初めての魔法
白い空間に、二十歳の男がベッドに横たわっていた。
体中に管がつながれ、その管がそのまま自分の命を繋いでいる。
けれど、もう。
朦朧とする意識の中、黒川景は薄目を開く。
八歳の時に体の自由を失った。理由は病気。合併症も多いので、今はもう何が原因で苦しんでいるのかわからない。
寒いような、怖いような、気分が悪いような、不安なような。
グラグラと揺れる視界の中で、医者が慌ただしく何かを叫んでいる。
傍らにいる母は涙を流し、父は母の肩をさすりながら、堪え切れないと歯を食いしばっていた。
ああ、そんな顔しないで。
見る限り母に強く手を握られているらしいが、手の感覚がない。
俺はもう、ダメらしいな…。
悔恨と、感謝と、謝罪と、未練と、諦観を。そのすべてを巡らせながら、言葉にならないことを叫ぶ。
口は動いていない。喉から声も出ない。
それでも、伝えたいこと、たくさんあるんだ。
内から消えていく意識の中、景は皆の顔を見直す。
ああ、どうか健やかに、末永く、生きて―。
そこで、景の意識は途絶えた。…はずだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「!?」
目を覚ますと、足元には規則的に敷き詰められた石畳。周りには市場のような喧騒。
驚きに視線を走らせると、まるでヨーロッパのどこかに迷い込んだような石造りの街並み、周囲の服装。けれどあまり現代的じゃない。ところどころ古めかしいような、独自性が強いような、あまり景が知る服装ではなかった。全く知らない世界に、景はよろける。
ん?よろける?
半歩下がった自分の足先を見て、景は驚愕した。
足が、地面を踏みしめている…。体を、支えている…。腕が、動く…。指が、折れ曲がる…。気持ち悪!俺ってこんな指長かったけ!?
いつしか点滴を打つときにしか見なくなった指を再確認して、自分に嫌悪感を覚える。まるで腕を初めて認識した赤子のように、景は自分の腕から指にかけてを見つめた。
でも、動かせてるよな?自分の意思で。思いっきり病院服のまんまだけど。
腕から足にかけての服は着慣れた病院服。けれど管はつながっていない。夢?夢かな?
ポカンと掌を見つめる景は「死んだのに?」とつぶやく。そして久々にきいた自分の声に驚いた。
声が出る。喉が、ちゃんと言葉を発した。
たまらなくなって、病院服の胸ぐらをぎゅっとつかむ。
ああ、力が入ってる!心臓が脈打っているのを感じる!
景は喜びに満ちた顔を上げた。
管はつながっていない。青空の下、八歳の頃から夢見た、自由だ!
喜色満面の景は、今の体で出せる全力で走り出す。周囲はそれに奇怪な目を向けているが、景は気にしない。
夢なら楽しんだもん勝ちだ。例え死後の世界でも、体が動くことは俺にとっては祝福だ。
地面を踏みしめる感覚が、石畳だからか少々硬い。衣擦れの音がする。鼓動が耳元で鳴っているみたいだ。体が熱くなって、汗が出る。息が切れて、肩が上下する。
なにこれ!最高じゃん!
傍からすると、街道を爆走するヤバい奴以外の何者でもないが、とにかく景ははしゃぎまくっていた。
骨が軋み、肉に神経が宿っている感覚が心地いい。そんな感覚に浸りながら、夢中になって走っていると、前から歩いていた人とぶつかってしまった。
「…!ごめんなさい!」
体の使い方が不慣れで、小柄だった通行人を思い切り突き飛ばしてしまったことに、景は足を止め、踏みとどまる。
「大丈夫ですか!どこかお怪我は…」
必死に問いかけてはいるが、そもそもヨーロッパっぽいところで言語が通じるのか、救急車を呼んでも無料なのか、保険は効くのか、という若干の不安のある中、景は倒れた人の肩を揺らす。すると。
「あいた。ん?あ、いいよお兄さん。気分上っちゃうことってよくあるよね~。ミクスもそう思う!」
思いの外元気に立ち上がった、小柄で後ろに短く髪を束ねた青年、いや、少女か?が溌溂と答える。
可愛らしい顔立ちだが中性的で、長袖シャツに半ズボンのどちらとも言えない服装をしている。というか服ボロボロだな。大丈夫なんだろうか?
