幸せを運んだ犬 -後-
居間の隅に遺影がふたつ飾られている。ひとつは年配の男性。もうひとつは赤毛の犬。
許可を得てから猫宮は手を合わせた。
「お茶とお菓子を出すから、ちょっと待ってな」
「いや俺のは気にせず」
「誰かと食べるのは久々でさ」
「……。どの棚ですか。俺が取ります」
「ありがとね。そっちの棚に茶葉と急須があって、あっちにお菓子があるから」
卓に緑茶と草餅を置いて一息つく。
女性の家はひとりで住むには少し広く、どこか寂しさを感じる。
「コウキチはね少し前に逝っちゃったんだ。十八歳だったよ。長生きだろ?そんでもって老衰だとさ」
中型犬の平均寿命十四歳にしては、かなりの長生きだ。
犬は今部屋の中を彷徨いている。老衰と言っているが肉体から解放された霊体には、体のガタは関係ないらしい。もしかすると生前よりも今の方が元気かもしれない。
出会って早々に舐め回されたことを思い返すと、歳の割には落ち着きなく感じた。
「遺影見たでしょ?もう一つは私の夫。十五年前に先にね」
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二十五年も連れ添った夫が亡くなった十五年前。
亡くした彼との思い出に浸る毎日だった。突然ひとりになって途方に暮れていた。ある時、夫とよく歩いていた散歩道で、殺処分待ちの子犬がいるという張り紙を見た。その保健所でコウキチと出会ったのだ。一目で何か運命的なものを感じ、家族に迎えた。
「よろしくねコウキチ」
それからの日々は世界が色づいて見えた。毎日夫と歩いた道をコウキチと歩き、コウキチの知らない夫の話をたくさんした。
「あの人不愛想だけど、記念日を忘れたことが一度もないくらい、すごく愛情深い人だったのよ」
「あの人がいたら、きっと私よりもっとあなたを溺愛してた」
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コウキチがいたから、夫の死を受け入れて前を向けた。毎日が幸せだった。
だが、犬の寿命は人間と比べてあまりにも短く、彼女はまたひとりになった。
「生き物は皆いつか寿命が尽きるものだもの。頭では分かってる。でもね、何度見送ってもこればっかりは慣れないの」
長く生きれば良きる程、見送ることが増えていく。それは当然の摂理で、どうにもできないことだ。
「こんな暗くなってちゃダメだってことは、分かってる。夫とコウキチが見たら心配かけるからね」
『きゅー』
慰めたくても彼女に触れられないコウキチは、悲痛な鳴き声を発することしかできない。
幸せだったのは女性だけではないのだ。殺処分の順番待ちだったコウキチも、彼女に出会ったことで愛情を知ることができた。そんな彼女の話が大好きだった。
『きゅ、きゅ……』
いつの間にかコウキチも、会ったこともない写真の男が好きになっていた。自分に愛を教えてくれた人の、愛した人。会うことのできないあの人に代わって、自分がこの人の傍にいる。それが自分にできる恩返しと思って。
「こんなこと信じてもらえないと思うんだけどね。何となく……」
自信なさげに前置きをしているが、どこか確信した表情をしている。
「何となく、コウキチがそばにいる気がするの」
思わず犬と顔を見合わせてしまった。見える素振りも聞こえる素振りもなかったために、彼女の言葉に驚いたのだ。あからさまな反応をしてしまい、しまったと思うが、遅かった。
「気のせいじゃなかったんだね」
猫宮の反応で何かを察したらしい。今更誤魔化しても通用しないだろう。
だから、あえて開き直ることにした。
「信じなくても良いので聞いてください」
濁すか否定すると思っていた女性は不意打ちを食らう。
赤毛の犬の霊にここへ連れてこられたこと、成仏させるには未練を晴らす必要があること。そしてそれは女性に関係があることを伝えた。
未練が何なのか。ふたりを見ていればすぐに分かった。
「心配かけちゃってたんだね。ごめんねコウキチ。私がひとりでも大丈夫か心配で、それで成仏できずにいたんだね」
自分の目に映らない愛犬へと話しかける。ここにいると訴える彼の鳴き声は、彼女には聞こえない。合わない視線が、ふたりの別離を表しているようだった。
「どうしたらコウキチを成仏させてあげられるの?」
「伝えるだけで良い。あなたの言葉で伝えれば良いんです。ちゃんと彼に届きますから」
猫宮の視線の先に、彼はいる。
正しく意図を汲んだ女性が、一つ一つの言葉に想いを込め、おもむろに口を開く。
「コウキチ。大好きな人に先立たれても、その人との思い出がなくなるわけじゃないって、あなたが気づかせてくれたよね」
夫との思い出をコウキチに語ることで、色褪せることなく心にあり続けたのだ。
「あなたとの思い出が私の中にあるかぎり、私は何一つ寂しくなんかない。だから、私は大丈夫」
思い出ひとつひとつが彼女の支えになる。
「私は大丈夫だから、コウキチは安心して天国に行ってほしい」
幸せを運んでくれたコウキチは天国へ行くべきだから。
「ふたりで私のこと待っててね。こんなに長生きしてやった!って自慢しに行くからさ」
これまでのこと、これからのことを語り明かしたい。
「ありがとうコウキチ。あなたに出会えて本当に良かった」
決してあなたを忘れない。とふたつの写真を抱きしめる。
女性の想いを受け止めたコウキチは、ゆっくりと光の泡に包まれていく。
触れられはしないけれど、女性の目元の涙を舐める。
「──コウキチ?」
わんっ!
光とともに溶けて消え去る。彼女の目からポロリと涙がこぼれ落ちた。
「いってらっしゃい、幸吉」
穏やかな笑顔だった。
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夕焼けを背に帰路へ着く。
腕の中のおはぎを見ていると、向こうもこちらを見上げてきた。
「にゃーう?」
生きる時間が違うのだ。ずっと一緒にいたくとも、必ず別れが来る。互いがどんなに望んだとしても。
(俺はそのとき、笑って見送れるんだろうか)
「何でもねぇよ」




