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Vチューバー始めてみたけどこれって正解ですか?  作者: あやな
大学生編

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14/14

小さな演奏者

社長の来店により、VチューバーアイドルグループFREESiAに戻ると宣言した蟻宮吉野。「店は続けていい」という社長の言葉通りに、蟻宮の日常は、変わらず続いていたが―――

「ありりん、ちょっといいかな?」


水曜日の午後1時半、出勤したばかりの蟻宮ありみや吉野よしのは、落ち着いた大人の女性の声に呼び止められた。


水曜日は大学が午前中で終わる。午後は授業を行わず、学生が自由に部活動やサークル活動を行えるようにしようという大学の方針だ。蟻宮は、部活にもサークルにも入っていないので、よく知らないが、対外試合や合同練習がよく行われているところを見ると、蟻宮の通う大学だけでなく、この地域の大学が方針を合わせているのかもしれない。


「はーい」

蟻宮は返事をすると、普段は滅多に足を踏み入れない厨房へと向かった。


蟻宮が勤務するカフェ・ミストラルは飲食店なので、従業員は出勤すると、クリーンルームで肘から先を徹底的に洗浄し、殺菌消毒された制服に着替えるルールになっている。店自体は一見してオープンスペースに見えるが、床のパターンを変えて、店員にだけわかるようにエリアが仕切られている。厨房は、衛生管理が最も厳密なエリアで、あの、のほほんとして見えるルルでさえ、食品と食器類以外は、いっさい触らないようにしていた。


蟻宮は、厨房の入り口の前に立つと、分厚いスライドドアが音もなくスッと開いた。


「ありりん、悪いんだけどさ。卵、取りに行ってくれない?」

厨房にいた、背の高い女性、橋本はしもとかおるは、厨房の入り口に立つ蟻宮の方を振り向いて言った。

「卵ですか?」

「うん。仕入れてから来ようと思ったんだけど、今朝は、数が足りなくてさ。昼頃、取りに来いって言われたのよ。でも、今、手が離せなくて」

「お昼時ですもんね」

「そうなんだよ。数量限定といっても、さすがに今の時間は無理だわ」

薫は、がはははっ、という文字が左上に出そうなぐらい豪快に笑った。薫は、長身でモデル体型、顔もモデルができそうなぐらい整っているが、中身はおっさんと言われるぐらいの男前な性格だった。


薫は、養鶏場の一人娘で、実家の卵を美味しく食べてもらうために、カフェ・ミストラルの店員になった。料理好きで、あらゆる料理を作るうちに、和洋中何でも来いのマルチ料理人になってしまった。


趣味の範囲で料理をしていた時から凝り性で、仕上がりはプロ並み。料理を作るのが、あまりにも好き過ぎて、実家の両親の分だけでは、もてあまし気味だったところ、カフェ・ミストラルに来て、思う存分、腕を振るうことができるようになった。毎日、食事時だけ厨房に来て、憑りつかれたように料理をして去って行く。その味は、舌の肥えた常連客をもうならせるほどで、カフェ・ミストラルに客が絶えたことはない。


とはいえ、一人で作る量には限界があり、席数も多くないので、数量限定になってしまうのは、やむを得ないことだった。そのため、常連客の絶対の掟となったのが、食べログなどのグルメレビューサイトに情報を上げないこと。店側が提示したルールではないが、たまに現れる新規来店者には、常連客から事情を含めたレクチャーが念入りに行われる。ルールに反した者は、店から永久追放された。もちろん、一見いちげんさんお断りなどという堅苦しい店ではないので、あなたも、通りすがりにカフェ・ミストラルを見つけたら、ラッキーだと思って入ってみるといい。


「わかりました。確かに、今は無理ですもんね」

蟻宮は、薫の魔法のような手捌きと、次々と調理台に並ぶ料理を見ながら言った。

「夕方3時までに届けばいいから、ゆっくり行ってきなよ。今日は、接客の手は足りてるからね」


カフェ・ミストラルには、バイトはいない。蟻宮のような学生も含めて、全員が正社員だ。ただし、〝クラス〟が設定されていて、それぞれ権限が異なる。薫は、アズールブルー(明るい青色)の制服を着た〝マネージャークラス〟、蟻宮は、お客さんと接することの多い〝キャストクラス〟の店員で、セレストブルー(空色)の制服だ。〝マネージャークラス〟は店長に近い権限を持っていて、店全体の人員配置を見ながら、店員の仕事を割り振ることができるのだ。


