天使の皮を被ったライオン
文化祭に向けて、蟻宮が歌うオリジナル曲の制作は順調に進んでいた。そして、ついに完成を迎えて……
夜中にスマホがシャランと鳴った。
水晶を砕くような音……と言っても水晶を砕いたことないから、実際の音は知らない。SEを聴くのは、わりと好きな方だ。人工的に合成されただけの単音が、人の感情に触れたり、リアルなイメージを浮かび上がらせたりするのは、マジですごいと思う。
彰は、ベッドの上に投げ出してあったスマホを手に取った。今の音は、統合SNSツール「フラクタル(通称:FN)」の着信音だ。画面に虹色に輝く自己相似図形が表示されていた。
フラクタルとは、図形の一部分と全体が同じような形をしている図形のことだ。自然界では、ありふれた図形だ。
フラクタルは数式によって描画される。FNでは、DNA(遺伝子)を含めた生年月日等の個人情報を定数、個人が設定する暗号を変数、FNが24時間ごとに更新する秘匿された計算式を乱数として、フラクタルを生成していた。FNの独自機能として、色や光量が固有の変化をし、それも含めてIDとなっているため、現性能のカメラでは、静止画どころか動画撮影しても再現できないようになっていた。
他者に見せても個人情報が読み取れないことから、今では、店での支払い、駅のゲート通過も、このフラクタルをカメラに提示するだけでできるようになっていた。例えスマホを盗まれたとしても、使用者のDNAと一致しないと図形が変化してしまうため、非常に信頼性が高いシステムだ。
FN利用者が、ほぼ100%に達した現代では、そういう機械的な利便性を抜きにしても、フラクタルは特別な意味をもっていた。
自分のフラクタルと、相手のフラクタルを結び付けると、自分と相手共有の新たなフラクタルが生成される。このフラクタルは利用制限の範囲によって色が変化する。文字チャットのみなら〝黒〟だが、最上位の〝虹〟になると、仮想空間に投影されたアバター同士で「直接」会って、一緒に過ごすことも可能だった。
虹フラクタルを表示した互いのスマホを並べると、光り方が完全に同期する。セキュリティ向上のためにデザインされた仕掛けだったが、相手との関係が可視化されたように感じられるので、ともすれば、不可視の実際の絆よりも、相手との人間関係を象徴するものと受け止められていた。
彰は虹色に脈動するフラクタルを複雑な気持ちで見た。基本ぼっちだった彰の高校生活において、虹のフラクタルを持つ相手は一人しかいない。
はあーーーーーーー。
彰は深いため息をつくと、諦めたようにフラクタルに触れた。
蟻宮:ねえ、今度の日曜日、暇?
同級生の女子から(しかも飛び抜けた美少女から)となれば、たいていの男子高校生なら舞い上がってしまいそうなメッセージが、何の愛想もなく、ぽんと表示された。
彰:何?
彰は、素っ気なく返した。
ここ最近、毎日のように、この自室で二人きりで音楽づくりに没頭している彰にはわかってしまう。これが、単なる〝業務連絡〟だということが。
無味乾燥な文字チャットのやり取り。他の男子が見たら、「せっかく虹なのに」と身もだえするところだが、彰も蟻宮も、「その方が楽だから」という理由で、やり取りは、たいてい文字チャットだった。所詮、二人の関係は単なるクラスメイト。彼氏彼女どころか友達同士でさえない。彰は、その点、ドライな男子高校生だった。この場合、それが幸いしているともいえる。もし、ここで舞い上がっていたら、音楽だけでつながっている蟻宮との今の関係は、始まりさえしなかっただろう。というか、男子の方が耐えられなかっただろう。いろんな意味で。
蟻宮:スタジオ借りられそうだから、オケと歌、合わせてみない?
蟻宮は、作曲マニアの彰も驚くほどの熱量で編曲に取り組んでいた。二人とも妥協しないので、たった一曲にとてつもない時間がかかっていたが、昨日、ようやく完成といっていいところまで仕上がった。
庄司:カラオケとかじゃなくて?高くないか?スタジオ。
オーディションのデモテープをカラオケで録画するのは、昔からのあるあるである。高校生にとって、スタジオをわざわざ借りるというのは敷居が高い。
蟻宮:ママの知り合いで音楽スタジオ持ってる人がいて、会員価格で貸してくれるって。\500/1hだって!
