No.57 無意識の衝突
狂乱。
夢。
現実との境目。
美しいものには棘があるとは、言い得て妙だとは思わないだろうか?
セルマリエスがおかしくなったのは、サイラス・グラウリスとニ、三度言葉を交わしてすぐの事だった。
突然、糸の切れた人形のように脱力し、立ちすくむ体。
あれだけ周囲を警戒していた彼が、何の前触れも無く、敵前に無防備な姿を晒したのだ。
ガイウス・ゼクスターは、この異変を決して見逃しはしなかった。
「おい。どうした? セルマリエス」
背後から声をかける。
普段の彼ならば、即座に返事をし、振り向く事だろう。
だが、今回ばかりは何の反応も無い。
「大丈夫か?」
これは、明らかにおかしい。
そう直感し、ガイウスはセルマリエスの方に手を置こうとした。
だが……
「……気持ち悪い」
「……は……?」
寸前で、ガイウスは手を止めた。
少年の口から出た言葉に、思考が停止する。
妙だ……
精神攻撃か?
そう言えば、こいつは一体、何を見て……
脳内に、疑問が浮かぶ。だが、口から出て来る事は無い。
状況整理に近しい思考。
すると、ビクリと肩を震わせ、ゆっくりと、セルマリエスが振り返った。
黄金色の双眸が、ガイウスの赤い瞳をとらえる。だが……
「……っ!」
……少年の表情は、ガイウスの知っている彼のものとは、似ても似つかぬ有様だった。
——冷たく、焦点の定まらない虚ろな瞳。
……なぜだか、数多の人の血を啜った、妖刀の刃のようにも見えた。
「な……にが……」
「あは。やっぱりこうなっちゃったか。」
「……はぁ?」
ガイウスの視線の先で、女がニタニタと笑う。
「お……お前が、こいつに何かしたのか?」
「……いいや。そう……と言えるかもしれないし、ある意味ではそうじゃないとも言う事が出来る」
セルマリエスにも注意を割きながら、ガイウスは震える声で女に問うた。
だが返って来たのは、酷く曖昧で、要領を得ない答え。
分からない事だらけだ。
ガイウスの脳裏を、恐怖と混乱が駆け巡る。
「そんな事より、あなた……」
フッと、女の顔から笑いが消えた。
「……私なんかに、意識を割いている場合? 気をつけなさい……」
まるで、子供を諭す親のように。
女の態度が変わる。
今までに無く、真面目な表情をする女。その口から出て来た言葉は……
——警告。
「……死ぬわよ」
冷たくも美しい声が、空気を揺らした。
……その瞬間だった。
「ぐぁっ!?」
腹部に走る衝撃。
一拍遅れてついてくる痛み。
目の前で、シアンの髪が揺れる。
気がついた時には、少年の拳が腹筋にめり込み、ガイウスは後方にぶっ飛ばされた。
「先生!!」
アクトの叫びと共に、壁に激突するガイウス。
激しい衝撃音が響き、口から赤い血が滲む。
今までじっと黙って見守っていたアクトも、流石にこれにはいても立ってもいられず、ガイウス向かって駆け出した。
しかし、その時。
「……駄目よ」
女の制止する言葉と共に、途方もない威圧感がアクトを襲った。
心臓を、脳を、押し込められるようなプレッシャー。
それに思わず片膝をつく。
「ここはあなたの出番じゃない。これはこの子の問題。安心しなさい、すぐに終わるだろうから。それまでは、静かにそこで見届けているの」
女は穏やかに語りかける。
口調は柔らかく、気圧されるような要素はどこにも無い。
ただ、有無を言わさぬような勢いが、そこにはあった。
アクトはぐっと唇を噛み締め、女の目を見つめ返す。
なぜ邪魔をする?
お前は一体何をした? 何が目的だ?
早く止めに行かなければ……
俺の行動の邪魔をするな!!
