毎夜の訪問者 -後-
入れろと催促するナニカは、生物の形をしていなかった。影の塊のような不定形の身体。だがよく見ると目や口、手らしきものがいくつか着いていた。
「ひっ……!」
尻もちついて後ずさる。
見えてはいけないものが見えてしまった。普段見えないものが、突然見えるようになるときがある。命の危機に瀕したとき──それが今だ。見えてしまったことは、すでにナニカに気づかれている。
(どうしよう……!!)
幸いナニカはまだ中に入ってこない。
『招かれないと、部屋に入れないって奴は結構いる』
猫宮の言っていたことを思い出す。先程ナニカも入れろと言っていた。彼女が招こうとしなければ、自力で入ることはできないということだ。だが危険な状況に変わりはない。
助けを求めて、携帯電話を取り出そうとした彼女の腕に、黒い物が絡みついた。
ナニカは入るのを諦め、無理やり手を伸ばして、彼女を外に出そうとしていたのだ。
「そんなっ、やだ、やだっ!来ないで、触らないでよ!!」
必死に腕を振り回して黒い手を振りほどいたが、腰が抜けてまともに逃げられない。
とうとう目の前に黒いナニカの手が迫ってきた。
(あぁ、ダメかも)
「カナト……」
目を閉じればカナトの顔が浮かぶ。
『ミオ!!』
「えっ」
一瞬彼氏の声が聞こえた気がした。驚いて目を開けるとおはぎを肩に乗せた猫宮がいて、ナニカが崩れて消えていった。
目を閉じていた女性には、猫宮が何をしたのかは分からない。
「ね、猫、宮さん」
ただ猫宮が命の恩人だということは分かった。
怪我がないか確認する。大丈夫だという彼女の、自己申告にはない腕を見ていた。一瞬考える素振りをした後、ホコリでも落とすように腕の辺りをはたく。彼女には何も見えなかったが、ナニカに掴まれた場所に何かがあったのだろうと察した。
おはぎも腕の辺りを嗅ぎ、もう問題はないと猫宮に鳴いた。
「戸締り、不十分ですよ」
見ればベランダの窓が開け放たれていた。不用心に窓の鍵を閉めていなかったおかげで、今息ができていると考えると、怪我の功名だろうか。
それよりも気になることがあった。
「ここ三階……」
この部屋はアパートの三階に位置するのだ。
知ってるが?という顔だが、そう易々と登れるものではない。何ともない顔でやってのけたようだ。
「彼氏さんが血相変えて知らせに来たのでね」
「カナトが……」
「間に合って良かったぁぁ!!」
さっきまでは青白い顔で狼狽えていたが、彼女が無事だと分かり、安心感から猫宮の隣で咽び泣いている。基本不愛想な猫宮と比べると、喜怒哀楽が激しいようだ。
「不幸を知見できる霊だったわけだ」
「死んでて良かったって初めて思ったわ!」
「不謹慎」
「さーせん」
自分のこととはいえ、不謹慎なことを言う者の頭をはたいて反省させる。実は、霊体に触ろうと思えば可能なのだ。ただし個体差や、猫宮から触れるならという条件が付く。そのため、猫宮が一方的に干渉することも可能ではある。
「さっきのは祓ったので、もう襲われることはそうないでしょう」
「危ないところをありがとうございました」
深々と頭を下げる彼女の顔から、疲れが見て取れた。死にかけたのだから当然だ。今夜は寝付けないだろう。
「不用心にドアを開けないようにと言ったんですがね」
「反省してます。でもカナトかもって思ったら……」
迂闊な行動に、もしも猫宮が間に合っていなければどうなっていたかと、彼氏は怒った。もし危険を察知できなかったら。もし、もし、……と様々な可能性があった。
「でも、ミオが無事でよかった」
両者が落ち着いたのを確認してから、彼氏の死について知っているかを尋ねた。どこに行き何が起きて亡くなったのかを、警察等から聞いたという。
「俺が何しに行ったかも知ったんだな。俺の口から伝えたかったよ」
彼女としても同じ心情だろう。家に来た警察から知らされる虚しさ。仕事をしているだけの何の非もない警察官に、感情をぶつけてしまいそうになるほどのやるせなさ。
「テレビをつけてください。ニュースなら何でも」
