木の声を彫る――トンコリ
連の住む家の近くにある、小さな工房にその人はいた。
平田セイジ。 木彫りの職人。 そして、自らは口にしないが、かつて“語りを削がれた”アイヌの末裔。
連の家の近所であったが、付き合いはなく、話をしたこともなかった。
連とエカテリーナはその工房を訪れ、自分たちがアイヌ文化を研究しており、トンコリを作って文化祭で演奏したいことを伝えた。
セイジは、のみと木槌で木彫りの熊を掘っていた。そして連たちを見ようともせずに冷たく言った。「トンコリを作りたい?・・・好きにすれば。 ただし、オレは教えない」
そう言って木槌を振るった。乾いた音が静かに響いた。
しばらく沈黙が続いたが、セイジの放つ近寄りがたい雰囲気に気圧され、連とエカテリーナは、あきらめて帰ろうと立ち上がった。
すると、工房の奥から、白い犬が飛び出してきた。それはアイヌ犬の“イメル”だった。 鋭い目つきのくせに、懐っこい性格で知られる雌犬。
連は思わずつぶやいた。「あ、いつも餌をあげているイメルだ。」
蓮は、入学して間もない頃の学校からの帰り道、セイジの工房の裏道を通ることが近道だと知った。
しかし、そこを通る度、白いアイヌ犬が牙をむきだして吠えてきた。それがイメルだった。最初は怖いと感じて引き返していたが、ある日家から持ってきた食パンを与えてみた。犬は、最初は敵意をむき出しに吠えていたが、食パンに気づくと、連に吠えることをやめて、食パンを食べはじめた。連はその隙に通路を通り抜けていた。それから毎日、連は犬に食パンやチーズなど犬の餌になるものを与えては、セイジの工房の裏道を通っていた。
そのうち、イメルは連を見ると、吠えなくなり、嬉しそうに尻尾を振った。
連は、変わらず餌をやり続けた。
ある日、連がいつものようにイメルに餌をやり、食べている隙に通り抜けようとしたところ、工房から年配の女性が現れた。連は一瞬固った。「やばい、叱られる?」と思ったが、その女性は「いつもうちの犬に餌をあげてくれてありがとう。」とにこやかにお礼を言ってきた。
連は戸惑い「あ、いえ、いいんです。」とよくわからない返事をした。
連は年配の女性から、この犬はイメルという名前で、純粋なアイヌ犬であること、過去には狩猟犬として活躍した話を聞かされた。
その話を聞いた連は、アイヌに縁の深いアイヌ犬であるイメルに親しみを覚え、その裏道を通る度に餌を与えるようになっていた。
イメルは連の匂いを感じ取ったのか、うれしそうに尻尾を振って、工房の奥から連に駆け寄ってきた。
連は「イメル、ごめんな。今日は何も持ってきてないんだ。」と言って、イメルの首輪当たりをなでた。
セイジは「おまえだったのか?イメルに餌を与えてくれた子どもは。」
セイジは手を止め、しばらく考えていたが、工房の奥へ行ってしまった。
そして戻ることはなかった。
工房の奥から年配の女性が出てきた。
連は「あっこんにちは・・・」と挨拶した。
女性はすまなそうに、「ごめんね。息子は和人をよく思っていないの。あ、息子って、セイジのことなんだけどね。」
連とエカテリーナは為す術もなく、そのまま工房を後にした。
エカテリーナ「変わり者とは聞いていたけど、あれほどとはね。取り付く島もなかったね。」
連は「うん」としか言わなかった。
「ところで、あのワンちゃん、妙に連になついていたけど、なぜ?」
「ああ、学校に行く途中に餌をあげていたら、なぜかなついたんだ。」
「へえー、餌付けしていたの?やるね。」
「いや、そんなんじゃないよ。ただ近道したかっただけ。」
「私も餌をあげてみたいかも。」
「えっなんで?」
「だって、あの犬は貴重なアイヌ犬、北海道犬というの?これもアイヌ文化研究の一環だわ。」
「まあ、いいけど。犬にとってはチョコとか毒だから、持ってくる餌には気をつけてね。」
そうして、次の帰りにエカテリーナと連は工房の裏道へと行った。
連はエカテリーナに聞いた。「餌は何を持ってきたの?」
「これ。」
それはゼリー状のドッグフードだった。
「うーん。イメルはそういうの食べるのかな?」
「ネットで調べたら、一番人気みたい。」
イメルは連の姿を見ると尻尾を振ってきたが、その後ろからエカテリーナが姿を現すと、少し身構えた。しかし、エカテリーナがドッグフードを与えるとイメルは大興奮してなめだした。
エカテリーナはニコニコして言った。「イメル、かわいいね。」
その時、工房の裏玄関からセイジが現れた。
「イメルは、人を選ぶんだ。普通に餌をあげても、用心して食べないよう躾けてあるんだが・・・お前たちの餌の差し出し方、昔の誰かに似てたんだろうな。まあ、入れ。」
セイジは工房へ入っていった。連とエカテリーナも続いた。
「俺は和人は信用していない。昔、木彫りのための良い鑿のセットが欲しくてな。和人のやっている店に注文したんだ。5号サイズの木彫りの熊5体分の金額を前払いしたよ。店主は、アイヌは前払いでないと信用できないとぬかしやがった。しかし、できあがった鑿はどれも全く使えないナマクラだった。俺はこんなものに金は払えないと言った。商品は返すから、払った金を返せと店主に迫ったんだ。だが、店主は一切応じなかった。文句があるなら裁判でも何でもしろと。そして、それっきりだ。それ以来、俺は和人とは、直接関わりを持たないようにしている。」
連とエカテリーナは何も言えなかった。
「しかし、おまえたちは違うようだな。」
連「俺はアイヌです。」
エカテリーナ「私はロシア人だけど、アイヌ文化が大好きなんです。できればアイヌになりたい。」
少し考え込んでセイジは言った。「トンコリ作りを簡単に考えるな。しかし、恐れるなよ。覚悟を持って取り組むなら教えてやる。」
連はうれしさのあまり表情が固まった。
エカテリーナは素直に「ありがとうございます!」と深々と礼をした。