イオマンテ
小熊を保護してから2年が過ぎた。
エカテリーナたちは3年生になっていた。詩織は高校3年生、煌は中学校を卒業して高校1年生になっていた。アイヌ文化研究会は、その活動が何かと目立っていて、毎年新入生の入部があり、エカテリーナたちにも後輩ができていた。
保護した小熊は、雄だったこともあり「小太郎」と名前をつけられ、アイヌ記念館で育てられていた。
イオマンテ儀式復活事業の予算でアイヌ記念館に設置された檻が小太郎の飼育場所とされたが、まだ小さかったので、ほとんど檻に入ることはなく、昼はアイヌ記念館の庭で放し飼いにされており、夜だけ檻に入って過ごしていた。
小太郎は賢く、自分を人間と思っているようで、言葉も理解しているようだった。
アイヌ文化研究会の部員は、毎日のように小太郎に会いにきて、餌をあげたり一緒に遊んだりしていた。
部員の中でも、ゆりは特に小太郎を可愛がり、小太郎も部員の中ではゆりに一番懐いていた。
小太郎はどんどん大きくなり、爪、牙が鋭くなってきて、檻で過ごす時間が多くなっていた。万が一の事故も考えて、庭で放し飼いにする時間は少なくなっていた。
そして、とうとう小太郎がイオマンテで送られる年を迎えた。
「今年はイオマンテをする年か・・・」連はつぶやいた。
イオマンテをすると決まった時には、部員には言えなかったが、連は時期を見て部員たちに小太郎はイオマンテで送られることを告げた。部員たちは、賛成も反対もせず、受け入れるしかなかったが、アイヌ文化を学んでいくうちに、イオマンテの儀式の意味について、深く考えを巡らしながら理解できるようになていた。
それは、部員達が精神的にも成長した証でもあった。
部員達はみんなでイオマンテの儀式に使う映像のコンセプトを文章にした。
ゆりが、その文章を映像にして、部員に見せた。
美しい北海道の大雪山「神々の遊ぶ庭」の四季折々の映像をバックに、文章がゆっくりと流れていく。
『人間は、他の生命を奪って生きている。
鶏、牛、植物・・・でも、私たちは、それについてリアルにイメージできていない。高度に文明かされた社会が、すべてを見えないようにしているから。
そして食べるときだけ「いただきます」と言う。
「命をいただく」という意味があることを実感している人はどれくらいいるのだろう。
イオマンテは、「他の命をいただく」ことを、儀式によって実感させてくれる。
大切に育ててきた可愛い熊を殺の命をいただく。それはとても悲しいこと。
そしてそれは、私たちが生きていくために、避けては通れないこと。
この事実に目をそらさず、向き合うことで、自然の中で生きていくことの厳しさを知り、生かされていることの感謝を知ることである。
だからイオマンテは悲しい。辛い。そういうものである。人間が生きていくと言うことは、そういうことである。』
部員達は皆、静かに映像を見守っていた。
映像が終わり、ゆりが言った。
「だから、私はイオマンテでは我慢せずに泣く。悲しい気持ちは隠す必要はないもの。」
エカテリーナ「そうだね。そして感謝しよう。小太郎の命をいただくことで、私たちが生きていけるということに。」
和馬が提案した。「今年の山菜採りは、小太郎も一緒に連れて行けないかな。ほら、小太郎を見つけた山に行って、小太郎にも笹竹を食べさせてやろうよ。」
ゆり「そうね・・・。最後に小太郎にも楽しい思い出を与えてやりたい。」
連「いいけど、最近あの山には熊が出るみたいだぜ。」
煌「私もニュースで見たよ。北海道の道南地方では、住宅街に熊が出て住民を襲ったんだって。」
エカテリーナ「熊は恐ろしいけど、山菜採りはアイヌ文化研究会の重要な活動だから、なんとか行きたいわね。」
連「まあ、札幌みたいな都会でも街中に熊が出るんだ。どこに行っても熊が出るんだから、別にいいか。」
和馬「じいちゃんも一緒に行ってくれるよう頼んでみるよ。車に乗れる人数も限られるから、僕ら3年生だけで行くしかないけど。」
エカテリーナ「どっちにしろ1,2年生は、ちょっと危険だから連れて行けないね。」
連「和馬のじいちゃんが一緒なら、大丈夫じゃない?元ベテランのハンターだし。」
そして、和馬の祖父が同行してくれるという条件で、山菜採りに行くことになった。
連は叔父に頼んで、小太郎も一緒に連れて行けることになった。
叔父は厳しい口調で「小太郎を山以外で放すんじゃないぞ。賢いから逃げはしないが、万が一があるからな。」と念を押した。
連は「わかった。このリードは絶対外さないから。」と叔父の目を見て答えた。
