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今日踏み出すのは、幸せへの一歩  作者: 高瀬海之


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第一話












 ベリンダの退職の日。

 分厚い書類束を大量にワゴンに乗せて運んできた彼女を見て、上司であり第三王子のコーネリアスは少し驚いた後、困った顔をして聞いた。


「ベリンダ嬢、そちらは何かな?」

「これまでの私の仕事のすべてでございます」


 その圧倒的な質量に僅かに目を見開き。コーネリアスは紙束とベリンダを見比べるように交互に見る。


「……その量、一人で用意したのか?」

「はい」

「そうか……、ご苦労だったね。……レオ」


 コーネリアスの指示を受け、側近のレオナルドが紙束を乗せたワゴンを何処かに運んでいく。ベリンダが微かに漏らした吐息は、コーネリアスには届かない。


「では殿下、他にも挨拶がありますのでこれで御前失礼させていただきます」

「ああ……どこへ行っても元気で。身体だけは厭えよ」

「はい。殿下には……本当に長い間お世話になりました。今日までの日々を大切に新天地でも頑張っていく所存です。本当に、ありがとうございました」


 貴族としての過不足ない淑女の礼をしてベリンダは颯爽と身を翻した。

 その背は真っ直ぐ伸びていて、身長以上に彼女を大きく見せる。体中に満ちる矜持を体現するような堂々とした足取りで、ベリンダは三年務めたコーネリアスの執務室を後にした。

 ドアをぴったりと閉じて、堪えていた溜め息を吐く。これまでも何度も零した、疲れと諦めの混じった吐息だった。


「ベリンダ」


 名前を呼ばれてハッと顔を上げる。別用で留守にしていたのだろう同僚のテオバルトが戻って来たところだった。


「ごきげんよう、テオバルト様」

「ごきげんよう。……殿下に挨拶に?」

「はい、今済ませて参りました。テオバルト様にも、短い間でしたがお世話になりました」

「いやいや、こちらこそ。……すぐ発つのか?」

「はい。先方もそれをお望みですので、宿舎の片付けを済ませたらすぐに」

「そうか……住み慣れた場所を離れるのは淋しいだろう。……あちらに行っても身体には気をつけて。どうか、元気で」

「テオバルト様もお元気で……」


 再び淑女の礼で頭を下げたベリンダは、この場所に蟠る想いを振り切るようにドレスの裾を翻す。真っ直ぐ前だけを見て次に挨拶すべき場所へ向かった。






◆◆◆◆◆






 ベリンダが第三王子とは言え、王子の側近の列に女だてらに加わった経緯には少し変わった事情がある。

 彼女は長らく侯爵家の跡取り娘だった。そのための教育を幼い頃から施され、本人もずっと自分は次期侯爵だという自負を背負って生きてきた。

 それが、もうまもなく成人を迎えるという年頃になって弟が生まれたことで、事情が変わった。

 二十年近くぶりに抱く赤子の愛らしさに哀れさを感じた両親は、悩んだ末、ベリンダを後継者から外す決断をしたのだ。

 姉が当主となった家で、息子が前侯爵の息子として育つのは不憫すぎるというのが両親の主張。確かに、弟の成人までまだ二十年近く。ベリンダが侯爵になるのをどれ程先伸ばしても、彼は成人前に前侯爵の息子になる。

 それが哀れだと両親は言った。

 ベリンダからすればまったく納得がいかない。弟の誕生は喜ばしいことだったし、可愛いと思っている。だからといって、何故自分の人生が乱されなければならないのか。

 自分が当主になっても弟を蔑ろにするつもりはないし、虐げるつもりもない。ちゃんと敬意を持って扱うとどんなに訴えても、両親は考えを変えなかった。ただ判ってくれとベリンダに我慢を強いる。


