第4話 走る子どもたち
校庭から聞こえてくる声は、思っていたよりもずっと賑やかだった。
窓の外を飛竜が横切った余韻は、まだ歩の胸の奥に残っている。
巨大な翼。
太陽の光を受けて鈍く光った鱗。
その背に乗っていた人影。
あり得ない光景だった。
歩が知っている空には、飛行機やヘリコプターはあっても、竜は飛ばない。
それなのに、さっき見た飛竜は確かにそこにいた。
風を掴み、街の上を大きく旋回し、塔の向こうへ消えていった。
あの景色を見ただけで、ここが日本ではないことは十分すぎるほど分かった。
だが、不思議なことに。
歩の視線は、もう空にはなかった。
校庭だった。
飛竜よりも。
石造りの街並みよりも。
王立学園の大きな塔よりも。
歩の目を引いたのは、校庭を走る子どもたちだった。
「授業中ですか。」
歩は窓の外を見たまま尋ねた。
「勇者学科の基礎訓練です。」
エスが答える。
「基礎訓練。」
「はい。体力、剣術、反応速度、集団行動。低学年は特に徹底されます。」
「勇者も走るんやな。」
「走ります。」
「魔法で何とかしたりせんの?」
「基礎体力のない者に、魔法は扱えません。」
「それはそうやな。」
歩は頷いた。
その答えは、少し気に入った。
どこの世界でも土台はいる。
走れない選手に技術だけ教えても、試合では動けない。
体がない子に細かいフォームだけ教えても、すぐ崩れる。
それは野球でも同じだった。
校庭では、十数人の生徒が列を作って走っていた。
年齢は十二、三歳くらいだろうか。
体格も様々だった。
背の高い子。
小柄な子。
足の速い子。
遅い子。
真面目に走っている子。
隣の子を気にしている子。
苦しそうな顔をしながらも前を見ている子。
すでに気持ちが切れかけている子。
歩は一人ひとりの走り方を、自然に見ていた。
癖だった。
選手を見る時、歩はまず結果を見ない。
速いか遅いかより先に、顔を見る。
肩を見る。
腕の振りを見る。
足の運びを見る。
走り終わった後にどうするかを見る。
止まった瞬間に膝へ手をつく子。
苦しくても前を向く子。
周りの様子を見る子。
誰かに見られている時だけ頑張る子。
そういうところに、その子の今が出る。
「……あの子、頑張りすぎるな。」
歩が小さく呟いた。
「どの子ですか。」
エスが聞く。
歩は校庭の中央を指差した。
黒髪の少年だった。
背は高くない。
足も特別速くはない。
だが、最初から全力で走っている。
表情が硬い。
肩に力が入りすぎている。
歯を食いしばっているのが、遠目にも分かった。
「あれは最後まで持たへん。」
「なぜ分かるのですか。」
「顔。」
「顔?」
「頑張ってる顔じゃなくて、無理してる顔や。」
エスは眉を寄せた。
その違いが、よく分からなかった。
努力している。
真剣に取り組んでいる。
それで十分ではないのか。
少なくともアステリア王立学園では、そう評価される。
勇者学科では特に。
苦しくても前へ出る者。
周囲より努力する者。
限界を超えようとする者。
それが称賛される。
だが、歩は少し違う目で見ていた。
「無理してる子はな。」
歩は窓から目を離さずに言う。
「今は褒められる。」
「はい。」
「でも続かへん。」
エスは何も言わなかった。
歩の声は静かだった。
説教ではない。
ただ、見てきたことを言っている声だった。
「頑張るのは大事やけど、頑張り方を間違えると壊れる。」
その言葉に、エスは少しだけ反応した。
壊れる。
その表現が妙に重かった。
「……あなたは教師だったのですか。」
「教師ではないな。」
歩は少し笑う。
「監督や。」
「監督。」
「部活のな。」
エスはその言葉を記憶するように小さく繰り返した。
監督。
この世界にも指導者はいる。
教師もいる。
剣術師範もいる。
魔導教官もいる。
だが、歩の言う監督という言葉には、少し違う響きがあった。
単に技術を教える人ではない。
その子の過程を見る人。
そんな気がした。
校庭の端で、一人の少年が転んだ。
盛大だった。
足が絡まり、前のめりになり、両手をつく暇もなく土の上へ滑り込んだ。
