第52話:値を下げません。無くします
書き取った並びは、二十七あった。長短の連なりを、ロザリンドは紙に写した。長を横棒、短を点にして、そのまま並べる。
読めない。旗語の覚え書きは形と色と高さの話で、灯りの間については、二枚目に一行しか書いていない。
「ガレト殿」
夜明け前に、老水先人を叩き起こした。
「これを見ていただけますか」
「……俺は灯りは読まん。読めるのはエイナルだけだった」
「読まなくて結構です。数だけ見ていただきたい」
彼女は、紙を卓に広げた。
「この並びの中に、同じ形が三度出てきます。ここと、ここと、ここ」
「ふむ」
「三度出る形は、たいてい、繰り返しても意味の変わらないものです。数か、刻限か、方角です」
ガレトが、腰を下ろした。
「……数だとして、どうする」
「ここに、七つの短が並んでいます。その次に、長が二つ」
彼女は、指で示した。
「七と、二です。ガレト殿。この湊で、七と二の組で意味を持つものは何ですか」
老人は、しばらく紙を睨んでいた。それから、顔を上げた。
「……潮だ」
「潮」
「返し潮は、七日で一巡する。二番目の潮は、明け方に牙瀬の外を回る。漁の連中は『七の二』と呼ぶ」
ロザリンドの手が、止まった。
「場所ではない」
「なんだって」
「あの子は、居場所を送っていません。潮と、刻限を送っています」
彼女は、紙を掴んだ。
「ガレト殿。七の二の潮に乗る舟は、明け方、どこを通りますか」
「牙瀬の外を、東から西へ」
「牙瀬の見えるところに、灯台はありますか」
「……古いのが一つ。三十年前に使わなくなった、廃の塔が」
ロザリンドは、立ち上がった。
「そこです」
ピナが、もう戸口にいた。
「馬、出してます」
「まだ何も言っていません」
「顔に出てました。今日は出てました」
廃灯台までは、崖沿いを東へ二里だった。道は無い。岩の間を縫って歩く。ピナが先を行き組合の若い水先人が三人ついた。アルディスは、湊の代官所へ回った。領主が兵を出す筋を、一つ作りに行ったのである。
塔は、崩れかけていた。屋根は無く、螺旋階段は途中で落ちている。だが、上の縁に、布が一枚結んであった。ピナが、崩れた階段を蹴って登った。落ちかけて、掴んで、また登った。
上の縁に、子供が座っていた。膝を抱えて、海のほうを向いていた。両手首に擦れた痕がある。傍らに、火の落ちた油皿と燃え残りの布があった。
「ヨナ!」
子供は、振り向かなかった。振り向かずに、こう言った。
「……遅い」
「うるさいです。二里走りました」
ヨナは、それでようやくこちらを見た。目が赤かった。
「見張り、二人。夜は下で寝てる。上まで登ってこない。……あたし、登れるって知らないから」
ピナは、その子の頭を、一度だけ乱暴に撫でた。
「あんた、灯り、どこから」
「油皿。壊れた灯台にも、油だけは残ってた。三十年ぶん、底に」
子供は、燃え残りの布を持ち上げた。
「布は、上着」
見張りの二人は、下で眠っていた。組合の三人が縛り上げた。湊に戻ったのは、昼過ぎだった。
支所の板の間に、前の晩と同じ顔が揃っていた。マルロ、エルシー、商人が三人、ガレトと組合の者、コリン。アルディスは、後ろの柱にもたれていた。
ヨナは、卓の隅に座らされて、湯と干した魚を三匹押しつけられていた。
「ギルド長」
エルシーが言った。
「で、これからどうすんの。あの子は返ってきた。けど、向こうは何も失ってない。荷は止まったまま、客は減ったまま」
「はい」
「四月で潰れる、って話は、生きてるよ」
「生きています」
ロザリンドは、卓の中央に立った。手には、二枚の覚え書きがあった。旗語の第一と、灯り語の第二である。
「マルロ。これを、刷ります」
誰も、聞き返さなかった。
「……嬢様。刷るって、何部で」
「湊の船の数だけ。三百と、少し」
「配るんで」
「配ります。ただで」
マルロが、立ち上がった。
「嬢様! それは——それをやったら、うちの商売はどうなるんで」
「痛みます」
「痛むどころじゃありませんぜ! 読み方が誰でも読めるようになったら、うちの封蝋も、いずれ」
「はい。いずれ、そうなります」
エルシーが、卓を叩いた。
「じゃあなんで!」
ロザリンドは、二枚の紙を卓に置いた。
「わたくしは、値を下げません」
彼女は、顔を上げた。
「無くします」
誰も、何も言わなかった。
「あの方の商いは、読める人を少なく保つことで立っています。値を下げれば、あの方はもっと下げます。下げ合いは、金のあるほうが勝ちます」
彼女は、指を一本立てた。
「ですが、読み方が三百枚出回れば、あの方の値は、下がるのではなく、無くなります。無くなったものは、金では戻せません」
マルロが、荒い息のまま、卓に手をついた。
「……うちの封蝋は」
「翼の座は、封蝋の読み方で食べている店ではありません」
ロザリンドは、そこで一度、言葉を切った。
「報せを運んで食べている店です。読み方は、道です。道は、売り物ではありません」
蝋燭の芯が、一度はぜた。最初に口を開いたのは、ガレトだった。
「……刷り座は、どこだ」
「湊に一軒あると伺いました」
「小せえ。三日で百がやっとだ」
「三日で百なら、九日で三百です」
「九日も待てるか。俺が版木を彫る。組合の若いのを出す」
彼は、白墨で汚れた手を振った。
「四十年、値をつけて売ってきた男が言うんだ。……あれは、値をつけるもんじゃなかった」
その晩のうちに、刷り物の見出しが決まった。ロザリンドが書き、ガレトが「難しい字を減らせ」と三度突き返し、四度目でようやく通った。
〈海の言葉 早見
旗のこと 灯りのこと 潮のこと
だれのものでもありません。写して、配って、かまいません。
翼の座 湊バルカ支所 ならびに 湊バルカ水先人組合
お代 いただきません〉
連名にしよう、と言い出したのはガレトだった。
「組合の名が入ってりゃ、湊の年寄りは信じる。……それに、四十年の落とし前だ」
ヨナが、卓の隅で、紙を一枚引き寄せていた。筆を握って、ぎこちなく、二文字書いた。
「ヨナ」。それから、その隣に、三本の線を書いた。書きかけの、あの一文字である。今度は、途中で止めなかった。最後まで書いた。
「父」。
値を下げません。無くします。——版木を彫るのは、値をつけてきた男です。
次話、対照表を編みます。それから、席の話をします。
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