「はい。行ってきます」

「頼むよ。その卵はチーズケーキの材料になるんだ。帰ってきたら報酬をあげるよ」

薫は、男前にそう言い、蟻宮に向かって片目をつむった。


薫が毎日焼いているのは、ベイクドチーズケーキだ。バター、クリーム、チーズ、ビスケット、砂糖、卵を混ぜて焼き固めただけのシンプルなデザートだが、来店客のほとんどが、食後のコーヒーと一緒に注文する逸品なのだ。


蟻宮は、更衣室に戻り、着替えた。


「これを着るのも久しぶりね」

蟻宮はスタンドミラーに写る自分の制服姿を、しげしげと見た。


驚くべきことに、カフェ・ミストラルには、外出用の制服があった。今の蟻宮のように、買い出しや渉外交渉のため、店員として外出することは、あるにはあるのだが、わざわざ外出用の制服がある喫茶店というのは珍しい。これは、カフェ・ミストラルの制服デザインを一手に引き受けている、蟻宮の高校時代からの友人が、「外出用は絶対必要!」と強硬に主張して採用されたものだ。店内用がブルーを基調としているのに対し、外出用は小豆色を基調とした、やや和風寄りのメイド服だ。


薫の実家の養鶏場は、徒歩で20分ぐらいの場所にある。蟻宮は、銀行側の出口(カフェ・ミストラルは、銀行と家電量販店の間の連絡通路に作られているので、専用の出口がない)から出ると、東に向かって、通りを歩き始めた。


街路樹が新緑に輝いていた。蟻宮は、若葉の青々とした香りを胸いっぱいに吸い込んだ。4月の浮ついた空気も落ち着き、待ち行く人の顔は晴れやかで、間近に迫った連休への期待で胸躍らせているようだった。


すぴっ ぷっ ぽー


気の抜けたような音がした。蟻宮は音のする方を見た。住宅地の真ん中に小さな公園があり、富士山の形をした遊具の上に、一人の男の子が座っていた。


「何してるの?」

「うわあ!」

至近距離から突然声を掛けられた男の子は、文字通り飛び上がって、そのまま、富士山の斜面を滑り落ちた。

「ごめん、ごめん、そんなにびっくりすると思わなかった」

ちょっと脅かしてやろうという悪戯心いたずらごころを内心に秘めて、蟻宮は素直に謝った。蟻宮は、祖父の代から続く合気道の達人である。そんな武道の達人が、気配を殺して忍びよれば、子どもでなくても、そう簡単に気付くものではない。


富士山の形をした遊具は、裾に向かって坂が緩やかになっていて、てっぺんから落ちたぐらいでは、怪我しない構造になっていた。蟻宮も、子どもの時は、わざと滑り落ちて遊んだものだ。


男の子は、富士山をよじ登り、再び元の位置に座った。

「何してたの?」

一緒になって滑り落ちたい衝動に耐えながら、蟻宮は、もう一度、男の子に聞いた。

「何って、リコーダーの練習だよ。見ればわかんだろ」

男の子が、ぶっきらぼうに答えた。驚かされて怒っているというよりも、知らない若い女性に話しかけられた男の子の反応としては、こんなものだろう。


「気にせず続けていいよ」

笑顔で言う蟻宮をちらりと見て、男の子はリコーダーの唄口をくわえたが、音を出さないまま、口から離してしまった。

「どうしたの?」

「―――うまく吹けないんだ」

蟻宮の不思議そうな顔を見て、男の子は、頬を赤らめて顔を逸らした。

「大丈夫だよ。わたしのことは、そのへんの木だと思って。ささ、続けて、続けて」

「―――木がしゃべるかよ―――」

男の子は、納得のいかない表情で、それでも再びリコーダーの唄口を加えると、慎重に指を穴に合わせて、息を吹き込んだ。


すぴー


気の抜けたような音がした。

「どうしてもうまく鳴らない。みんな、すぐにできたのに、俺だけ。きっとリコーダーが悪いんだ」

男の子は暗い顔で言った。


「リコーダー見せて」

蟻宮が言うと、男の子は、素直にリコーダーを手渡した。


蟻宮は、リコーダーのつなぎ目を外し、筒の中や、唄口を確認した。


リコーダーは、リード(薄い振動版)を使わなくても音が出る素朴な木管楽器だ。日本では小学校3年生(8歳)から学校で演奏を習う。小学生でも音が出せる単純な構造をしているが、気温や湿度で音程が変動するので、奏者の息遣いを調節する必要がある。子ども用と思われがちだが、高い演奏技能を習得するには、相応の練習が必要となる難易度の高い楽器なのだ。