『いいえ! 私は当主になるために生きてきたのに今更諦めろとはあんまりです!!』


 反論したベリンダの執着を恐れたのかもしれない。

 ある日突然告げられたのは、夫になるはずだった伯爵令息との婚約解消だった。

 婿入り予定の彼とは、長く婚約していて、二人で侯爵家を支えていこうと約束していたのに、勝手に関係を解消された。

 父としては、あちらの家を味方につけたベリンダに爵位を強奪されては叶わないと警戒したのだろうが……ベリンダは家内のことだからと、彼に相談すらしていなかった。

 なのに、父は勝手に婚約を解消した。もちろんそれは当主として父親として当然の権利で、子どものベリンダに否やを唱えることは出来ない。

 当主とはそういうもの。

 頭で理解していても、突然見せられた書類は家族からの暴力の証として、ベリンダに言葉にならない衝撃を与えた。

 家の事情による一方的な婚約解消に伴う慰謝料の領収書と覚え書きを前に、これで彼とはもう他人だから学院でも近寄らないようにと念を押され、ぼんやりと見つめた男は見慣れた父の顔をしているのに、……別人のようで。

 隣に座る母が抱く息子を見るときだけ、目尻が下がる。その顔には見覚えがあったけれど、その目はもうベリンダを見ない。小さな頭を愛おしげに撫でながら言われた。


『ベリンダはもう大人だが、この子はまだ赤ん坊だ。私たちが守ってやらないと……だから、判ってくれ』


 何を判れと?

 私だって貴方たちの娘でしょう?

 私のことも守って!!


 喉まで出かかった言葉を結局飲み込んだのは、言っても無駄だと頭が理解したからだ。

 ひりつく親子の空気に怯えたのか、突然火が付いたように泣き出した弟を必死であやす両親には、ベリンダの声は届かない。否、今や言葉が話せること自体が弊害だ。

 弟はまだ泣き声しか上げられないから可愛い、可哀想。

 言葉で行動で自己主張出来るベリンダはもう、娘であっても庇護対象ではない。

 そういうことなのだ。


 唇を歪めて俯くベリンダを置き去りに、両親は弟を連れて部屋を出て行った。


 持っていたすべてを失って絶望したベリンダは考えることを放棄した。

 何かをしたとて、また誰かの都合で全部奪われるかもしれない。

 そう思ったらもう、何を為すことにも意味が見いだせない。

 ただ言われるがまま、望まれるままに、振る舞おうとした。


 ……だが、簡単に消えないのが意思だ。

 噛み合わない思考はひずみを生む。


 大人しくなったベリンダを誤解した両親は、了解は得たものとして彼女の貴族学院卒業後、成人と同時に大々的に弟を新たな後継者としてお披露目し、広くベリンダの嫁ぎ先を求めた。

 その事実を他人から知らされ、慌てて領地の隠居から駆けつけてきた前侯爵夫人、ベリンダの祖母は、息子夫婦の孫娘への仕打ちに激怒した。

 使用人から罵り合う親子を止めて欲しいと嘆願を受けて応接間に駆けつけたベリンダは、親子の間に割って入り、今にも父親を張り倒しそうな祖母の身体にしがみ付いて止める。


『おばあさまっ、興奮なさってはお体に障ります』

『でも、ベリンダっ……こんなこと許されていいわけないでしょう!? ベリンダのこれまでの頑張りをすべて蔑ろにするなんてっ、他にもやりようが……』


 興奮して語尾を詰まらせる祖母の目尻は、怒りと悔しさが滲んで赤くなっていた。

 久しぶりに与えられた労り……受け取った胸の中で、くしゃりと歪みが大きくなる。打ち消すように、少し早口に言った。


『大丈夫です、おばあさま。私、お父様たちが私を邪魔に思っていることをちゃんと理解しています。だから、心配なさらないで』


 祖母に抱きついて懇願するベリンダの言葉に、両親は目を見開く。


『馬鹿なっ、そんなこと思っていない!!』

『そうよ、何を言い出すのベリンダ!』


 背後からの怒声がまるで聞こえないように、ベリンダはしがみ付いた祖母の目だけを見つめ、瞬きもしないまま続けた。


『判ってくれと何度も頼まれました、私が我慢すればすべて丸く収まる、だから黙って従えと。私、ちゃんと理解しています』

『ベリンダ!』

『私は最早跡取りとしては不要品ですが、まだ侯爵家の娘として弟の踏み台くらいにはなれるでしょう』

『ベリンダ!』

『万が一にも障害になるようなことがあればお父様たちは、私なぞ簡単にお殺しになれる。ちゃんと判っています。でも、私はまだ死にたくない。だからちゃんと全部受け入れます』