景はまじまじとその人を見つめる。
透き通るような肌と、染めているのだろうか、構造色のような綺麗な髪色をしている。そして深く、澄んだような瞳は、蛍石のような輝きを放っていた。
目鼻顔立ちからして、外国人…だよな?街並みもそうだし。けれど日本語が通じてるのか?
よくわからない夢に、景は首を傾げる。
それに合わせて、その人も首を傾げた。
「キミ、だあれ?」
「俺?えっと、黒川景。二十歳。君は?」
「ミックス。ミクスって呼んでもいいよ?」
外国人さんの名前なんてほぼ知らないが、名前で男女の区別はつきそうになかった。
「あ、あの。男性…?」
「女性だよ?」
二択を外した。俺ってなんでこう…。
自分の運の無さと、目利きの悪さに落胆したところ、景はため息をついて冷静に考える。そしてやっと訊きたかったことを口にした。
「ねえ、君は死んだの?それとも死後の世界の住人さん?」
探るように、自分でも理解していない質問をすると、案の定彼女も理解していないように、また首を傾げた。
「んあ?死んだ?なんで?」
「えーっと、俺が多分死んだから?」
間違いないはずだ。だってあの時の感覚はまだ残っている。爆走した後だけど。嬉しさで高鳴っていた胸は、どんどん不安な方へと音を変え始める。だが、突如彼女が猫のようにしゃがみ、目を細め、景の周りをぐるぐると回り出す。一通り見渡し終えると、彼女は何かを結論づけたように頷いた。
「うん。キミの服、センスいいねえ」
「何の話!?俺の質問は!?もう一回簡潔に訊くよ、ここはどこですか!?」
質問を一点に絞り直し、景は多分同い年くらいの彼女を見つめる。
すると彼女、ミックスはわざとらしく顎に手を当て、「う~ん」と唸った。
その拍子に、元から腕に抱えていたのであろう、茶色の紙袋を悩んで力んだ時にぎゅっと潰してしまう。
「あ、そうだミクス、今からこれ届けに行くんだった」
ミックスはそう言うと、思い出したようにクルリと向きを変える。
嫌な予感がして、景は彼女の大きく振った腕をつかんだ。
「ちょっと待ってね。置いて行かないよね?大丈夫だよね?そんなことしないよね?」
「大丈夫だよ元カレ君!だってもうすぐそこだし」
「元カレ君って何?」
別れられないカップルのようだと思われたのか、変なあだ名がついたところで、ミックスは通りの店を指す。
石造りの高層建築。集合住宅って言うのか?白の外装は病院の色とは違う、温かみのあるアイボリーに近い。本当にパリかどこかの建物のようだ。どうやらその一階が店になっているようで、酒屋?だろうか。なんとなく看板の絵がジョッキに見える。
「何ならキミも一緒に来る?変な格好だし、石畳じゃ足が冷たいんじゃない?」
ミックスは景の足先を見つめる。
確かに病院服な上、裸足なので街中じゃ浮く。フランス?パリ?よくわからないが、そんな雰囲気を漂わせるオシャレな街で、自分の格好が酷く無機質すぎて場違いだ。景は少々悩んだが、行き場もないのでミックスについて行くことにした。
「詐欺とかじゃないよね?」
「大丈夫さ、疑り深い君!」
「疑り深い君って何?もはや名詞でもないじゃん、語呂悪」
などとあだ名が変わったところで、石造りの店の扉を開ける。
扉の先はまだ昼だからか、ガラガラで人がいない。焦げ茶の板が敷き詰められた内装は、海辺であれば、海賊が酒をかっ食らっていそうな空間だった。うわー、雰囲気のある店だなあ。などと内装に見とれていると、隣にいたミックスはカウンターへと走り出す。
