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No.58 境界上にて知り得るコトハ……

 血の臭いが、鼻を突く。


 どくんどくんと、脳の血管を熱い血潮が駆け巡り、だんだんと冷静になっていくのが分かる。


 僅かに、右手に残る感触。

 頬を拭うと赤い液体が手に付いた。




 ……足元で、花はかすかに揺れている。


 その瞬間、僕は自分の『やってしまった事』を理解した。


「う……あ……僕は……なんて事を……」

「違う。お前のせいじゃない。絶対に……」


 優しい声。真っすぐ、僕を見つめる赤い瞳。

 何も言われなくたって分かる。




 ……ああ、この人は、微塵も僕を責めようとは思っていないんだ……




 って。




 記憶には無い。

 全ては、意識の外で起きた事。


 でも、その柔らかい先生の態度こそが、僕の罪悪感を掻き立てた。


 うつむき、その場に呆然と立ち尽くす。

 左手で頭を鷲掴むと、抜けた青髪がはらはらと舞い落ちる。


 いくら僕自身の意思ではなかったとしても、やってしまった事に変わりは無い。

 押し寄せる後悔に、吐き気にも似た冷たい何かが、喉の奥からこみ上げる。




(ごめんなさい)




 言葉にならない感情を、何度も、何度も、胸の内で繰り返す。


 何度も、何度も……




 ……すると、ふいに前から、鋭い声が飛んで来た。


「あのさぁ、『感動の懺悔シーン』ってところに悪いんだけど……」


 顔を上げる。

 女は、どこかいらついたような表情で、相も変わらずそこに立っていた。


「まさか、ちょっと一瞬正気を失ったくらいで、ここに来た本当の目的を忘れたりはしてないわよねぇ? ほら、こいつの事よ!」


 女は拳を振り上げ、ガンと一発、檻の格子を殴りつける。


 鈍く音が反響する。

 檻の中でサイラスが、間抜けな声を上げて尻もちをついた。


「うへぇ!? な、なに……」

「あ な た は ……黙っていなさい……」


 女の態度が変わる。

 笑顔はどこへやら飛んでいき、空気がピリピリと張り詰める。


「助けに来たんでしょう? なら早くしなさいよ。そんなお涙頂戴な展開、私は望んでなんかいない訳」


 女の語気が荒くなる。


 明らかな動揺。

 一体何が、彼女をそこまでいらだたせるのか?


「おかしい……予定では、正気を取り戻したらすぐに、こいつを助けに向かって来るはずだったのに……こんなところで後悔? 敵前で、何をそんな悠長にしているの?」


 下を向き、ぶつぶつと独り言を言い続ける女。

 その内容は、僕に対してのもどかしさ。僕が彼女の思惑通りに動かなかった事で、相当のフラストレーションが溜まっているらしい。


「この感情は……安心? 心の奥底から、安らぎの感情を感じる……なぜ? 意味が分からない。あれだけ不安を掻き立てるような仕掛けをしておいたのに、どうして安心感なんかがまだ残って……まさか……」


 ……スッと、女の目が先輩の方へと向いた。


 ビクリと先輩の肩が震える。


「一石二鳥と思っていたけれど、歯車が食い違った原因、安心の種はこの子……? ……確かに、これは最大のイレギュラー。他に理由は考えられない……」


 ゆっくりと、先輩に近づいていく女。

 彼を見下ろす目は細く、品定めをしているようにも、微笑をたたえているようにも見える。


「なるほどねぇ……やっぱり、欲を張るのはあまり良くないかしら……」


 女は一歩下がると、顔を上げて何やら思案する。

 少しして、サイラスと先輩を順に指で指し示すと……


『次元ヲ穿ツ。境界ノ門。座標指定以下略』


 ……そう、小さく唱えた。


 およそ、人の言葉ではない。

 女の口から発せられたそれの、意味を理解出来るのは、今この場では僕と彼女自身だけ。

 他の人間達(みんな)には、その言葉が“何”を表しているのか、決して知り得る事は出来なかっただろう。


 ……いや、たとえ理解していたとしても、これから起きる事を止めるのは不可能だった。




 ——魔法は、すでに発動された後だったのだから。




(略式……? この詠唱は……まさか!!)


 そう思った時には、もう手遅れ。

 先輩とサイラスの檻の下に、『穴』が出現する。


「なっ、」

「あれ、またこれ?」


 叫び声を上げながら、二人は穴の中へと落ちていく。


 それは次元の裂け目。縁(へり)などは存在しない。

 『助けよう』と考えついた時にはもう、先輩の手は暗い虚(うろ)に消えてゆき、後には不気味な美しさを放つ花畑が残された。


「は……ああ、くそ、間に合わなかった。先輩! サイラス!」

「おやおや、元気になったねぇ。やっぱり、これが現状の最適解だったか。流石アリスちゃん、ナイス判断」


 女は指をくるくると回す。

 なんとも清々しい表情だ。


 なんだ……何をされた……?

 いや、それは分かりきっている。またどこかに飛ばされたんだ。今度は僕と先生を残して。


 クソッ、せっかくサイラスを見つけたってのに、今度は先輩まで……


「あはは、心配には及ばないわよ。まだ外には出してないけれど、危ないとこには飛ばしてないから」


 女はパッと手のひらを見せた。


 キレたと思ったら、またこの軽い調子。

 温度の上がり下がりが激しすぎて、まるで彼女のテンションについていけない。


「心配には及ばないだって? ハッ。あれだけめちゃくちゃしてくれたくせに、今さらその言葉を信じろと?」

「いいや。私はあなたの信用なんて求めてないわ。ただ、どのみちあなたは、私に従わざるを得ない。だって……こっちには人質がいるからね」


 へらへらへらへら、女は笑う。

 この態度で、言っている事は全て、僕の思考の的を射ている。


 そう、彼女の言う通りだ。

 ここに来る前、この一件が始まった時からずっと。僕に選択権など存在しない。

 ……まったくもって、悔しい事に。


 ところで、それを前提として一つ。いまだに分からない事がある。


「さぁさ、本題に入ろうか」


 ……こいつは一体……僕を呼び寄せて、何をしようとしているのだろうか?

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