第3話 薄明竜
薄明竜が住む塔は、貴賓室から遠く離れた場所にあった。
広い城内を抜けて外へ出て、庭園を横切ると、ようやくレンガ造りの巨大な塔が見えてくる。
高さは灯台ほどで、横幅もある円筒形の建物だ。
ガラスのはまっていない小さな窓がいくつか設けられ、空気が通るよう工夫されている。
「ハルカ様。手前に見えますのが、今後のお住まいとなる場所でございます」
「えっ!?」
アンブローズおじいちゃんが立ち止まり、丁寧に説明してくれる。
塔の横には、小さな平屋のログハウスがくっついていた。
てっきり、城の中で過ごすものだと思っていたから、これは予想外だ。
たしかに『竜の聖女』である以上、竜の近くにいるのは当然かもしれない。
けれど、まさか、ずっと一緒に暮らすことになるなんて。
「お住まいについては、また後ほどご案内いたしますね」
「アンブローズ、説明など不要だ。どうせ使われることはない」
「えっ……?」
ウィリオット王子の苛立ったような声に、思わず聞き返してしまう。
どうしてそんなことを言うのか――と考えているうちに、塔の異様な造りが目に入る。
外壁は異常なほど塗り固められており、まるで“外へ出してはならない”という、無言の圧力すら感じられた。
「……ウィリオット様。ハルカ様は、違うかもしれませんぞ」
アンブローズおじいちゃんが、ちらりと私に視線を投げかける。
その意図は読み取れなかったけれど、私は黙って頷いてみせた。
そのまま一行は塔の正面へ回り込み、大きな鉄扉の前にたどり着く。
そこには門番の騎士が二人、無言で立っていた。
「竜の聖女様ですね。お待ちしておりました。我らはこの扉の番を任されております、ドルガスア騎士団第一部隊、アイオス・レイボーン。こちらはオットー・ロッソコルサと申します」
アイオスと名乗った騎士は、深々と頭を下げる。真面目そうな雰囲気の人だ。
対照的に、オットーは人懐っこい笑みを浮かべながら、「どうぞ、よろしくお願いします」と軽く会釈をした。
二人とも二十代前半ほどで、騎士らしい引き締まった体格をしている。
私もそれにならって頭を下げると、少し驚いたような顔をして、二人ともニコリと微笑んでくれた。
「先にお伝えしておきます。こちらの扉は、王族または聖女の許可がなければ開かぬ仕組みとなっております」
見上げるほどの扉は重厚で、騎士たちの警備も相まって、非常に厳重な印象を受ける。
「また、くれぐれも大声を出さぬようにご注意ください。格子の向こう――すぐそこに、薄明竜がおりますので」
塔の中に巨大な竜がいるという事実に、緊張が高まっていく。
ドルガスアの守護竜とはいえ、三百年以上前は悪逆非道の限りを尽くしていた存在だ。
私はまだ“聖女”になってから一時間も経っていない。
竜を鎮めるどころか、自分に何ができるのかすら分からないままだ。
できることなら、穏便に竜と対面したいと願ってしまう。
ウィリオット王子が鍵を差し込むと、扉が重々しい音を立てて開錠された。
アイオスとオットーが左右からゆっくりと扉を開ける。
先頭のアンブローズおじいちゃんに続き、ウィリオット王子、その従者、私、そして門番の騎士たちが順に中へと入っていく。
(広い……)
塔の中は、小窓から差し込む日差しのおかげでほどよく明るく、空気も比較的澄んでいた。
直径の半分ほどを、太く長い格子が横切っている。その格子は天井付近で折れ曲がり、壁へと突き刺さるように設置されていた。ゆうに二十メートルは超えていそうな構造は、まるで巨大な鳥籠だ。
そして、その格子の向こう側に――薄明竜がいた。
「――――ッ!」
その美しさに、思わず息を飲む。
薄明竜という名の通り、夜明けと夕暮れの刹那にきらめくような、白銀の輝きをまとった竜。
光を受けてきらきらと光沢を放ち、呼吸に合わせてその輝きが幾重にも変化する様子は、彩度の異なる万華鏡をゆっくりと回しているようだった。
圧倒的な力を感じさせるその姿は、まるで最高の職人が無駄なく、力強く、そして繊細に仕上げた彫刻のようで、先に聞いていた「悪逆非道」という評判が信じられないほど、優美だった。
その大きさは、博物館で見たティラノサウルスとほぼ同じくらいに思える。
蛇のように長い体ではなく、頭と胴体、尻尾とが明確に分かれていた。