周囲の生徒たちがどっと笑う。
転んだ本人は、しばらく動かない。
教師が何かを叫ぶ。
歩はその光景を見て、思わず吹き出した。
「何ですか。」
エスが横を見る。
歩は笑いを堪えながら言った。
「思い出した。」
「誰をですか。」
「雨宮絃。」
その名前を口にした瞬間。
歩の頭の中に、土の匂いが戻ってきた。
春のグラウンドだった。
宝ヶ丘第一中学校の、まだ朝露が残るグラウンド。
四月。
桜が校門の横に少しだけ残っていた。
新入部員が並んでいる。
みんな緊張していた。
帽子の被り方も分からない。
グローブの持ち方もぎこちない。
その中に雨宮絃がいた。
細い体。
少し長い前髪。
真面目そうな顔。
けれど目だけはよく動いていた。
不安そうに。
期待しているように。
怖がっているように。
歩はその時のことをよく覚えている。
「一周走ってこいー!」
歩が声を掛けると、一年生たちは一斉に走り出した。
まだ入部して一週間も経っていない頃だった。
走り方だけで、だいたい分かる。
足の速さではない。
身体の使い方。
周りとの距離感。
苦しくなった時の顔。
その子が運動に慣れているかどうか。
雨宮絃は、慣れていなかった。
腕の振りも小さい。
歩幅もバラバラ。
それでも一生懸命だった。
一生懸命だったのだ。
だが、三十メートルほど走ったところで。
何もない場所で転んだ。
本当に、何もなかった。
石もない。
段差もない。
ボールも転がっていない。
それなのに絃は、前のめりに倒れた。
顔から。
「うおっ!」
歩が思わず声を上げる。
周囲の一年生も足を止めた。
二年生たちは大爆笑だった。
「監督ー!」
誰かが叫ぶ。
「絃が死にましたー!」
「勝手に殺すな!」
歩が怒鳴る。
しかし絃は動かない。
土の上にうつ伏せのままだ。
歩は少し心配になった。
まさか本当に頭を打ったのか。
駆け寄って、しゃがむ。
「おい。」
返事がない。
「おい、絃。」
もう一度肩を叩く。
すると。
絃はゆっくり顔を上げた。
鼻の頭に土。
前髪にも土。
口元にも土。
涙目だった。
けれど、本人はいたって真面目な顔で言った。
「監督。」
「なんや。」
「地面が急に来ました。」
グラウンドが笑いに包まれた。
歩も笑った。
笑うなと言う方が無理だった。
「地面は最初からおる。」
「でも来ました。」
「来てへん。」
「来ました。」
「お前が行ったんや。」
絃は少し考えた。
そして言った。
「じゃあ、僕が地面に負けました。」
その日から、雨宮絃はよく転ぶ一年生として覚えられた。
走って転ぶ。
守備で転ぶ。
ベースランニングで転ぶ。
準備運動でも転ぶ。
一度など、トンボを片付けようとして、自分の足に引っ掛けて転んだ。
上級生たちはそのたびに笑った。
けれど、馬鹿にする笑いではなかった。
いつしか絃は、チームの空気を柔らかくする存在になっていた。
本人は必死だった。
毎回本気で転んでいる。
毎回本気で悔しがっている。
だからこそ、周りも本気で応援した。
「それで、彼は続けたのですか。」
エスの声で、歩は現在へ戻った。
校庭では、転んだ少年が土を払いながら立ち上がっていた。
雨宮絃と同じように、少し照れた顔をしている。
歩は小さく頷いた。
「続けた。」
「才能があったのですか。」
「全然。」
即答だった。
エスは少し驚いた。
歩は笑う。
「足も速くない。肩も強くない。打つ方も守る方も普通以下。最初はな。」
「それでも続けた。」
「続けた。」
歩の声が少し低くなる。
懐かしさだけではない。
そこには敬意があった。
「雨の日以外、ほとんど休まへんかった。失敗しても来る。怒られても来る。試合に出られなくても来る。」
エスは黙って聞いていた。
アステリア王立学園では、優秀な生徒が評価される。
勇者学科ならなおさらだ。
剣が強い者。
魔力が高い者。
戦術理解に優れる者。
判断が早い者。
そういう生徒が上へ行く。
失敗する者。
不器用な者。
結果を出せない者。
そういう生徒は、どうしても端へ追いやられる。
仕方のないことだと、エスは思っていた。