「楽器は問題ない」

蟻宮は、組み立て直したリコーダーを男の子に返した。

「じゃあ、何で俺だけ吹けないんだよ!」

男の子は叫んだ。

「落ち着いて。リコーダーは、あなたの心を映すの。心が荒れていたら、いい演奏はできない」

蟻宮は穏やかに言った。

「親指で裏の穴を押さえて」

蟻宮は、男の子の手を取ると、そっと指を導いた。

「人差し指と中指は一の穴と二の穴を押さえて」

「さっきもやったよ」

男の子は、投げやりに言った。

「そうね。あなたは間違ってない。あとはリコーダーを歌わせるだけ」

「歌わせる?」

蟻宮は、男の子に、にっこり笑うと、真っ直ぐ前を向き、あ―――と正確にラの長音を発した。

「同じようにリコーダーで歌ってみて」

蟻宮は、男の子に笑顔で言い、再び、真っ直ぐ前を向いて、声で長音を発した。

男の子は、蟻宮の顔とリコーダーを交互に見比べ、半信半疑でリコーダーに息を吹き込んだ。


ポ――――――――


素朴な温かい音がリコーダーから真っ直ぐ前に飛んで行った。


「吹けた!」

男の子は驚いて言った。

「ね。リコーダーを歌わせるだけ。もう一度やってみよう」

蟻宮の笑顔に男の子はうなずき、二人で前を向くと、息を合わせて、同時に音を発した。リコーダーの丸みのある長音と、蟻宮の歌声が調和した。

「すごい!できた!」

男の子は顔を輝かせた。

「でも、なんで?」

蟻宮は男の子の唇に人差し指を当てた。

「難しいことは考えなくてもいい。リコーダーは、あなたの心を映す。リコーダーを歌わせるだけ」

男の子は、少しだけ頬を赤らめて、蟻宮にうなずいた。

「何か演奏できる?」

男の子はうなずき、ランドセルから音楽の教科書を取り出して、開いたページを蟻宮に見せた。

「エーデルワイスか」


エーデルワイス(Edelweiss)は、オーストリアの国花を讃える歌であることから、オーストリア民謡もしくはオーストリア国歌と、よく勘違いされるが、1959年にアメリカの作曲家リチャード・ロジャースによって作曲された、ミュージカル『 サウンド・オブ・ミュージック 』の劇中歌である。


「こんな難しいの、演奏できるの?」

蟻宮の質問に男の子は胸を張った。

「できるよ!どうしても音が出なかっただけで、指使いはちゃんと練習したし!」

「そうか。頑張り屋さんなんだね」

蟻宮は目を細めた。

「じゃあ、一緒に歌おうか」

「えっ、一緒に?」

蟻宮はうなずいた。

「わたしは、リコーダー持ってないし、実は、楽器の演奏は、あんまり上手じゃないんだ。だから、声で歌う。えっと―――」

「さとし」

男の子ははっきりとした声で言った。

小田切おだぎりさとし、さとしでいいよ」

「さとし君ね」

蟻宮はうなずいた。

「じゃあ、さとし君、一緒に歌おうか」

さとしが頷いたのを見て、蟻宮は、にっこり笑顔を見せた。


何回か、歌い出しを練習した後、蟻宮は、すっと立ち上がった。


富士山の上は舞台だった。蟻宮は、その舞台に立ち、顔を上げて、真っ直ぐ前を見た。聡は、舞台に腰かけ、膝に開いた教科書を乗せた。リコーダーの唄口をくわえ、蟻宮と同じ方向に真っ直ぐ視線を向けた。


合図もなく、二人の呼吸が静かに合わさった瞬間、同時に音が出た。


Edelweissエーデルワイス

Edelweissエーデルワイス

Every morning you greet me(毎朝君は僕にあいさつしてくれる)

Small and white(小さく白い)

Clean and bright(清らかで明るい)

You look happy to meet me(僕に会えて嬉しそうだ)


Blossom of snow may you bloom and grow(雪の花が 咲き育ちますように)

Bloom and grow forever(咲き育ちますように 永遠に)

Edelweissエーデルワイス

Edelweissエーデルワイス

Bless my homeland forever(祖国を永遠に祝福したまえ)


