薬を入れようと企むが、標的が親切心から食事の準備を全て請け負っていまい、毎度未遂に終わり歯ぎしりする。そんな、すれ違いシチュエーションコントのような情景を私は思い浮かべた。
「そうだ、乱場くん、河野さんといえば、彼女の様子は、どんなだった?」
「普通です。何ら変わったところは見受けられませんでした」
「そうか。一時の激情に駆られただけで、すぐに冷静になったのかな」
「だといいんですけれど。でも、飛原さんのほうは……」
「相変わらず?」
「です。村茂さんが呼びに行って、一緒に食堂に下りてきて席に着いたんですけど、何も喋りません。僕たちと目を合わせもしません」
「困ったものだね」
ひとつため息をつくと、私は乱場と一緒に部屋を出た。
顔を洗い終え、乱場と一緒に食堂に入ると、
「部長、熱はどうですか?」
「石上くん、風邪を引いたんだって? 大丈夫か」
朝霧、村茂をはじめ、ほぼ全員から心配の声をもらい恐縮した。ほぼ全員、というのは、まず、飛原は私を横目で見ただけで声を掛けなかったのと、また、火櫛と霞も彼と同様、私の顔を見ても何も口を開かなかった。火櫛は無表情で、霞は、いつものような、良く捉えれば屈託のない、悪く見れば何を考えているか分からない、妖しさを秘めた笑みを湛えながら。
皆が座っている席は、朝食のときとはまたシャッフルされていた。私と乱場が開いている席に着くと、
「いただきまーす」
待ちかねていたかのように(実際そうだったのだろう)、汐見が手を合わせて一番に食事にありついた。夕食の献立はカレーライスだった。しかも、テーブルの上にカレールゥの入った鍋と、ご飯を入れたおひつが置かれていることから、各人に配られたカレーは、この場で盛りつけられた可能性が高い。全員が同じ鍋やおひつに入ったものを口にするということは、もし何者かが薬物などの混入を企んでいたとしても、実行するのは相当難しい、というよりも、ほぼ不可能だろう。私は安心してカレーライスにスプーンを入れた。
夕食は、淡々と進んだ。昼食(正確には昼食後のコーヒータイムだったが)のときのように、霞が妖艶な魅力を振りまいて男性陣を翻弄するというようなこともなかった。もっとも、ソファ掛けのリビングと違い、テーブル席がきっちりと割り当てられたこの食堂では、霞が自由に席を立って各人のもとを廻るというのも不自然だ。さらに、このときの霞は、昼食時のような胸元の大きく開いたシャツ姿ではなく、露出の少ない白と黒のモノトーンに戻っていた。私は、また霞がリビングへ食後のコーヒーへと私たちを誘うかと思っていたのだが、彼女は誰よりも早くスプーンを置くと(半人前程度の分量しか食べなかった)、
「お父様の分も、少しだけ残しておいて下さいね」
と告げて席を立った。それに「お、おう」と答えたのは、ひとりだけ三杯目のおかわりを食べている最中の汐見だった。霞は微笑を浮かべると、「ごちそうさま。おいしかったわ」と言い残して食堂を出た。
結果、夕食は何の滞りもなく終わった。私は注意深く観察していたが、河野は、食事中に時折、朝霧や汐見たちと女子トークに花を咲かせており、特段普段と変わった様子は見られなかった。ただ、彼女が口を利くのは、朝霧、汐見に乱場、私も加えた高校生組ばかりで、他の大学生三人とは一切会話をしていなかった。高井戸に対しては、まだわだかまりがあるのだろうし、村茂にしても、昼に霞の色香に惑わされたという事実が、河野に嫌悪感を抱かせているのかもしれない。霞に対して無反応だった飛原は、彼女に忌み嫌われる要因はないと思われるが、飛原の場合は、そもそも彼自らが率先して口を閉ざしているのだ。事実、村茂が――料理についての他愛のない話についてでも――話し掛けても、ああ、とか、うん、とか、曖昧な返事を返すだけで、心ここにあらず状態は継続されているように見えた。
そして、昼に河野の機嫌を損ねる一番の要因になったと思われる高井戸だが、彼の様子も少しだけ違って見えた。霞のことを意識しているのが――男女の恋愛の機微に疎い私にさえも――丸わかりだった。ほぼ絶えず視線を霞に向けており、飛原同様、話し掛けてくる村茂の声に、聞いているのだかいないのだか分からない、ぼやけた返事で応じていた。
食事が終わり、昨夜と同じ、女性陣、大学生男性、高校生男性の三組に分かれて順番に風呂を使う。体調が完全に回復していない私は、風呂はやめたほうが良いのではないかと皆に言われたが、昼間に森や霧雨の中を歩いた汗を流したかったため、入ることにした。私は食後に村茂からもらった風邪薬を飲むのを忘れなかった。
風呂から上がり、ベッドに横になった私は、天井を見上げながら物思いに耽った。これで、この妖精館に来てから丸一日が経過したことになる。夕食の片付けの最中、河野たちは明日も朝食を自分たちに作らせてくれないかと火櫛に頼んでおり、彼女はその申し出をあっさりと許可した。というよりも、夕食前に乱場から聞いたとおり、火櫛の態度には、ありがたがっているような素振りが見られた。彼女は私たちに一服盛るつもりなど最初からなかった可能性が高い。いったいどういうことなのか。さらに、意味不明な言動を繰り返す霞。輪を掛けて正体不明なのは、彼女の父親の庸一郎だ。私たちは未だ、彼とはまともに会話をしていない。
「何なんだ、いったい」
私は思わず呟いた。風呂を終えても、私たちは昨夜のように一同に集まったりはしなかった。朝から色々な出来事が重なったせいで疲れているのだろう。皆、自室で休んでいるようだ。中には、もう寝てしまったものもいるかもしれない。