「モリシー、ここ置いとくよ!あれ?いないのかな?」
モリシー?人の名前だろうか。ミックスがカウンターの奥に声をかけたから、恐らく店員の名なのだろう。しかし今は不在なのか、声は返ってこない。
「またどっかほっつき歩いてるのかな?まあいいや。好きなとこ座ってよ」
「はあ、どうも…」
促されるまま、景は遠慮がちに扉前の席に座る。
ミックスはそこが定位置なのか、ヒョイと慣れた様子でカウンター席に座った。
すると。
「ねえ、キミはさあ、死んだの?」
「多分。病気で。でも目を開けたらここにいて…」
「だから死後の世界?」
「そう。違うの?数年間病院のベッドで寝た切りだったはずなのに、体が動いてるんだ。こんなことって…」
自分で言っていて困惑する景に、ミックスは考えるように「うーん」と唸る。そして顔を上げたかと思うと、カウンター席から身を乗り出して、あることを口にした。
「それは思ったより面白そうだね。ちょっとそこに立ってこう言ってみてよ。“ラウタス”って」
「何だって?“ラウ…?」
「ラウタス!ほらこう立って!手をかざして!」
「う、うん…」
カウンター席から降りてきたミックスは、景を席から立たせ、右手を胸前に掲げさせる。
こんな先生に当てられたくない生徒の手のあげ方で、一体何ができるというのか。
戸惑いを隠せない表情でミックスを見ると、彼女は「“ラァ、ウゥ、タァ、スゥ”」と英語の発音を教える先生ばりに、ゆっくりと大袈裟に発音してくれていた。かなり熱心にジェスチャーまで交えてくれるので、なんかもう言わないわけにはいかない。
そして景は、右手を掲げたまま、隣の彼女の口元を凝視して発音した。
『ラァ、ウゥ、タァ、スゥ?』
そう口にした瞬間、右手から極太の青白いビームが放たれる。それは轟音を響かせながら直進し、石造りの建物を熱で溶かし、ガラスを割り、一瞬にして街を焼き尽くし、終いには城壁に大穴をぶちあけた。
「ぎやあああああ!」「何だ!?」「街が!」「家がああ!」
建物ごと、何なら地平線が見えるまで、何棟もの建物がえぐり取られたかのように焦土と化す。王都すら突破した一直線の焼け跡に、住人たちはパニックを起こした。
「……」
景はその悲鳴に呆然として、広げていた右手をごまかすように背に隠す。ミックスは「わお…」と感嘆の声を漏らした。
景は冷や汗を流しながら、恐る恐る隣の彼女に顔を向ける。
「あのぅ、ミックスさん…?これは一体…?」
大穴が開き半壊した店に、住人たちの視線が集まる。店の後ろが無事な分、出発点が明らかであるため、景とミックスがやったということは一目でわかる。だが。
「すごいや…」
ミックスはこの状況で、なぜか胸が高鳴ったように、蛍石のような瞳を輝かし、無邪気に笑っていた。
けれど景は違う。
「いや、すごいやじゃなくてッ!ど、どどどどうしたらいいのこれ!?弁償?でもこんな国家規模のやつ直せないし…!な、なんか直せる呪文ないの!?ほら、さっきの“ラウ…なんとか“みたいな!」
顔面蒼白で彼女に訴えるが、ミックスはまっすぐ延びた先の地平線に夢中だった。
「すごいっ!すごいや!ケイ!」
「ねえミックスさん聞いて!ミクス!」
頭を抱えて喚く景をよそに、ミックスはなんと手を叩いて軽快に笑っていた。
かくして、景の死後の人生は、波乱で幕を開けたのである。