……言おうと思えば、すぐにでも口に出す事は出来た。
だが、アクトはそうしなかった。
……逆らってはいけないような気がしたから。
(くそ、どうして……この女に従う必要なんて無いのに。……動けない)
なんとも苦々しい思いで、アクトは両の拳を握る。
「……ってぇ……アバラの一、二本はイったなこりゃぁ……」
その間にも、ガイウスはよろめきつつ立ち上がった。
口元の血を拭い、溜まった血反吐を吐き捨てる。
「ったぁく、警告がなけりゃ危うく死んでたぞ……って、おぁ!」
そこに間髪入れず、飛んで来る二発の風刃。
ギリギリのところでガイウスはそれを躱し、後ろの壁が深く抉れる。
「息つく暇も無いってかぁ? クソガキぃぃ」
よけるガイウス。感情無く、攻撃を続けるセルマリエス。
風の刃はなおも飛ぶ。
冷たくヒンヒンと音を鳴らし、白い壁を切り刻んでゆく。
(だぁーったく、反撃しようにも、アイツは竜だからなぁ……俺の剣じゃぁ、傷一つつかねぇ。逆にこっちが殺されるのがオチだ。まったく、こんなのどうしろってんだ……)
猛攻の中、ガイウスは思案をめぐらす。
だが相手が悪い。
少年の正体を知っているからこそ、勝てるビジョンが全く浮かばない。
「ありゃりゃ、大変だ。壁がズタズタ」
そんな彼の苦悩を知らず、間の抜けた言葉を発する者がここに一人。
女は腕を組み、ふうと息を吐く。
「おいおい、随分とお気楽な事言ってくれるなぁ……そんなに壁が心配なら、少しくらいは手ぇ出してくれたって良いんだぞ」
そう言うくらいなら助けろよ。お前がまいた種だろう。
ガイウスは藁にもすがるような思いで、女に向かって声を上げた。
しかし女は、それをつっぱね笑う。
「え、やだよ。だいたい、何も心配なんてしてないし。だってその壁……勝手に直るもん」
「……はぁ!?」
呆れるガイウス。
壁に目を向けると、確かに女の言う通り、傷はみるみる消滅していく。
「すごいでしょ。こんなこともあるかと思って、ちょっと頑張っちゃったの」
「どう考えても、こんなん頑張るような事じゃないだろ」
「もう、壁の大切さが分からないなんて。勉強不足なんじゃない?」
「馬鹿馬鹿しい」
「……こんな会話してる暇あるの? よそ見は危ないわよ」
「だから、お前がまいた種だろうが!!」
叫ぶガイウス。そろそろいら立ちが外に出始める。
とは言え女の言う事は正しい。
感情を爆発させる前に、まずはこの場を切り抜けるのが先。
(クッソ、クソが! どう動こうが、賭けにしかならねぇじゃねぇか! しかし他に方法は……仕方が無い。一か八か!!)
覚悟を決め、ガイウスはセルマリエスめがけて突進した。
距離が縮まれば、その分攻撃も当たりやすくなる。
一歩間違えれば真っ二つ。そうなれば命は無い。
死への緊張から、知覚が極限にまで尖る。
感じ、避け、近づき、踏み込む……!
……それが功を奏したか。
結論を言うと、ガイウスは賭けに勝った。
なんとか無傷で少年の目前へと辿り着き、がっしりと肩を掴まえる。
「おい、セルマリエス……」
すぅと息を吸い込み、のけ反る。
僅かに声に反応するように、セルマリエスの動きが一瞬止まった。
「いい加減……戻って来い!!」
ゴスンッ!!
鈍い音が響く。
一切のためらい無く、ガイウスはセルマリエスに頭突きを食らわせた。
相手がただの人間ならば、気絶どころでは済まないような一撃。
当然ガイウスにも、反作用で衝撃が届く。
脳が揺れ、頭の中に鈍い痛みが広がる。
そんな状態でも、どうにか気を保ち、祈る。
戻れ。
正気に戻れ。
意識を……
(お前が何を見せられているのかは知らないが……)
「——落ち着け!!」
そして、再び叫んだ。その直後……
「……先生……?」
……虚ろだった少年の瞳に、ほんのかすかな光が灯った。




