第6話 歩み寄り
雨が降っているせいで、時間の感覚がわからず、とりあえず一度、自室に戻ることにした。
「お昼は過ぎてるのかな」
部屋に戻ると、机の上には置き手紙とバスケットが1つだけあった。
手紙はロレッタさんからで、昼食はサンドウィッチで挨拶せずに城に戻って申し訳ないとあった。
「あっ、たまごサンドだ」
見慣れた黄色い具材に少しだけ心が踊ったのは、ライブの遠征先でよく食べていたからだ。
「せっかくだし、あっちで食べよう。……少しだけ、話してみたいし」
バスケットを持って竜のところへ向かう。
なんとなく、夢でみたことを話したくなったからだ。
「薄明竜、お昼ここで食べていい?」
きっとイエスもノーも言わないだろうな、と思いつつ、先ほどの椅子に座って、バスケットを開く。
たまごの黄色い明るさは、何となく雨の憂鬱さを払拭するようで、気分が少しだけ晴れるようだった。
「いただきます」
一口かじると、パンの柔らかさと卵の優しい風味が広がる。遠征先でもよく食べていたし、近所のパン屋でも買っていた、思い出の味だった。
竜を見ると、丸まって眠る姿が目に入る。こうして見ると、どこか大きな猫にも見えなくもない。もちろん愛らしさは皆無だけれど、爬虫類特有の無骨な可愛らしさはあるような気がした。
「薄明竜……あの、ええと……少し、話を聞いてくれる?」
もちろん返事はない。でも、それがわかっていても、やっぱり少し寂しい。
それでも私はめげずに話し始める。「さっき、夢を見たの」――そう言いかけて、ふと気づく。数日も傍にいたのに、ちゃんと自己紹介すらしていなかった。
「夢の話の前に、改めて名乗るね。佐伯晴歌です。晴歌でいいよ。19歳で……あとは、何を話せばいいかな」
少し迷って、夢に出てきた趣味のことを語ることにした。母の影響でアイドルが好きで、歌って踊る彼らを見ると元気が出ること。最近ではバイトを始めて、今度のライブは母の分もチケット代を払うつもりだったこと。
「それから……今食べてるこの卵サンドも、遠征のときによく食べてたんだ。家でも、お父さんがよく作ってくれてね。簡単なのに、あの味がなかなか出せなくて……今度レシピ、聞こうと思ってたんだ」
一口、また口に運ぶ。けれど、次の瞬間、胸の奥がギュッと締めつけられた。
「……そっか。もう、会えないんだった」
言葉にすると、さらに重みを痛感する。
生きていると伝えることも、同じ空の下にいると思うこともできない。
存在してある世界が異なるのだから、全てが違うのだ。
「うん……」
口にしたはずのサンドウィッチが、まるで違う食べ物のように思えてきた。けれど、吐き出すことなんてできずに、無理やり飲み込んだ。喉がつかえて、胸が熱い。
「っ――――」
声にならない嗚咽を押し殺すように、口元を手で覆う。なのに、肩が震え、目が滲む。鼻をすする音が、塔の静けさの中にひときわ響く。
「ご、ごめ、はくめいりゅ、ちょっと、席、はず――」
恥ずかしかった。情けなかった。なにより、こんな姿を、竜に知られたくなかった。
だがそのとき、風に大樹が揺れるような気配が塔の中に満ちる。
ゆっくりと動いた首。
青い瞳が、じっと私を見つめていた。
ゆっくりと竜が立ち上がると、その巨体を揺らしながら、こちらに近づいてくる。
何か逆鱗に触れるようなことでもしたのだろうか――そんな不安に駆られて後ずさりたくなるが、じっと見つめてくる瞳が、それを許さないような気がした。
私は立ち上がったまま、やってくる姿を見届ける。竜は格子のそばまで来ると、膝を曲げて、先ほどと同じように丸くなった。
「えっ、ええぇ?」
素っ頓狂な声を上げる私に、竜はチラリと目を向けたものの、やがて顔を首の中にうずめていく。
そのまま再び眠るような体勢になる……かと思いきや、小さく首を持ち上げて、こちらを見た。
「…………えっと」
どういうことなんだろう。
こみ上げていた涙は引っ込んでしまい、竜の突然の行動に頭が追いつかない。
けれど、竜が格子の近くまで来てくれたのは、初めて出会ったとき以来のことだった。
一歩、踏み出して近づいてみると、その大きさに改めて圧倒される。けれど、不思議と怖くはなかった。
そして、触れてみたい――そう思って、そっと手を上げる。
けれど、まだそこまでは許されていない気がして、伸ばしかけた手を引っ込める。
代わりに椅子をそばまで運び、竜の顔の近くで腰を下ろす。
一口で飲まれてしまいそうなほど大きな顎に、少しだけ緊張したが、不思議と離れがたい気持ちが湧いてきた。
「薄明竜、話……聞いてくれるの?」
間近で見る青い瞳は、まるで深海のような色をしていた。
底までたどり着くのに、途方もない時間がかかりそうな、それでも包み込むような穏やかさを湛えている。
その問いに、グルル……と喉を鳴らすような声を上げ、竜はゆっくりと顔を伏せた。
――――嬉しい。
さっきまで、寂しくてたまらなかったのに。
竜がただ近くにいてくれるだけで、こんなにも心が満たされるなんて。
何を話そう――と、自然と頬がゆるみ、楽しかった記憶が浮かんでくる。
母との遠征の話をしようか。それとも、学校の話?
ちゃんと友達もいたってこと、言わなきゃ。じゃないと、竜に“コミュ障”って思われちゃうかも。
「でも、まずは事務所の話からかな」
久しぶりに一方的なオタクトークができると思うと、少し元気が出てきた。
私は、誰か特定の人を推すというよりも、事務所に所属するアイドルグループ全部が好きだった。
おそらく、男性アイドルグループ好きとしては珍しい方だったかもしれない。
でもそれは、間違いなく母親の影響で、それぞれのグループが持つ個性を楽しみたかったからだ。キラキラの王子様系からワイルドなヤンキー系まで、個性がぶつかるからこそ生まれる輝きが、何よりも眩しくて尊かった。
それが、グループによって、ライブで昇華されたり、普段のSNS上での会話だったり、色々な場面で伺うことができる。
だからこそ、強く惹きつけられた。
特にライブはより際立っていた。
結成して間もないグループは、ちょっとあぶかなっかしくて、でも、全員がいいライブにしようと頑張っている姿が見ることができる。
逆にグループの歴史が長ければ、長いほど、互いの個性を尊重しあい、グループパート、ソロパートでガラリと色が変わる。
ステージに立つ彼らは、本当に素晴らしかった。
特定の人を推すことも楽しいけれど、俯瞰してみることによって、彼らが作る世界――すなわち月や太陽にも負けないくらいの光輝くステージを堪能することができるんだ。
(……思い出すだけで、ゾクゾクするな)
今回のライブコンセプトはなんだろう、どんな魅せ方をしてくれるんだろう。
それをライブ前はいつも想像して、ドキドキして、興奮していた。
ロレッタさんが夕食を運んでくれるまで、私はずっと夢中になって、薄明竜に話しかけていた。