『世界の民謡・童謡』より引用

https://www.worldfolksong.com/popular/musical/edelweiss.html


「おおー!」という声と共に拍手が沸き起こった。

いつの間にか公園には、10人ぐらいの人が集まっており、メイド服の歌い手と、小さなリコーダー演奏者を讃えていた。聡は、慌てて立ち上がると、にわかに集まった観客に向かって頭を下げた。


「あっ、いけない!もう、こんな時間!」


蟻宮は、細い手首に巻いた時計を見て声をあげた。

「何かあるの?」

「お使い頼まれてたの。すぐに行かなきゃ!」

「―――お姉ちゃん、えっと―――」

聡の戸惑う様子を見て、蟻宮は、はっと気づいた。

「あ、ごめんね。名乗ってなかったね。わたしは、蟻宮吉野。ありりんでいいよ」

「じゃあ、ありりんさん」

「ん?なに?」

「よかったら、その用事、手伝いますよ」

蟻宮は、さとしの真剣な表情を見て、ちょっと考えた。

「わかった。じゃあ、手伝ってもらおうかな。一緒に来てくれる?」

蟻宮の頼みを聞いて、聡は顔を輝かせた。

「うん!」


二人は、まだ観客の残る公園を後にして、急ぎ足で、薫の実家である養鶏場へと向かった。


「ごめんなさい!遅くなりました!」

蟻宮がカフェ・ミストラルに戻ったのは、午後2時半を少し過ぎた頃だった。

「いいよ、いいよ。午後3時までって約束だったろ。全然、余裕だよ」

薫は、がははっと、モデルみたいな外見に似合わない、豪快な笑い声をあげた。

「おや?そちらは?」

薫の視線の先には、卵ケースを2段に重ねて持つ、小学生の男の子がいた。

「途中の公園で会って、ここまで運ぶの、手伝ってもらったの」

「へええ」

薫は、目を見張り、にっこりと笑った。

「せっかくだから、そっちの小さいお友達にも、ご褒美をあげようかね。席について待ってな。ありりん、例の子がまた来てるよ」

薫は、蟻宮と聡が二人がかりで運んできた卵ケースを、大きな両手でまとめて掴むと、厨房へと戻って行った。


蟻宮と聡が客席に向かうと、

「おっそーい!」

不満の声をあげる、小さくて可愛い生き物が丸テーブルを占領していた。

「―――すももちゃん、なんで猫耳フード被ってるの。似合いすぎだよ」

蟻宮の所属していたVチューバーアイドルグループ、FREESiAフリージアのメンバーにして、蟻宮とツートップを組んでいた、すももだった。すももは、真っ白なモフモフしたパーカーを羽織っていて、頭がすっぽり入るフードを被っていた。そのフードには立派な猫耳が―――

「仕方ないじゃん。顔知ってる人が、どこにいるかわかんないんだからさ。ありりんも気を付けないとだよ」

そう言いながら、すももはフードを外した。体格に似あった、小さな可愛い顔が現れた。


先日の蟻宮のとんでも発言以来、カフェ・ミストラルでは、蟻宮とすももの素性は公然の秘密になっており、店内は、〝信者〟と呼ばれる蟻宮の熱烈なファンが、それとなく防衛陣を敷いているので安全であった。


「あれ?どこで拾ってきたの?この子」

「すももちゃん、言い方―――」

蟻宮はジト目ですももを見た。

「は、初めまして。小田切おだぎりさとしと言います!」

「―――いい子ね~」

「すももちゃん、含みのある言い方止めてね」

蟻宮は笑顔で言った。

「ごめん、ごめん、つい。でも、いいの?小学生を喫茶店なんかに連れてきて」

「お仕事手伝ってもらったの。薫さんがお礼したいって」

「はい、どうぞ~」

ルルがタイミングよく紅茶を運んできた。

「あれ?ルルさん、珍しいね。紅茶なんて」

「さすがに小学生にコーヒーは出せないわよね。ごゆっくり~」


ルル―――笠木かさぎ瑠璃子るりこは、 JBAバリスタライセンス(日本バリスタ協会JBAが認定する資格)を持つれっきとしたコーヒー職人で、女子高生にしか見えない外見にも関わらず、薫と同じく〝マネージャークラス〟の店員であり、年齢不詳ながら、カフェ・ミストラルでも最も古株のベテラン店員であった。


