第6話
目を開くと、視界の上半分が影で覆われていて、下半分からは青い空が見えた。
そして、影から垂れるカーテンと垂れる液体。
僕は少しの間をおいて、それが人の頭であることを認識した。
カーテンは髪の毛で、液体は涙。
その涙が僕の頬にぼろぼろと落ちていて僕の頬はびしょびしょになっていた。
一体どれだけ泣けばこんなに濡れるのだろうか?
目が、合った。
『彼女』は、目を覚ました僕を見て、嬉しそうな、申し訳なさそうな、怒ったようなよくわからない表情を浮かべて、口を動かした。
この時僕は多分、初めてマスクを外した彼女の顔を見たのだと思う。
そして彼女はたどたどしく言葉を紡いだ。
「――ごっ・・・めん・・・な・・・さい・・・っ」
かすれて、震えて、小さくて
声を絞り出すような、謝罪の言葉。
僕は、咄嗟に何と返していいのか解らず、気付けば口を開いていた。
「何だ・・・喋れるじゃないか。心配して損した」
彼女は喋らないのではなく喋れない。そんな想像を勝手に決めつけていた僕としては少し裏切られた気分だ。
でもまぁ、そんな裏切りも悪くない。
僕は何を思ったのか、痛む腕を持ち上げて、彼女の頭を撫でた。
見た目通りざらざらとした髪の感触。
「大丈夫、死んじゃいないよ。だから、謝らなくて大丈夫」
ほっそりとした彼女の両手が僕の手を包んで、彼女は泣きながら何度も頷いた。ひんやりとした彼女の手の温度が心地よかった。
「ゆき・・・や・・・」
首を動かして声のしたほうを見やると、夜兎啓一が放心したようにそこに立っていた。
「何だ・・・いたのか」
「いたのか・・って、お前大丈夫か・・・?何が起きたのか覚えてるか・・・?」
「大丈夫、覚えてるよ」
僕は三対一のケンカに負けたのだ。渡瀬霞という少女を助ける為に。
いや、助けるなんて言葉はおこがましいのかもしれない。
勝手に殴り掛かって、勝手に負けた。そこにたまたま渡瀬霞という少女がいただけ。
大丈夫、頭は正常運転だ。
「で・・・救急車、呼んでくれた?」
「きゅ・・・そうだ救急車っ、今呼ぶから待っ――」
「冗談だよ冗談・・・呼ばないでくれ、面倒事になりそうだし・・・」
「なっ、冗談?でも本当に大丈夫か?体は?どこが痛い?喋れるか?」
「いや今喋ってるじゃないか・・・とりあえず全身痛くてしょうがないかな」
どうやらこの場で一番テンパってるのは啓一かもしれないな・・・
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そうして時間は少し流れて、気付けば僕は渡瀬さんのマンションにいた。
広いリビングのソファで僕は黙って消毒液を顔に塗ったくられている。
なお啓一は、ズタボロになった僕の制服の替えを買いに出ているので、今は渡瀬さんと二人きり。噂の彼氏どころか家族さえもいない。
なぜこんなことになったのかというと理由はいくつかある。
一つ、渡瀬さんの自宅が本当に近かったこと(場所は僕の利用している駅の正面で、学校から十分という好立地だった)
二つ、ぼろぼろの姿で姿で歩き回ると補導される危険があるということ(ちょっとこれは心配しすぎな気もするが・・・)
三つ、渡瀬さん自身が身振り手振りながらも強くそう望んだこと(あんなことがあっては一人になるのが怖かったのだろう)
そんなこんなで僕は黙って渡瀬さんの看病を受けているのだった。
ぺたぺたぺたぺたと消毒液の染み込んだ脱脂綿が、僕の顔に何度も何度も触れる。
正直、胃が痛い。
何かがおかしい、可愛いなんて感想は全然抱いていないはずなのに。
あぁ、多分そこを消毒されるの一〇回目くらいなんだけど・・・