唐突な指示に困惑するも、テレビの電源をつけて番組を切り替える。
『──区のジュエリーショップで起きた強盗殺人事件の容疑者として、四十代の男が逮捕され──』
「こいつ……!」
「犯人、捕まったみたいですね。良かった」
テレビに映った容疑者は、彼氏を襲った人物だった。匿名通報から得た強盗犯の特徴が、決め手となったようだ。
「あとは警察がなんとかしてくれるでしょう」
生きた目撃者はおらず、現場のカメラに強盗犯の顔は映っていなかった。唯一特徴を覚えている者は、証言人にはなりえない幽霊。
昨晩猫宮が言っていた用とは、このことだった。
折角落ち着いたというのに、再び彼氏の目に涙が浮かぶ。会ったばかりの他人に、ここまでしてするとは。これは祓い屋の仕事に含まれてなどいないだろうに。
「猫宮さん、あんた」
「流石に物は手に入らなかった。悪ぃな」
部外者に過ぎない猫宮には、彼氏が渡したかった指輪を入手することはできなかった。心配せずとも遺族と話し合いの末に、いずれ彼女の元に渡るだろう。
「十分っすよ」
彼氏の声は聞こえているわけではないのだが、彼女は何かを察して穏やかな表情をしていた。
そして彼女に彼氏の言葉を伝えるときがきた。直接声を届けることはできないが、猫宮が一言一句そのままを伝える。
『あの日刺されないで生きてたら、プロポーズしようと思ってた』
『直接言いたかったけど無理だから。でも大好きだって言いたかった。あっけなく死んじまったけど』
『ここ数日、昔のこと思い出してた。ミオは幽霊とか苦手なのに、ホラー映画観てさ。結局一人で寝れなくなってたな』
『スイーツは別腹とか言って何件もハシゴさせられたし』
『ご機嫌ななめでも、可愛い動物の画像見せただけで機嫌直るくらい単純で』
『あーあ、俺はもう死んじまってるからなぁー、ミオは次の恋とかするよな』
『すぐに男作ったらちょっと嫌だけど、正直めっちゃ嫌だけど!俺より良い男じゃなきゃ許さねぇからな』
『ミオと付き合える男は幸せ者だな』
『靴下脱ぎっぱなしって怒られて。喧嘩したときのお弁当が日の丸になってて。仲直りにケーキ買って』
『一緒に感動映画で大泣きして。一緒にご飯作って。爺ちゃん婆ちゃんになったらあちこち旅行に行って』
『それで、そんで』
「──『ちゃんと幸せになれよ』と」
言葉を聞いている間、彼女は口を挟まずにずっと俯いて顔を隠していた。
思い出話をするものだから、そのときの記憶が蘇ってしまった。彼がいない未来の話をするものだから、彼ではない誰かとのこれからの人生を思い浮かべてしまった。
一方的に語られた言葉は遺言のようで、もう彼に会えない現実を突き付けられた。寝て起きたらおはようと声をかけてくれることも、もうないのだという残酷な現実に。
だから、自分を置いていった彼へ言い返す。
「ケーキなんかで許してやるわけないじゃん。ばーか」
「心配されなくたって、いつかまた彼氏作るだろうし。結婚だってするかもしれない。孫ができるかもね」
「お婆ちゃんになったら日本一周の旅にでも行こうかな。そのころにはきっと、カナトのことは乗り越えてるでしょ」
「それでも、私が誰と人生を共にしても、一生カナトを忘れない。忘れてなんかやらない」
「あんたとの思い出も、ずっと大事にして生きてあげる」
気丈に振る舞おうと懸命な姿を見せられ、男の涙腺も使い物にならなくなっていた。ふたりの泣く声が部屋に響く。
「あーぁ。俺が幸せにしたかったなぁ」
顔を涙でぐしょぐしょにして、泣き続ける彼女の背を摩ろうとした手は、すり抜けてしまった。死んでしまった自分には、彼女に触れることすらままならない。慰めたくても、自分には何もできないと痛感した。だから、猫宮を頼る。
「今だけ許すんで、胸貸してやってください」
悔しいさと悲しさが入り混じった、下手な笑顔で猫宮に頼む。
「貸すだけだからな!!」
腕を広げた猫宮を彼女は不思議そうに見る。彼氏からの許可は得たと伝えれば、何それとはにかんで笑い、猫宮の胸を借りた。
「「愛してる」」
直接聞こえてはいなくとも、ふたりは通じ合っていた。




