第7話
ケパル自治領までは、半日かかった。
公国が用意した馬車は、先ほどのものより一段とみすぼらしかった。車輪が軋むたび、歯車が噛み合うような音が背筋を這い上がり、座席のクッションはとうに綿が抜け落ちて、木の板が直に尻を叩いた。
道はしだいに狭くなっていった。
王都から公国までの交易路は、それでも馬車が二台並んで進めたが、公国からケパルへ続く道は、馬車一台がやっとだった。道の両脇には草が生い茂り、車輪を擦った。手入れされなくなって久しい道だった。
街が見える前に、匂いが先に来た。
鉄。そして、革なめし特有の、酸っぱく黴臭い悪臭が風に乗って、馬車の中へと這い込んできた。
鼻先を突いた。
不快だが、生きている匂いだった。
自治領の関門をくぐると、風景が広がった。
公国より小さかった。一目で端が見渡せるほどに。
城壁は半ば崩れ落ち、補修する気すら手放したような跡が、あちこちに残っていた。崩れた箇所に木の柵を雑に打ち込んだものが、城壁の役目を肩代わりしていた。関門の警備は一人だけで、それさえも木陰の下で居眠りしていた。馬車が通り過ぎても、目ひとつ開けなかった。
だが、人はいた。
通りに露店を広げた商人。重い荷を背負った人夫。路地を裸足で駆け回る子供たち。井戸端で水を汲む女。洗濯物を干しながら、隣人と世間話に興じるおかみさん。
滅びた国の風景にしては、活気があった。
『滅びたのは上にいた連中で、下にいる者たちはまだ生きている、というわけか』
前世でも同じだった。
リーマン・ブラザーズが破綻したあの日、ウォール街は修羅場だったが、ブルックリンのクリーニング店は変わらず店を開けていた。タイムズスクエアの電光掲示板で指数が暴落している間も、ハーレムの子供たちはバスケットボールに興じていた。
どん底の生命力を侮る者に、市場を読む資格はない。
馬車が、自治領の中心部にある古びた役所の前で止まった。
役所の扉は開いていた。
正確に言えば、閉める理由がなさそうだった。入ってくる者も、出ていく者もいなかったのだから。
中へ足を踏み入れると、一人の男が木の椅子に座っていた。
五十代前半に見えた。
広い肩。深い皺。短く刈り込んだ白髪。手は大きく分厚かったが、指先にはインクの染みが残っていた。
一国を治めていた者の体躯に、もはや治める国を持たない者の目。
疲れていた。怒りでも、野心でもない。すべてを手放した者特有の乾きが、顔全体を覆っていた。
古びた机の上に、ティーカップが一つ置かれていた。茶はすでに冷め切っていて、口をつけた跡がなかった。習慣で淹れ、習慣で忘れた茶。そのカップ一つが、この男の一日を要約していた。
「アカド様でいらっしゃいますか」
「その呼び方は、もう使わなくていい」
声は低く、ざらついていた。紙やすりで木を擦るような声だった。
俺は向かいの椅子に腰を下ろした。
許可は求めなかった。椅子が空いていたし、俺の脚は半日、みすぼらしい馬車に耐え抜いた後だったからだ。
木の椅子が軋んだ。アカドの椅子より状態が悪かった。客用ではなく、そもそもここに人が訪れることなどなかった、ということだ。
アカドの目が、初めて俺をまともに見た。
気のないその目の奥を、意外だという光がほんの一瞬だけよぎった。
座れとも言われていないのに、座った奴。
「何の用だ」
「一つ、ご提案に参りました」
「提案だと?」
男が鼻で笑った。鼻息が、冷めた茶の水面をわずかに揺らした。
「政治の話なら、やめておけ。わしはあの世界から手を引いた」
「政治ではありません」
「では、何だ」
「商売です」
アカドの手が止まった。膝の上に置いていた指が、一度だけぴくりと動いた。ごくわずかな反応だったが、椅子の背にもたれていた姿勢が、ほんの少しだけ前へ傾いた。
「商団を立ち上げます。総支配人が必要です」
「商団、か」
男が俺を見上げた。座ったまま見上げているのに、見下ろされているような圧があった。長としての習慣が、まだ体に残っていた。
「没落した商人一族の若造が。再び商団を、か」
「はい」
「資本は?」
「ありません」
「拠点は?」
「まだありません」
「人手は?」
「今、お迎えに上がったところです」
問い、三つ。答え、三つ。
すべてがマイナスだった。資本も、拠点も、人手もない商団。投資報告書だったなら、最初のページでゴミ箱行きだ。
アカドが息を吐いた。
笑いなのか溜め息なのか、区別のつかない呼吸だった。
「ここを探りに来たのではないのか? お前の公爵領の事情が、芳しくないからな」
「それは、後の問題です」
沈黙が降りた。
役所の外から、子供たちの遊ぶ声がかすかに聞こえてきた。誰かの名を呼ぶ声。笑い声。生きている音。
アカドが窓の外を見やった。
自治領の通りが見えていたのだろう。
自らが治めていた場所。自らが守ろうとした場所。自らの手からこぼれ落ちた場所。
通りの子供たちは、彼を覚えていないかもしれない。だが彼のほうは、確かに覚えていた。あの通りを、あの人々を、あの埃混じりの風を。
政治から手を引いた、と言った。
本当だったのだろう。頭では。
だが、手を引くことと、心を離すことは、別の問題だった。
この男は、自ら手放したのではなかった。奪われたのだ。
能力がなかったからではなく、時代が許さなかったから。背中を刺されたのか、足を掬われたのかは知らないが、この広い肩と深い皺は、戦って敗れた者のものだった。
アカドの視線が窓の外から戻り、俺に突き刺さった。
長く見つめてきた。
俺も逸らさなかった。
この男が俺の目から何を読み取ったのかは、わからない。
同じ種類の無念さだったのか。同じ種類の渇きだったのか。あるいはただ、何一つ持たない奴が、何一つ恐れない目をしている、ということだったのか。
ただ、彼が吐き出した言葉は短かった。
「いいだろう」
一言。
理由は問わなかった。条件もつけなかった。
ティーカップが、机の上でわずかに揺れた。
冷め切っていた茶の水面に、波紋が立った。
『……狂ってるな』
レインの記憶も、前世の記憶も、同じことを言っていた。
だが、胸の片隅が熱かった。
こんな種類の狂った賭けは、前世で一度も経験したことがなかったのだから。
アカドが、壁に掛かった色褪せた黒い外套を手に取りながら言った。
「では、わしからも提案が一つある」
「何でしょう」
「商団を立ち上げようという者が、この自治領のどん底を知らんでは、話にならんだろう」
彼の目に、長らく消えていた何かが戻りつつあった。
光と呼ぶにはまだかすかだったが、乾きは、確かに退きつつあった。
アカドが扉を開けながら、軽く頷いた。
「ついてこい」
本当の戦いは、ここからだ!
明日のこの時間帯は、ワールドカップの試合がある日ですね!
ゆっくり観戦をお楽しみください。私は明後日、16日にまたお会いしましょう!