カラオケより安いんじゃないのか?それは。
彰は知らなかったが、名古屋だと、防音機能のあるレンタルスペースの相場は安くても\1,500/1hぐらいだ。高校に軽音部があるならラッキーで、高校生がバンド活動をやるような場合、他校の生徒とバンドを組むことも多く、そうした貸スタジオを借りることもあった。
庄司:了解。
短い返事に既読のマークが付くのを確認して、彰はスマホの画面を消し、そのまま眠りに落ちた。
―数日後―
蟻宮吉野はヘッドホンを外して膝に置いた。
いつもは緩くウェーブを描いて広がっている金髪が、この日は、後頭部でしっかりと結ばれていた。そのせいか、ただでさえ武骨なプロ用のヘッドホンが、不自然なぐらい大きく見えた。
「どうだ?蟻宮」
そう聞きたいのをぐっと我慢して、庄司彰は、蟻宮をじっと見た。
「うん。いいと思う」
蟻宮の声を聞いて、庄司の顔が少しだけ緩んだ。
「じゃあ、録るから」
ん、と蟻宮が頷き、再びヘッドホンを小さな頭に装着した。
自宅だと、ヘッドホンすれば音は漏れないから曲作りする分には困らないが、歌うとなると、どうしても音は出る。悲しき日本の住宅事情により、大声はご法度で、これまで蟻宮が思い切り歌える機会はなかった。いつものように、マイペースな蟻宮だが、心なしか上機嫌なようにも見えた。
設置されたスピーカーから大音量で音楽が流れ出した。蟻宮の装着している遮音性の高いヘッドホンには、同じ音楽が鳴っているはずだ。
観客に向かってステージに立つと、右の音を左耳で、左の音を右耳で聴くことになる。オーケストラの演奏の場合、生音を聴いて演奏するのが普通なので慣れるしかないが、音量も左右バランスもバラバラなのに、全体のまとまりを考えて演奏できるクラシック奏者は、本当にすごいと思う。
今ここにいるよ♪
何度も聴いている曲なのに、不意打ちのように蟻宮の甘い歌声が彰の胸を串刺しにした。
なんだこれ?教室で聴いたのと全然違う!
私の声が♪
消えてしまう前に♪
届きますように♪
蟻宮の、たいして力強くもない声が、容赦なく彰の心臓をえぐり、身体の中を、ぐちゃぐちゃに掻き回していく。
今ここに存在する♪
私という形が♪
あなたの所に♪
届きますように♪
なんだこれ?けっして上手いわけじゃないのに「もっていかれる」
天使の声。
最初に蟻宮の歌声を聴いた時の印象が、彰の中にそのまま再現された。甘く、優しく、それでいて、無慈悲で残酷な、天使の声だった。
長いようで一瞬の時が過ぎ、気づくと音楽も歌声も鳴り止んでいた。
「どう……かな……?」
いつも、にこやかだけど、感情を感じさせない、スマイルポーカーフェイスと密かに彰が呼んでいる蟻宮の表情が、恥ずかしそうにうつむいていた。
「……いや……よかったんじゃないのか」
彰は、言葉を飾る余裕もなく、率直な感想を漏らした。
「ほんと!?」
蟻宮の顔が、ぱあっと輝いた。
「上手くはないけど、なんか、心に、こう、くるものがあった」
「上手くはないけど」のくだりで蟻宮が一瞬よろめいたが、すぐに持ち直し、珍しく、にぱにぱと満面の笑顔を浮かべた。
「ねえ、彰くん」
「ん?」
不意に呼びかけられ、彰が怪訝な顔をした。
「できたね。わたしたちの音楽」
蟻宮が、にぱっと笑った。
「……ああ。……そうだな」
彰は、蟻宮の裏表のない天真爛漫な笑顔を見て、よかったと思った。
一人で曲を作って。作り続けてきて。毎日、蟻宮にぼろかす言われながらも曲を直して。今日、ここで、蟻宮の歌を聴いて。初めて、自分の曲を、蟻宮の歌を、誰かに聴いてもらいたいと思った。それこそ、そこらへんの通行人をつかまえて、無理やりヘッドホンを被せたいぐらいには。
「よし、歌うぞ!」
「え?」
「だって、1時間しか借りられないんだよ。もっと歌わなきゃ、もったいないでしょ」
「ちょっ、まっ……」
