オベディエント(2)
「奇跡の子」。確かに織田直樹はそう言った。
馴染みのある言葉では無かった。私は怪訝な顔をしていただろう。
しかし、私の前に座っている透様は、その言葉を怪しむでもなく、
むしろ――何かを恐れるようにして、拳に力を込めているようだった。
「国の機関が行っている実験だ。その第一号が俺。様々な指標で、俺は当たり前のように一位を取れる。答えの決まっている定期試験なんて、余裕だ」
そう語る織田は、悪気なく言っているように見える。
影で血の滲む努力をしている人間が、私の目の前に居る事も知らず。
織田の話は疑わしかったが、そこに整合性はあるように思えた。
「……そうか、君が『奇跡の子』なのか」
やがて透様が、口を震わせて言った。
この反応を見るに、どうも透様は『奇跡の子』を知っていたらしい。
渡家や佐久馬家に伝わる情報を全て受け継いだ私の、知らない所で。
……透様は、何か決意して、まっすぐに織田直樹を見つめた。
「ならば、やはり僕は君に勝たねばならない」
「え?無理だろ」
「……言ってくれるね」
「『奇跡の子』はスポーツに関しても、元来飛び抜けた身体能力を持つ上、ある程度の練習でトップに立てる。学問においても、ある特殊な専門分野でさえ、一度文献に目を通せば高い成績を残すことが出来る。ましてや高校程度で求められている内容なんて、たかが知れているだろ」
あっさりと突飛な事を言いのける織田には、自慢している様子は見られず、
どうやら当たり前にそうして生きてきた事が予想される。
さすがの透様もその言葉には一瞬ひるんだが、めげじと言い返した。
「君が常に勝ち続けられるとでも?そんな事はあり得ない」
「あり得る。だからこそ『奇跡』だ。ま、精々頑張ってくれよな」
キッパリと言い切った織田はふてぶてしく笑い、
それ以上用が無い事を知ると、部屋の方にまっすぐ戻って行った。
入れ替わりで、新入生たちが食堂へ入って来る。夕食の時間だ。
そうして人が増えていく中で、しばらく黙っていた透様がポツリと漏らした。
「……勝てないかもしれない」
少なくとも私は驚いた。透様は少し苦笑なさっていた。
今までどんな相手にも立ち向かい、最後は必ず勝利を収めてきた、
大胆不敵な透様の口から出たとは、とても信じられない言葉であった。
「あの様子だと、織田直樹には欠けている事がいくつかある様に思えるのですが……すみません、まだ調査を終えてないものでして」
「いや、『奇跡の子』は感情が無いと聞く。その分ヒューマンエラーを起こさない奴に、基本的にミスは無いのだ」
「詳しいのですね。私は『奇跡の子』などという言葉、初めて耳にしましたが。」
「ああ、昔ちょっとね……大した事ではないよ」
透様が何かを隠しているのは分かったが、
それを追求するのも相応しくないと思い、私は押し黙った。
透様は立ち上がって、出口の方へと歩きはじめる。
「……僕なりに考えるよ。彼に勝つ、方法をね」
ある倒すべき敵が現れた時、透様は必ず勝つ方法を考える。
そんな時、彼はいつも不敵に笑う。倒すべき目標が居るのは嬉しいのだろう。
しかし、今回は彼の表情に喜びは無かった。
まるで、負け戦に自ら向かっていく、歴戦の将軍の様な表情で、彼は去った。
そうして透様が珍しく弱音を吐いた夜は過ぎていき、
織田直樹との戦いが、逃れられぬものへと変わっていく――。
○ ○ ○ ○ ○ ○
それは教室移動の時の事だった。
いつものように透様の少し後ろに私が控えていたのだが、
透様が、ある生徒を見つけるなり、声を掛けた。
「……優等生の君は、転校生の600点満点の件をどう思っているのか聞きたいものだな、花園君」
「……織田君の事を言ってるの?それなら、単純にすごいとは思うわよ」
少し驚いたような様子で、しかしながら落ち着いて答えたのは、
長髪で女っぽい容姿をしながら、男子学生服をきちんと着ている、
理系一位の優等生、花園優希だった。
「まあ君は理系だから、織田とは直接戦う機会はないだろうね」
「……って事は、同じ文系の渡君は、戦わなきゃいけないのね?織田君、つまりは『奇跡の子』と」
「ああ、やはり君も知っていたか」
「『奇跡の子』は私の祖父が関わっているプロジェクト、当然知ってるわ」
これは私が既に掴んでいる情報であるが、
花園家は特殊な才能を持つ人間が多く、彼の祖父は国のある機関に務めている。
成程、「織田直樹」を送り込んだのは、その機関と見て間違いないだろう。
そして、この学年に「花園」は三つ子で三人いて、
スポーツ万能な翔希、頭脳明晰な優希、語学堪能な英希と、
それぞれ秀でた分野を持つ彼らから見ても、『奇跡の子』は異質な存在のようだ。
「ところでちょうど良かったわ。いま私たちの家に、うちの雑用を兼ねて、『奇跡の子』監視役が来ているの。彼を紹介しようと思うんだけど……」
花園優希が言い終わる前に、教室の中から少し背の高い男がヌッと現れた。
彼は一礼して、少し慌てた様子で口早に自己紹介を始めた。
「初めまして。葛西と申します。お目にかかれて光栄です」
葛西と名乗る男は、着崩されることの多い制服をキッチリと着こなし、
マスクで口元を隠してはいるが、眼鏡の奥から柔和な雰囲気を醸し出している。
高校生にしては大人びて見える彼を前にして、透様は尋ねる。
「……花園君、なぜ彼を僕に?」
「その説明は私からさせて頂きたく思います。私は機関より、とある任務を仰せつかっています。その適任者を、ちょうど探していたのです」
そろそろ教室移動が間に合わなくなるので、
透様、花園優希、それから葛西と、英語Aクラスに向かって歩き出す。
恐らく葛西はAクラスではないのだが、用件をどうしても伝えたいらしい。
そして、任務の内容を聞いた瞬間に、透様は足を止めることになる。
「任務とは、『奇跡の子』織田直樹に『負け』を経験させることです」
「……それが、僕なら適任だと言うのか?」
「はい。ある分野だけ秀でている人間よりも、全般的に優れている人間の方が、勝てる確率は高いと考えています」
葛西はそう言って花園優希と、透様の表情を見比べた。
確かに花園兄弟は、ある分野に秀でているが、それ以外はからっきしだ。
しかも彼らの得意分野でさえ、織田直樹に勝てるかどうかは怪しい。
……透様は全てを聞き終えた後に、こう言い放った。
「言われなくとも、彼には勝つつもりだよ。渡透の辞書に敗北の文字は無い」
「……頼もしいお言葉です。それでは、よろしくお願い致しますね」
葛西はそれを聞いた途端に、Uターンして自分のクラスへ向かった。
代わって花園優希が、透様を持ち上げる。
「さすが渡君よね。『奇跡の子』相手でも、関係ないんだ?」
「……もちろんだよ。必ずや勝利を掴んでみせるさ」
弱音を吐いていた透様は、もはやここには居なかった。
頂点である事を義務付けられた男は、決して他人に弱みを見せられず、
いつも孤独に生きねばならなかった――。