小太郎には特別製のリードがつけられていた。
そして和馬の祖父、和馬、連、エカテリーナ、ゆり、小太郎が行くことになった。
澪は進学塾の模試があるので参加できなかった。詩織は車椅子なのであきらめ、煌はその日は高校で文化祭の出場権をかけた軽音楽部内部での予選があったため、参加できなかった。
小太郎はなんとか車に乗ることが出来た。隣にゆりが乗っているおかげか、興奮することもなく、おとなしく乗っていた。
祖父は「熊を乗せるなんて初めてだ。」と少々呆れ気味だった。
そして、いつもの場所に車を止め、他に誰もいないことを確認し、小太郎を車から連れ出した。小太郎のリードは、丈夫な革製でリュックサックのように両肩から脇にかけて小太郎の体を包み込み、背中で1本の太い革紐となっていた。しかし、小太郎はゆりの側から離れることがなかったので、リードは緩みっぱなしだった。祖父の先導により、みんな山道に入っていく。ゆりの前を大人しく歩く小太郎は、時折ゆりを振り返りながら進んだ。
祖父は「こんな大人しい熊は初めて見る。熊って躾けることができるんだな。」と感心していた。
和馬は「あの熊、自分を人間だと思っているみたいだよ。とても賢いんだ。」と祖父に教えた。
その時だった。祖父が立ち止まった。
みんなは何が起きたのかわからなかったが、いやな予感がして立ち止まった。
小太郎が小さく唸る。
祖父は「獣の匂いがする・・・」といって、熊撃退スプレーを右手に持った。
その瞬間、約30m先に熊が現れた。熊はまだこちらには気づいていない。
祖父は「しまった。思ったよりも近い!」と困惑した。
「みんな、熊はまだこちらには気づいていない。静かに音を立てないで、逃げるんだ。」
みんな顔が青ざめたが、祖父の言うとおり180度反転して、元来た道を辿り始めた。
しかし、風向きが変わり祖父や小太郎の匂いが、30m先の熊の方へ流れていった。
熊はこちらに気づいた。そして、のそのそとこちらへ向かってきた。
同類の熊である小太郎の匂いのせいか、熊はそれほど警戒はしていないようだった。
祖父は背中を見せず、後ずさりをしながら熊から離れようとした。
しかし、熊はどんどん近づいてくる。
その時、小太郎がすごい勢いで祖父の前に飛び出してきた。
あまりに強い力のため、ゆりは手にしていたリードを思わず放してしまった。
小太郎はみんなをかばうように熊に向かっていった。
相手の熊は、小太郎の敵意を察したのか、興奮し小太郎に襲いかかった。
小太郎も熊に反撃した。
小太郎が唸り、鋭い爪をむき出し相手の熊に襲いかかった。相手の熊は小太郎よりも大きい成獣であり、小太郎に反撃していた。
しばらく熊同士の戦いが続いていたが、相手の熊がバランスを崩し、祖父の足下へ転がって来た。祖父は咄嗟に手にしていた熊撃退スプレーを噴射した。
熊は撃退スプレーを顔面に噴射され、叫び声を上げ、ひどく苦しみながら、反対方向へ逃げていった。
みんな言葉もなく立ち尽くしていた。
ゆりが悲鳴のような声で「小太郎!」と叫ぶと、小太郎がゆりに近づいてきた。
見ると小太郎は出血していた。そして、そのままうずくまってしまった。
ゆりは小太郎の出血部分に手を当てた。小太郎の胸は相手の熊の鋭い爪により、大きく切り裂かれていた。
ゆりは泣きながら、小太郎の切り裂かれた胸に手を当てた。小太郎の胸からは赤くて熱い血が流れ出していた。ゆりは小太郎の熱い血の感触を感じながら、叫んだ。
「小太郎、頑張って。死なないで。」
しかし、ゆりの願いもむなしく、小太郎の目からは、精気が消えていった。
ゆりの手には小太郎の生暖かい血のぬくもりが残っていた。
連がなんとかスマホの電波が届く場所を探し出し、アイヌ記念館に電話をして館長の叔父に救援を求めた。しばらくして叔父は記念館の職員を1人連れて、トラックでやってきた。
小太郎は応急処置され、トラックで旭川動物園に搬送された。
ゆり「小太郎、大丈夫かな。」
連「野生の力でなんとか回復して欲しいな。」
和馬「そうだな・・・」
和馬の表情が翳る。
エカテリーナは押し黙っていた。
部員達は、アイヌ記念館に戻った。
ゆりは小太郎の檻をながめながら「生きて戻ってきて・・・」と祈った。
その日は、そこで解散した。
翌日の放課後、部員達は部室に集合していた。
昨日の山菜採りに参加しなかった澪、詩織、煌にはエカテリーナから状況を説明された。
澪は涙ぐみながら「そんな事があったなんて・・・」と言った。
詩織は泣きながら「小太郎、部員たちを守ってくれたのね。」と言った。
