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No.88 不可視の境界

 熱風が轟き、ヨセフ・ウォルフォウィッツの張った障壁をビリビリと震わす。

 エレオノーラのあの攻撃でも四人の生徒を守る障壁が揺るがなかったのは、その術師が彼であったがために他ならない。


 なのに、セルマリエスは誰しもが焼け死ぬであろうその攻撃を、涼しい顔で耐えてみせた。

 それも、一度のみならず二回もだ。


 ハヤブサ獣人のラーファルには、眼前に広がる光景が半ば信じられなかった。




 “あれ”は本当に、自分の知っている少し皮肉屋でノリの良い同室の少年なのだろうか?




 ラーファルは横目で隣に立つメルトを見た。

 彼もまた、自分と同じような事を考えているのだろう。

 当人が善人であるかどうかは別として、セルマリエスは“異質”であると。


 攻撃の応酬が止んだ。

 セルマリエスが何かを話しかけ、エレオノーラが後ずさる。


 障壁の妨げもあってか、ここからは何を話しているのかは聞きとれない。

 だが、蒸気の先に、その表情だけははっきりと見てとれた。


 その時のセルマリエスは……




 ――エレオノーラなど比にもならない。その表情は、底冷えするほどにどこまでも無機質で、無感情であった。




「メルト……」


 ラーファルは声をひそめて隣の少年に尋ねた。


「エス、どうしたの……?」

「分からない。ただ……」


 メルトはギリギリと音がするほどに強く、自らの左腕をにぎり締める。

 そこがほんの一月前に、彼自身の兄アクトによって切り焼かれた傷の場所である事を、ラーファルははっきり記憶している。


「俺はあの顔を知っている……」


 メルトの声がかすれ、力がこもる。


「もしかして……お兄さん?」

「いや、違う」

「じゃあ……」


 メルトは険しい表情のままラーファルの瞳を見つめた。

 だがすぐにセルマリエスの方へと視線を戻し、さらに強く腕をにぎり締める。


「あれは……『秩序』に囚われた者の目だ。…………俺の父のように」

「キングスランド公爵?」


 メルトは否定も肯定もしなかった。

 ただじっと、あの二人の闘いの行く末を見つめる。


 それが答えのようなものだった。

 ラーファルも、それ以上は何も言うまい。


 一瞬、二人の視界からセルマリエスが消え、エレオノーラの体が突き飛ばされた。 

 メルトもラーファルも、この場にいた誰しも、あのようにエレオノーラの表情が苦痛に歪むのは初めて見た。


「もうやだ……なんなの、これ……」


 二人が振り返ると、背後でウサギ耳の少女が目を閉じ小さく震えていた。

 それにつられるように、青髪エルフの少年がギュッと胸元をつかんで膝から地面に崩れ落ちた。


 ラーファルとメルトはこの場の全ての惨状からふいと目をそらす。

 ただの試合のはずだったのに。

 もうこれ以上は、何も見ていられなかった。


「ジジイ、いい加減にしろよ」

「分かってますよ。これ以上は無理ですね」


 怒気を孕んだ視線でにらむガイウスに、ヨセフは溜め息のような声で返す。

 そして障壁を解いて手を上げ、高らかに叫んだ。


「両者そこまで!!」


 エレオノーラとセルマリエスはその声にピクリと硬直し、はっとしたように戦意を収めた。


 セルマリエスの表情にすっと感情が戻る。

 しかしもう遅かった。

 もう少しだけでも早くに止められていれば良かったものを。




 ラーファルもメルトも、決して友人をあのような目で見たくはなかった。

 現に今も、セルマリエスの事を冷酷無慈悲の人非人だとは思っていない。

 それでも恐怖だけは隠せなかった。

 それどころか、畏怖すらも覚えていた。


 試合後の二人の元へ歩み寄るヨセフを横目に、ガイウスはラーファルの横に立つ。


「あいつが怖いか?」

「……どうなんでしょうか。少なくとも、“あれ”は僕の知っているエスではありません」


 ラーファルは顔を上げ、そして再びうつむいた。

 セルマリエス、ラーファルと視線を移し、ガイウスの瞳孔がわずかに広がる。


「……本当に、そうなのか? 普段のあいつとさっきのあいつ。それは本当に別物なのか……」


 ガイウスは目を閉じる。

 脳裏に浮かぶのは、いつか見たセルマリエスのあの姿。




 操られていた。

 正気を失っていた。

 そう言ってしまえば聞こえは良いが、あの時のセルマリエスも、今と同じ顔をしていた。


 理由は何にせよ、セルマリエスはどうにかして人間であろうとしている。

 目立とうなどとは決して考えてはいない。

 現に、本人はちゃんと人間として振る舞っているし、彼の正体に気づいたものもガイウスを除いて他にいない。


 それでもやっぱり、どこかずれているのだ。

 きっと、竜という存在自体がそういう性を持つものなのだ。

 きっとそうだ……


「……なぁ、お前ら」


 白く広い静かな空間で、メルトとラーファル、その二人がかろうじて聞きとれるほどの声量でガイウスはつぶやく。


「たとえあいつが何を隠していたとしても、お前ら二人だけは、セルマリエスの味方でいてやれよ」


 今この二人にガイウスが言えるのは、これが限界だった。

 それだけ言い残してヨセフの後を追うガイウスの背は見る事無く、ラーファルはほとんどひとりごとのようにぽつりとこぼす。


「…………味方ですよ。僕達は。秘密があるのはお互いさまなんです」


 誰に届くでもないその声を、メルトだけは唯一隣で聞いていた。


 そして深く、息を吐いた。

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