人をひと飲みにできそうな大顎に、鋭く伸びた銀の角。
どんなものでも薙ぎ払えそうな大きな爪が四肢にあり、その巨体に相応しい、コウモリの羽根のような大きな翼が背にある。
初めて目にするはずの“竜”なのに、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、その神々しさに――心が惹きつけられる。
あまりにも安直だけど、「カッコイイ」としか言葉が出てこない自分が少し恥ずかしい。
それでも、ファンタジーにおける“最強の存在”を、今この目で見ていることが、ただただ嬉しかった。
(そっか、嬉しいんだ)
この高揚感の正体は何だろうと戸惑っていたけれど、ここに立って、ようやく理解した。
――私は、この竜のために呼ばれたんだ。
目の前にいる、この美しい生き物のそばにいられる。
どう言葉にしていいかわからない不思議な感情が、じわじわと胸に広がっていく。
「薄明竜様。このたび、新たにお呼びいたしました聖女様になります」
アンブローズおじいちゃんが一歩前に出て、竜に向かってそう紹介する。
竜はその声に反応して、グルル……と唸り声をあげ、巨体を揺らしながら、私たちの方へと少し近づいてきた。
まさか近寄ってくるとは思わず、私以外の全員が思わず一歩退いた。
けれど竜は、そんなことは意にも介さぬ様子で、その青い瞳でこちらをじっと見定めてくる。
(……聖女を、探しているのかな?)
私は自然と一歩、前へ出る。そして、その目を見つめ返した。
「ハルカ様!?」
アンブローズおじいちゃんの驚いた声が背中越しに聞こえたけれど、私は惹かれるように、さらにもう一歩、竜へと近づいた。
「あの、薄明竜……」
届くかわからないけれど、そっと声をかけてみる。
途端に、バチッと目が合った。心臓が跳ね上がる。
その瞳は、まるで魔性のように、煌めいていた。
「えっと、佐伯晴歌です。よろしくお願いします」
一礼してから顔を上げ、微笑んでみせる。
通じるかどうかはわからないけれど、「敵意はない」ということだけは、伝えたかった。
竜は少し目を見開き、数秒間、じっと私を観察した。
けれど、やがて関心を失ったように視線をそらし、その場でくるりと背を向けて、奥の方へと戻っていく。
そのまま、ゆっくりと丸くなって動かなくなってしまった。
――返事はない。
竜の声が頭の中に響くわけでもなければ、何か特別な反応があったわけでもない。
(竜の“制御”って言われても……。そもそも、どうやってコミュニケーションを取ればいいんだろう?)
逆にもっと観察したくなって、格子に手をかけようとした、そのとき。
「お前っ!」
ウィリオット王子の、驚き混じりの叫び声が飛んできた。
「えっ、あの……ダメ、でしたか?」
「……そうじゃないだろう。普通は」
彼の眉間に深く刻まれた皺に、私はさらに戸惑ってしまう。
「ハルカ様、一度、戻りましょう」
アンブローズおじいちゃんが、意味ありげに目を細めて笑っていた。
先ほどは私の行動を止めようとしていたのに、今はどこか、優しく見守るような眼差しに変わっていた。
騎士たちが扉に手をかけ、ウィリオット王子や従者たちも静かにその場を後にする。
私も続こうとして――ふと、振り返る。
もう一度だけ、あの竜の姿を目に焼き付けたかった。
誰にも興味を示さない、孤高の美しさを秘めたその存在に――私は、美しさと、そして確かな「強さ」を感じていた。
「ハルカ様?」
「あっ、はい。今すぐ行きます」
声をかけられ、急いであとを追う。
塔の外へ出ると、さっきまでの高揚感が静かに消えていき、どこか、肌寒く感じられた。まるで胸の中にぽっかりと、小さな空洞ができたみたいだった。
そこへ、控えめな色合いの服を着た男性が城内の方から近づいてくる。
物腰や装いからして、おそらく文官だろう。
どうやらアンブローズおじいちゃんに、伝言を届けに来たようだった。
「ハルカ様、陛下との謁見の時間が取れました。ご挨拶をお願いしても、よろしいでしょうか」
「えっ、あ、はい……」
竜の次は、国王陛下との謁見――?
後ろ髪を引かれるようにして、私は再び塔を振り返った。
(まだ……全然、足りないよ)
初めて出会った時から、私は薄明竜に、強く心を惹かれていた。