ルルの淹れるスパイスコーヒーは、唯一無二の幻の逸品として、遠方から、コーヒー1杯を飲むためだけに来店する客があるほど、その道では伝説的存在であった。


「美味しい」

紅茶に口をつけたすももが、驚きの声をあげた。天然香料や果物を全く使用していないストレートティーであるにも関わらず、芳醇な香りを放ち、深みのある味わいは、まさに絶品だった。ちなみに、この店では、飲み物の注文はできるが、何が出てくるかは選べない。ルルの気分次第なので、紅茶は、まさにレアアイテムだった。


「はい、お待たせ」

ケーキ皿を三つ乗せたトレイを持って薫が来た。優雅な手つきで、ケーキ皿を3人の前に置いた。

「もうできたの?」

不思議そうに聞く蟻宮に、薫は笑いながら手を振った。

「まさか。これは、昨日作ったやつだよ。ベイクドチーズケーキは、焼いてから、いったん冷蔵庫で冷やす必要があるからね。すぐにはできないんだよ」

「美味しそう」

さとしが声をあげた。


見た目は、平凡なベイクドチーズケーキだが、立ち上る芳醇なバターの香りが、ただ者でないことを物語っていた。聡がフォークを手に取り、三角形に尖った端に、ぐっとフォークのブレードを押しあてると、ケーキは一瞬の抵抗の後、水の中をくぐるように、すとんと下まで落ちた。フォークを立て、ベースになっているクッキー生地を押し割り、分離した欠片を口の中へと放り込んだ。


聡は言葉を失った。


「わたしたちも食べよう」

すももが言い、蟻宮もケーキを口へと運んだ。口に入れると、バターの香りがさらに濃厚さを増し、鼻から抜けていった。クッキー生地はカリカリとして香ばしく、上に乗ったクリーム生地は、溶けてなくなった。

「これよ、これ!チーズケーキは、もう、ここのしか食べられないわ」

すももが夢中で食べる様子を見て、薫は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「すももちゃん、わたしに会いに来てるんじゃなくて、チーズケーキ食べに来てるでしょ」

蟻宮が再びすももをジト目で見た。

「そ、そんなことないって―――」

ルルと薫、カフェ・ミストラルの双璧と呼ばれる二人の〝マネージャークラス〟店員は、幸せそうに紅茶とケーキを口にする3人を温かく見守った。


「ありりんさん、今日はありがとうございました」

全力で頭を下げ、足早に店を後にする聡を見送った。


「わたしね」

蟻宮はぽつりと口にした。

「どうしたの、ありり?」

蟻宮の顔には、切なそうな表情が浮かんでいた。

「やっぱり歌うのが好き。今日、改めて、そう思ったよ」

「そっかー」

すももは、そんな蟻宮を神妙な表情で見た。

「じゃあ、やっぱり、社長には、ありりのパパの説得、頑張ってもらわないとね」

おどけて言うすももの顔を、蟻宮は、微笑を浮かべて、じっと見た。

「な、なによ?」

「すももちゃん、ありがとね。こんな、わたしを、迎えに来てくれて」

すももの顔が一瞬で上気した。

「な、なに言ってるのよ!わたしは、ただ、また、ありりと歌いたいなって、そう思っただけで―――」

しどろもどろになる、すももを、蟻宮は変わらぬ笑顔で見つめ続けた。

「わたしも、もう一度、すももちゃんと、一緒に歌いたいよ」

「しょっ―――」

すももの口から、上擦った声が飛び出した。

「しょうがないなあ。よし!お姉さんに任せなさい。絶対、社長を引きずり出してみせるわ!」

「うん。お願いね」

蟻宮はすももを真っ直ぐ見つめたまま、この日、最高の笑顔を見せた。


この時、社長、神座かんざえるるの命運は尽きたのだった。

大変長らくお待たせしました。大変、申し訳ございませんでした。


言い訳させていただくと、本業の方が忙しくなったのと、他のところでは書いたのですけど、次々と通院が必要な身体的故障が起きてしまい、書く時間が無くなってしまいました。え?日記の方は、書いていたじゃないかって?しー!ですよ、しー!


こほん。


今回は、完全書き下ろしとなりました。あらすじだけ書くと、蟻宮がお使いに出て、公園に寄り道して帰ってきたってだけなんですけどねw 公園で歌うってモチーフだけあって、そこに一緒にいるのが、誰なのかって妄想を膨らませた結果、このようなお話になりました。アニメ「4月は君の嘘」の一シーンがイメージに盛り込まれていることは、ここで白状しておきましょう。


次回は、原作のリメイクになります。いよいよ、あの方の登場ですね。そんなに時間を置かずに公開できると思います。楽しみに待っていただけるとうれしいです。

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