学園は人材を育てる場所だ。
王国を守るために。
勇者を育てるために。
限られた資源を、優秀な者へ集中する。
それは合理的だった。
だが、目の前の男は違った。
失敗した生徒の話を、こんな優しい顔でしている。
「なぜ、その生徒が印象に残っているのですか。」
エスは尋ねた。
「最後に活躍したからですか。」
歩は少し考えた。
そして首を振った。
「違うな。」
「違うのですか。」
「最後まで来たからや。」
その答えは、エスにとって少し意外だった。
歩は窓の外を見ながら続ける。
「最後の夏にな。」
声が、少しだけ遠くなる。
「一点負けてた。」
夏のグラウンドが、歩の中で蘇る。
七回裏。
二死二塁。
一点差。
負ければ終わり。
ベンチの空気は重かった。
暑い日だった。
日差しが強く、ヘルメットの中は蒸れていた。
ベンチの屋根の下にいても汗が止まらない。
それなのに、歩は少し寒かった。
終わりが近付いている。
三年生の夏が。
このチームの時間が。
ネクストバッターズサークルには、雨宮絃がいた。
ヘルメットを両手で押さえている。
手が震えていた。
歩は見えていた。
絃は気付いていないつもりだったかもしれない。
だが、見えていた。
ベンチの誰も騒がなかった。
「打てよ」と軽く言う者もいなかった。
みんな祈っていた。
絃が打つことを、ではない。
絃が逃げないことを。
「絃。」
歩は声を掛けた。
絃が振り返る。
顔が引きつっていた。
「はい。」
「転ぶなよ。」
一瞬。
絃の目が丸くなる。
そして、笑った。
緊張で固まっていた顔が、少しだけほどけた。
「それは無理かもしれません。」
「無理なんかい。」
「でも走ります。」
「それでええ。」
打席に向かう背中は、小さかった。
けれど、逃げてはいなかった。
初球。
外角のストレート。
見逃し。
二球目。
空振り。
ベンチから小さな声が漏れる。
三球目。
ファウル。
絃はバットを握り直した。
歩は見ていた。
足元。
肩。
目線。
全部。
逃げていない。
四球目。
甘く入ったボールだった。
絃のバットが出た。
乾いた音がした。
高い音ではない。
鋭い音でもない。
けれど、確かに芯に近い音だった。
打球は右中間へ飛んだ。
外野手が追う。
ボールが落ちる。
二塁走者がホームへ向かう。
ベンチが立ち上がる。
絃は一塁を回った。
走っている。
転びそうな走り方で。
それでも走っている。
「行け!」
歩が叫んだ。
二塁へ滑り込む。
土煙。
判定。
セーフ。
ベンチが爆発した。
絃は二塁ベースの上で、両手をついたまま動かなかった。
泣いていた。
笑っていた。
どちらか分からない顔だった。
歩はその顔を今でも覚えている。
試合には、その後負けた。
結局勝てなかった。
スコアだけ見れば一回戦敗退だ。
記録にも大きくは残らない。
だが。
雨宮絃は、あの一打で自分の三年間を少しだけ肯定できた。
歩にはそう見えた。
「才能なんか知らん。」
歩は窓の外を見ながら呟いた。
「でも、続ける才能はあった。」
エスは何も言えなかった。
続ける才能。
そんな言葉を、彼女は聞いたことがなかった。
この学園では、才能とは測るものだった。
魔力量。
剣術適性。
戦術判断。
身体能力。
数値で示される。
順位で示される。
合否で示される。
けれど、歩の言う才能は違う。
転んでも来ること。
笑われても来ること。
出番がなくても来ること。
最後の一打まで諦めないこと。
それを才能と呼ぶ人間を、エスは初めて見た。
校庭で再び声が上がった。
歩の目が自然に動く。
今度は別の少年だった。
先ほど「無理している」と歩が言った黒髪の少年が、膝をついていた。
顔色が悪い。
周囲の生徒が声を掛けている。
教師が近付く。
歩の表情が変わった。
先ほどまでの回想の柔らかさが消える。
目が鋭くなる。
指導者の目だった。
「止めた方がええな。」
「何をですか。」
「その子。」
歩は窓から身を乗り出すようにして校庭を見る。
「呼吸が浅い。肩上がってる。足も流れてる。あのまま続けたら怪我する。」
エスは校庭を見る。