彰は、今にも歌い出しそうな蟻宮を押し留め、たった今、収録した曲を二人で聴き、それから、何回か、蟻宮が歌い方を調整しつつ歌って、最後のギリギリの時間で一発録りでオケを収録して、その日のスタジオイベントはお開きとなったのだった。
「いやあ、録れてよかったよ」
スタジオからの帰り道、彰は上機嫌でスマホのデータを確認した。
蟻宮が歌うといっている学校の文化祭のステージは、彰の自室の機材を持ち込むことができない。一人では運べないし、セッティングにも時間がかかりすぎる。そうなると、録音したオケを流すしかない。彰が音楽作りをしているDAW(ダウ:Digital Audio Workstation)を使えば、そのままデジタルで音を出力することもできるのだが、今回、借りたスタジオは録音機材も相当なものがそろっており、機材マニアでもある彰としては「使ってみたい」という欲求もあった。実際に収録してみたところ、手触り感というか、空気感というか、とにかく臨場感のあるオケが収録できたので、彰としては上機嫌になろうともいうものだった。
「ねえ、ボーカルが入ってるやつも録ったんでしょ?わたしにも送って」
「ああ、そうだな。すぐ転送する」
路地裏で立ち止まり、二人でスマホを取り出して、同じフラクタルを開いた。
特別な関係でもない蟻宮と〝虹〟を持っているというのは恥ずかしくもあるが、こういうときは、何でも転送できて便利である。
「おい、楽しそうじゃねえか。俺にも見せてくれよ」
ガラガラした声がして、背後から伸びてきた、ごつごつした手が、彰からスマホを奪い取った。さっきまで誰もいなかった路地に、柄の悪そうな男が数人、彰と蟻宮を取り囲むようにして立っていた。男の手の中で、カシャンと音がして、画面に表示されていたフラクタルが砕け散った。
「か、返せ!」
彰がスマホに手を伸ばすと、男は、巨体でガードしつつ、これ見よがしに手を伸ばしてスマホを遠ざけた。
「男とじゃれあう趣味はねえんだ。そっちの女の子が俺に付き合ってくれるなら、返してやってもいいぜ」
男が、ねっとりした目で蟻宮を見た。パーカーのフードを目深に被っていてさえ、蟻宮の美貌はこぼれださんばかりに輝いていた。
「いや」
蟻宮がきっぱりと断り、男は一瞬、呆けたような表情になったが、彰を傍にいた男の方に突き飛ばすと、にやにわしながら、蟻宮に一歩近づいた。
「何、怖がらなくていいぜ。俺は女には優しいんだ。一緒に食事するだけだ。おごってやるぜ」
「蟻宮!俺のことはいいから……」
彰は「逃げろ」と言いかけて躊躇した。完全に囲まれている。逃げられるのか?
「彰くん」
蟻宮が静かに言った。
「本当に大事なものは手放しちゃだめだよ」
何が起きたのか見えなかった。蟻宮の位置が一瞬で入れ替わり、その手には、彰のスマホがあった。
「え?あ?なんだぁ?」
男も何が起きたのかわからず、忙しく視線を行ったり来たりさせて、スマホが無くなった自分の手と、蟻宮の手のスマホを交互に見た。
「おとなしく立ち去れば見逃してあげる。でも、彰くんに手を出したら容赦しないよ」
蟻宮が、スッっと冷たい目で男を見た。
「こ、こいつ!なめやがって!」
男が一瞬で逆上し、蟻宮につかみかかった。
「蟻宮!」
彰が声をあげ、駆け寄ろうとしたが、背後の別の男に腕をがっちりとホールドされていて、身動きもできなかった。
目の前で信じられないことが起きた。
男の巨体が、まるで重力がないかのような動きで、ふわりと1回転し、背中から地面に落下した。
「ぐぉ!」
男が、カエルを踏み潰したような悲鳴をあげた。
「あら、意外と格闘技の経験もあるのね。受け身が取れないかもって心配しちゃった」
蟻宮が片手を口元に当て笑顔をつくった。目が少しも笑っていないが。
「てめぇ!」
男が素早く立ち上がると、今度は容赦なく蟻宮に殴りかかった。
今度は彰にも見えた。
蟻宮が男の拳を両腕で挟み込み、円を描くように動かした。
「いでででででっ!」
男は悲鳴を上げて地面に倒れ込んだ。