『ベリンダ!?』

『おばあさまは何もご心配なさらないで』


 見開いた目を爛々と輝かせ淀みなく紡ぐ様は、心配するなという言葉とは裏腹に酷く危うく。明らかに、孫娘の自分と同じ色をした瞳は狂気を孕んでいた。

 驚愕に目を見開く祖母を見ながら、尚もベリンダは紡ぐ。


『私はもう何もしません、何も望みません。ただ、これからも生きることを許して欲しいだけ』

『ベリンダ!?』


 抑揚のない声で真っ直ぐ言うベリンダに呼びかける両親の声は、まるで彼女には届かず。

 狂気に染まった目で見つめられて懇願された祖母は、瞬かず乾いていく眼球を潤すために溢れてきた水分が雫になって零れ落ちる寸前、ベリンダを胸に掻き抱いた。


『ベリンダっ、もういいのっ、お前はよく頑張ったっ。もうお前は何もしなくていい!! 何も考えないで、ゆっくり休んで。お前には休息が必要よ』

『お、ばあさま……?』


 いきなり息も出来ない力で抱擁され微かに抵抗したベリンダを、祖母は更に強く抱きしめて、必死に息子たちから隠す。


『……この子は私が連れて行きます。お前たちはその跡取りを精々大事にするがいいわ』

『母上!!』

『お義母さま!?』

『この子はお前たちにとって不要品なのでしょう、だったら文句を言わないで!! 行きましょう、ベリンダ』

『おばあさま、でも私は……』

『もういいのよ、ベリンダ。貴女はただ生きてくれれば、それだけでいいの……』

『お、ばあ、さま……?』

『迎えにくるのが遅くなってごめんなさい』


 涙声で謝って、肩を抱いて歩き出す祖母に連れられて、ベリンダは生家を離れた。

 祖母と父にどんなやりとりがあったのか詳しくは知らない。判らないまま祖母と二人領地へ戻り、そこで半年程過ごした後、結局ベリンダは王都へと戻った。

 王宮官吏の試験を受けるためだ。

 これまで忙しく過ごしてきたからなのか、生来の性根なのか、ベリンダには全く何もしない生活はどうも居心地が悪く。のんびりと穏やかにただ時間を消費する生活は焦燥感しか生まなかった。

 だから最初は、領地で働き口を求めようとしたが、領主の娘を雇ってくれるところはないだろうと祖母に止められた。その後、ならばいっそ実力試しに王都の官吏試験を受けてみる? と聞かれて、即頷いた。

 勉強する時間はたっぷりあった。

 一発で合格を決めたベリンダは、自分で言い出したのに、実際そうなったら泣いてしまった祖母を宥めて、一人王宮の宿舎へと住まいを移した。

 それからはひたすら真面目に仕事に打ち込んだ。誰の求めにも真摯に応えて、実力を遺憾なく発揮し、すべてが順調だったと自負している。

 様々な部署を経験し、入職から二年足らずで元同級生の第三王子コーネリアスに見いだされ、彼の執務室付文官になったのは三年前。

 同じく同級生だった王子の側近の公爵子息のレオナルドと男爵子息のテオバルトと共に王子の仕事を手伝い。時々はコーネリアスだから関われる重要な外交や政策会議などにも加わらせてもらった。


 それは、ベリンダが初めて経験した、本当に楽しい仕事だった。

 出来ればこのまま、このかたちのまま。

 ただ彼らの友として、部下として、ずっと……。


 祖母が死んで真実を知るまでは……本当に。

 本当に、純粋に願っていたのだ。













読んで頂きありがとうございました。

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