スマートフォンで時刻を確認する。充電器を持って来たおかげで、電池切れの心配がないのは救いだ。部屋にはコンセントも設えられている。ただ、電波の届かないこの地においては、やはりこの小さな機械には時計以外の役目を与えることは難しいだろうが。午後十時半。普段であれば、高校生である私たちはもとより、大学生にとってはなおさら宵の口の時刻に違いないが、この館では勝手が違う。すでに深夜であるかのような体感を憶える。顔を横に向けて窓をみる。鬱蒼とした森に囲まれた外は真の闇。人工の明りがないと、夜とはこれほどに暗いのかと私は恐怖を感じさえした。
乱場はまだ起きているだろうか。私は彼と話がしたくなり、ベッドから起き上がった。スマートフォンと、念のため部屋の鍵も持って廊下に出る。すぐ隣のドアを遠慮がちにノックすると、
「はい」
乱場の声がドア越しに聞こえた。
「石上だが」
「ちょっと待って下さい」
すぐに返事が返ってきて、鍵の解錠音のあと、ドアが開かれた。
「乱場くん、まだ起きてたんだね」
「はい。でも、ちょうどトイレに行って寝ようかと思っていたところでしたけど。どうかしましたか?」
「いや、寝ようとしていたなら、いいんだ。おやすみ」
そう言いながら私は、スマートフォンのメール画面に打ち込んだ文章を彼に見せた。
『少し打ち合わせをしないか』
乱場は察してくれたらしい。小さく頷くと、ベッド脇のサイドテーブルに置いてあった、自分のスマートフォンを手に戻ってきて、
『先にトイレに行ってきます。待っていて下さい』
素早く打ち込んだ文章を私に見せた。
乱場は私を部屋に招き入れると廊下に出ていった。彼が戻るまで、私はベッドに腰を下ろして待つことにした。サイドテーブルには鍵が置いてある。ドアが開く前に解錠音がしたということは、乱場は普段は部屋に施錠をしているということか。用心深いのはいいことだ。一分も経たずに乱場は帰ってきて、
『何ですか?』
私の隣に並ぶようにベッドに腰を据え、あらかじめ打ち込んでいたであろう、スマートフォンのメール画面を私に見せた。私は返事を返すため画面を操作する。以下、私と乱場とのやり取りは全てメール画面を介して行われた。
『明日のことなんだけれど、強行手段に訴えてみないか』
『力尽くでここを突破するってことですか?』
『私が明日、病状が悪化して重篤な状態になったということにする』
その画面を見ると乱場は、なるほど、という顔をした。さすがに察しがいい。続けて私は、
『私が今日、風邪を引いたということは、火櫛さんや霞さんも承知のことだから不自然さはないはずだ』
『救急車を呼ぶなりの処置をとってもらうと』
『今までの彼女らの態度からして、救急車は呼ばないだろう。近くの病院まで運ぶという対処をすると思う』
『そのためには、橋を架けるしかないですね』
『もしくは、それ以外の秘密の経路なんかがあれば、それを使ってというのも考えられる』
『でも、上手くいきますか?』
乱場が案じている理由は分かる。
『火櫛さんたちが、私のことを放っておくかもしれないと言うんだろ』
『はい。その可能性は、なくはない、というか、かなり高いのでは』
『それならそれで別にいい。私が本当に重病になったわけじゃないんだから』
『やってみる価値はあるということですね。汐見さんや飛原さんたちには?』
『話さなくてもいいと思う』
『そうですね。知らせないほうが信憑性が高まると思います』
敵を欺くにはまず味方から、のセオリーに則るというわけだ。
『明日の朝、私の部屋を確認した乱場くんが、私の病状が悪化している、とみんなに告げることにしてくれ。今夜、私はドアに施錠をしないで寝るから』
『分かりました。でも、鍵を掛けないで大丈夫ですか?』
『心配ない。私は今夜、寝ないつもりだ。昼間にたくさん睡眠をとったからね。明日の朝になってから、ゆっくりと寝かせてもらうよ』
『はい』
『じゃあ、そういう手筈で』
そのやり取りを最後に、私はベッドから立ち上がった。私と乱場がメールを介して会話をしたのは、当然盗聴対策だ。私は無言のまま出入り口に向かい、音を立てないようゆっくりとドアを開ける。もし、これまでのことが盗聴されているとしたら、私はこの部屋を訪れた時点で、乱場に「おやすみ」と告げて退散していることになっているからだ。乱場も当然それは承知している。私に何の言葉を掛けることもない。ドアの隙間に体を滑り込ませて廊下に出た私は、最後に乱場の目を見た。彼も私の目を見返しており、私たちは無言のまま頷き合った。また、音がしないようドアを閉めて少しすると、室内から鍵を掛ける音が聞こえた。
さて、これで準備は整った。あとは計画を実行に移すだけだ。私は眠れない夜に備えるため、コーヒーでもいただきにリビングへ下りようかと思ったが、明日の計画に信憑性を持たせるためには、私が元気でいる姿を目撃される可能性のある行動は避けたほうがよいと考え、そのまま自室に戻ることにした。
さて、この「妖精館殺人事件」に分水嶺があったとして、それはどこかと尋ねられたら、私は迷わず、この夜だったと断言するだろう。名探偵、乱場秀輔も知る由のなかった出来事が、この夜、ここ妖精館において水面下で進行していたのだ。その出来事さえなければ、翌日に起きた凄惨な殺人事件は回避されていた可能性が高かっただろう。