「抵抗すると骨が折れちゃうよ」
蟻宮は、腕を話して怖い笑顔を浮かべた。男は抵抗する気力もなくなったようで、脱力して地面に倒れ伏したままだ。
「もう1回だけ言うね。そのまま立ち去るなら見逃してあげる。1回逆らったから、もう2回目はないからね」
蟻宮の笑顔が怖い。
男たちも底知れぬ恐怖を感じたらしく。彰を放り出すと、素早く姿を消した。
「蟻宮、おまえ、強かったんだな」
「ママほどじゃないけどね」
蟻宮は、さらっと怖いことを言った。どんなママだよ……。
どんな陰口を叩かれても、平気な顔をしているわけだ。蟻宮は圧倒的な強者だった。どんな嫌がらせも、その気になれば、すぐに一掃できるのだろう。天使の皮を被ったライオンだった。
「……助かったよ。ありがとう」
開けた通りに出て、花壇に囲まれた休憩スペースを見つけて、二人でそこに座った。夏の暑さは去り、秋の宵の心地よい風が吹いていた。
「どういたしまして」
蟻宮は、にこにこした。
「何で逃げなかったんだ」と彰は口にしてから気が付いた。これほど強いなら逃げるはずもない。
「だって、これ」
蟻宮は、スマホを彰に手渡した。彰がスマホを持つと、真っ黒な背景の中心に光の点が現れ、花火のように一瞬で形が広がって、虹色に輝くフラクタルが現れた。
「それ、無くなっちゃうじゃん」
蟻宮は、彰の手の中のフラクタルから恥ずかしそうに眼を背けた。
「……別に、スマホがなくなっても、俺のIDでログインすれば、また、フラクタルは出てくるよ」
「え?そうなの?」
蟻宮は驚いたように声をあげた。女の子にしては機械に詳しいと思っていたが、どこか抜けている。
でも、俺とのフラクタルをそんなに大事にしているなんて思ってもみなかった。間違えたんじゃなかったのか?
彰は頭を振って、そんな甘い期待を振り払った。期待してはいけない。この天使は、いや、天使の皮を被ったライオンは、人間のことになんか、興味はないのだから。
「……次は文化祭のステージだな」
彰が口に出したのは、帰り道の続きのせりふだった。
「うん!楽しみだね」
蟻宮が、にこにこと笑う。そういえば、いつから、蟻宮は、こんなに笑顔を見せるようになったんだろう。
「そういえば、蟻宮は、何でそんなに文化祭に出たいんだ?」
彰が、いまさらの疑問を口にすると、蟻宮は、きょとんとした顔になった。
「わたしね。パパみたいに、みんなを守る仕事もできないし、ママみたいに、ファッションでみんなを幸せにすることもできないし、じゃあ、わたしに、何ができるかなって考えた時に、歌うことかなって思ったの」
それを聞いて、彰は、蟻宮の家族のことも、蟻宮自身のことも、何も知らないことに気付いた。だが、彰には、踏み出す先がわからなかった。視界が白い霧に包まれたようになり、自分がどこへ向かっているのか、向かいたいのかもわからなかった。
蟻宮が立ち上がり、彰に手を差し伸べた。
「彰くん、行こう!」
彰は、光り始めた街灯を背景にした蟻宮の顔を見た。笑顔がまぶしかった。
「一緒に音楽を作ろう。みんなに歌を届けよう」
彰は思わず蟻宮の手を取った。蟻宮が手を引くと、彰は、まるで自分の身体が羽になったかのように、軽やかにすっと立ち上がった。
「ああ」
この日、彰は、初めて蟻宮に笑顔でうなずいたのだった。
うーーーーーん。
この話は恋愛ものにならないって、そう納得して書いてるのに、なんか変な方向に向かってるか?
まあ、でも、「蟻宮は彰のこと何とも思ってない」って未来の時間軸上で書いちゃったしね。大丈夫だろう。うん。
わたしったら、すっかり場所設定を忘れて、京都の治安事情やスタジオの位置や料金などを調べ上げて、ついうっかり京都を舞台に書いてしまいましたよ。そこから名古屋に修正するのに時間がかかったっていうのを、前回エピソードから間が空いた言い訳にしておきます。いつも読んでくれてありがとうね。次はもっと早く書けるといいなあ。