あぁそうか、渡瀬さんの厚すぎる化粧ってこういう風に生まれたんだろうな・・・
そろそろ開放してくれないかなぁ・・・
というか僕そんなに出血してるか?どちらかと言うと打撲だと思うのだけど・・・
そうして三〇回を超えたころ、僕は我慢できなくて口を開くことにした。
「あ、あのさ・・・」
「?」
「そろそろその・・・あの・・・化粧を落とさない?」
「?」
「ああ、僕じゃなくて渡瀬さんのね?」
「・・・」
なんだかすごく嫌そうな顔をされた。
でも、言わなくちゃいけないよな・・・
「なんていうかさ、その・・・」
男子で言えば『ズボンのチャック開いてますよ』並みの言いずらさだと思えば多分理解してもらえると思う。
言え、言うんだ僕。言われない方はもっと辛い。後になって気づいたときの恥ずかしさを思い出すんだ。
「顔、すごく、怖い」
「・・・!」
なんというか、顔を何度も擦ったせいだと思うが、化粧が涙と摩擦で伸びまくって悪魔のような顔になっていたのだった。
「僕はもう大丈夫だからさ、その・・・一回顔を洗ってきたら?」
彼女は今度こそ、こくんと頷いたのだった。
そうして渡瀬さんが顔を洗っている間、僕は改めて部屋を観察した。
僕が座っているのは二人掛けのソファで、L字型に同じソファが配置してある。
正面には大きなテレビが置いてあって、そのテレビ台の下には最新型のゲーム機。
中央に位置するローテーブルには薄く積み上げられた何冊かの文庫本と、今日初めて使ったかのような開け放たれた救急箱。
すぐ隣はダイニングになっていて、テーブルが一つと椅子が四つ。カウンターを挟んだ向こう側は多分キッチンで、大きな冷蔵がでんと構えている。
渡瀬さんが消えて行ったのはその奥の通路で、左右に扉が合わせて三つ、多分風呂場とお手洗いと、反対側は寝室だと思う。
1LDK
それが彼女の住む家。
一人で住んでいるとしたら、それは明らかに広すぎる間取りのようにも感じる。
なお部屋はカードキー式のオートロックで、マンション入り口の自動ドアもカードキー式。なかなかに豪華な仕様だ。
ただ、生活感が、無い。
感じるのはただただ違和感ばかりで、この部屋で渡瀬霞という少女が生活しているという風景がどうしても想像できないのだ。
その人が住んでいる空間を見ればその人となりが分かるというが、僕がこの部屋に入って分かった事と言えば、本を読む趣味があったということだけ。
僕は痛む体を動かしてテーブルに乗っていた文庫本を手に取った。
『不良と優等生と』
タイトルにはそう書かれていた。僕はこのタイトルを知っていた。
不良の高校生男子が優等生な女子に恋をするという内容で、コメディなシーンが多い。要するにラブコメ。
ふうん、渡瀬さんこういうの好きなんだ。
ちなみに絶賛アニメ放送中で、やっているのが日曜深夜二六時半、曜日で言えば月曜の夜中。僕がこの作品を知っていたのは月額性の動画配信サービスで見ているから。
でも、彼女がこの作品を見て笑っているところは、どうしても想像できなかった。
そんなタイミングで足音が聞こえた。
渡瀬さんが帰ってきたのかな、と思ってそちらを見やると――
――美女が立っていた。
雪のような白い肌と長い金髪。細く切れ長な瞳に小さな鼻、柔らかそうな唇。
身にまとうジャージはひどく色気の無い小豆色だが、その内側から色気が溢れてくるようだった。
可愛い、というよりは綺麗、美しいといった印象の方が強い。
――誰だ、この女性は誰だ。
そして僕が固まっていると、すたすたとこちらに歩いてきて
――迷わず僕の隣に腰かけた。