距離はある。
確かに少年は苦しそうだ。
だが、そこまで見えるものなのか。
「あなたは、なぜそんなことが分かるのですか。」
「見てたら分かるやろ。」
歩は当たり前のように言った。
エスは黙った。
分からない。
少なくとも普通は分からない。
その時だった。
少年が再び走り出した。
数歩。
十歩。
そして踏ん張った瞬間、左足が崩れた。
教師が駆け寄る。
生徒達がざわつく。
歩が小さく舌打ちした。
「左足。」
「……。」
エスは息を飲んだ。
歩はまだ校庭を見ている。
少年は教師に支えられながら立ち上がった。
左足を庇っている。
予想通りだった。
エスの背筋に、わずかな寒気が走った。
昨夜見た資料が脳裏をよぎる。
学園の測定器が示した異常値。
通常ではあり得ない魔力反応。
勇者学科主席を超え、王国騎士団の精鋭を超え、記録上の魔王軍幹部級すら上回る数値。
学園長が即座に極秘指定した報告書。
その中心にいたのが、目の前の男だった。
久瀬歩。
本人は何も知らない。
魔力の扱いも知らない。
この世界の常識も知らない。
ただ、校庭の子どもを見ている。
怪我をした少年を心配している。
そして、野球部を作ることしか考えていない。
エスは歩を見る。
本当に、ただの指導者なのだろうか。
それとも。
この男の異常性は、魔力の量ではなく。
人を見る目そのものにあるのではないか。
「エス。」
歩が振り返った。
「はい。」
「この学園、保健室みたいなんある?」
「医務室ならあります。」
「近い?」
「校庭の反対側です。」
「先生、ちゃんと診れる?」
「治癒魔法士が常駐しています。」
「なら良かった。」
歩は少し安心したように息を吐いた。
本気で安心していた。
数値のことなど知らない。
自分が何者だと思われているのかも知らない。
ただ、怪我をした子が治療を受けられるか気にしている。
エスは少しだけ目を伏せた。
変な人だ。
本当に変な人だ。
危険人物かもしれない。
世界を変える存在かもしれない。
勇者や魔王すら超える力を持っているかもしれない。
それでも。
今この瞬間、彼が考えているのは子どもの足のことだった。
「……あなたは。」
エスは言いかけて、やめた。
歩がこちらを見る。
「何?」
「いえ。」
エスは眼鏡を押し上げた。
「本当に、変な人ですね。」
歩は笑った。
「それ、今日何回目?」
「数える価値もありません。」
「ひどいな。」
歩は笑いながら、再び校庭を見た。
そして、ぽつりと言った。
「グラウンド欲しいな。」
エスは目を閉じた。
やっぱりそこへ戻る。
飛竜を見ても。
異世界を見ても。
勇者学科の訓練を見ても。
怪我を見抜いても。
この男の結論は、そこなのだ。
子どもがいる。
学校がある。
なら、グラウンドがいる。
歩にとっては、それだけだった。
エスは窓の外を見た。
校庭では、治癒魔法士に支えられた少年が医務室へ向かっている。
他の生徒達は、また走り始めていた。
笑い声。
掛け声。
怒鳴り声。
その全部が風に乗って届く。
この世界には魔法がある。
勇者がいる。
魔王がいる。
飛竜が空を飛んでいる。
けれど、歩が見ているものは、それとは少し違う。
走る子どもたち。
転ぶ子どもたち。
無理をする子どもたち。
変わろうとしている子どもたち。
エスはまだ知らない。
この窓辺での時間が。
後に王国全体を巻き込む部活動の、ほんの小さな始まりだったことを。
歩は窓枠に手を置いたまま、校庭を見ていた。
その表情は、少しだけ楽しそうだった。
「なあ、エス。」
「何でしょう。」
「空き地、ほんまにない?」
エスは深くため息を吐いた。
「……探しておきます。」
歩は振り返った。
目が少し輝いていた。
「あるんや。」
「あるとは言っていません。」
「探してくれるんやろ。」
「検討します。」
「それは、だいたいやってくれる時の言い方やな。」
「違います。」
エスは即答した。
だが、歩は笑っていた。
そしてエス自身も気付いていた。
おそらく自分は。
明日から空き地を探すことになるのだろう、と。
第4話 終