煌は号泣しながら「小太郎、なんてロックな熊なんだ。おまえの想いは十分伝わったぜ。」とちょっと何を言っているのかわからないことを言った。おそらくかなり動揺していたのだろう。
その時、連のスマホが鳴った。叔父だった。
連は黙ってスマホを耳にあてていたが「うん、わかった。」と言ってスマホを下ろした。
連はみんなを見回して、言った。
「小太郎、さっき死んだって。」
翌日の放課後、エカテリーナと連は叔父のアイヌ記念館に行った。
悲しいけれど、イオマンテで送るはずの小太郎を連れだし、けがを負わせて死なせた状況を叔父に説明する義務を果たさねばならなかった。
エカテリーナ「今回は、私たちのせいで大切な小太郎を死なせてしまい、申し訳ありません。」
部員達を他の熊から助けるために、犠牲となった小太郎の話を聞いた叔父は、「そうか、小太郎はキムンカムイとしての役割を全うしたのだな。ウェンカムイからお前たちを守ってくれた。」
連が「大切なイオマンテの儀式のための小太郎を死なせてしまって、本当にごめんなさい。」と言い、深々と頭を下げた。
エカテリーナもそれに合わせて頭を下げた。
叔父はしばらく虚空を眺めていたが、ふと思いついたように言った。
「時期は早いが、小太郎をイオマンテで送ってやろう。」
アイヌ記念館では、すでにイオマンテをできるだけの準備は整っており、後は12月の満月を待つだけだったが、叔父の提案で明後日の満月に小太郎をイオマンテで送ることとなった。
準備はできていたが、時間が足りなくいくつかの作法や儀式は省略されることになった。
そしてすでに小熊が死んでしまったので、実際に殺す儀式は省略され、代わりに過去に行われたイオマンテの映像が流された。
儀式の中で、ゆりは今まで培った技術を駆使し、小太郎が神の世界に帰るイメージ映像を作り、そしてイオマンテでその映像を流した。
その映像は、小太郎が他の熊から自分たちを命に代えて守ってくれたことと、小太郎の胸からゆりの手に流れ落ちた暖かい血のぬくもりを永遠に残すためのものだった。
ゆりが作ったイオマンテための映像と小太郎の成長の記録が流れるその映像は、見た者すべてに感動を与え、小太郎がキムンカムイとなって神の世界に帰ったと誰もが実感した。
エカテリーナ、和馬、詩織はイオマンテリムセを踊った。車椅子の詩織でも踊れるように、古式舞踊に改良を重ねたリムセだった。
連はドラム、澪はベース、煌はトンコリでアイヌの曲を演奏した。
こうして、イオマンテは静かに終わった。
アイヌ文化研究会の部員達は、イオマンテを通じてアイヌの精神である「神様と人間が対等である」という感覚、神様を熊の姿で迎えること、その熊に対してどう振舞うかということや、アイヌと自然との付き合い方を学んだ。
イオマンテが終わった6月の末に、エカテリーナ達3年生は新たな部長と副部長を決め、部活を去った。
エカテリーナは新部長に「後は頼むね。」と言い、肩を軽く叩いた。
新部長の2年生、浪速 零子は涙ぐみながら「私たちだけじゃ、寂しいです。引退しても毎日来てください!」と懇願した。
エカテリーナは「毎日は無理、たまに来るから。」となだめた。
副部長の2年生、戸隠 豹太は「連先輩、ドラム教えに来てください。」とお願いした。
連「豹太にはもう教えることはないよ。でも、たまに来るから。」
エカテリーナと連は部室を後にした。
連「他の部員達は?」
エカテリーナ「みんな、それぞれ後輩達にお別れを言うって。」
連「あっという間だったな。」
エカテリーナ「楽しい時間は、あっという間って本当ね。」
連「もちろん、これで終わりじゃないよな。」
エカテリーナ「当然。部活は終わったけど、アイヌ文化研究はまだまだこれからよ。」
連「ずっと続けるのか?」
エカテリーナ「もちろん、私の居場所はアイヌ文化と共にあるのよ。」
連「俺は、高校卒業したらアイヌ記念館に勤めるんだ。叔父さんにも了解してもらっている。」
エカテリーナ「えー・・・いいなあ。」
連「エカテリーナはもう決まっているのか?」
エカテリーナ「ううん。まだわからない。でも、アイヌ関係の仕事に就きたいな。」
連「叶うといいな、その夢。」
エカテリーナ「夢じゃない。私の目標よ。」
連「そっか」
エカテリーナ「今日、アイヌ記念館に行くんでしょ。」
連「ああ、叔父さんからできるだけ来て、手伝えと言われている。」
エカテリーナ「じゃ、アイヌ記念館で会おうね。」
連「ああ。」
去って行くエカテリーナ。夕日がエカテリーナの銀髪を黄金色に染めている。
連はいつまでも見送っていた。




