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王と僕。  作者: モミジ
9/11

09 白砂の古城(6)

 魚の焼ける匂いがする。覚醒しきらない頭で最初に気づいたのは、それだった。

 意識の端を暖かな明かりが撫でて、その柔らかな感触に幸臣は重い瞼を持ち上げた。


「起きたか」


 焚火の明かりが横向きに見える。地面に寝かせられているんだ。

 ぼんやりとしたまま、瞬きをゆっくり二、三度して、幸臣は目の焦点を合わせようとした。

 なんだか、あたたかい。火の暖かさと……それに、人のぬくもりのような。


「ここは……」


「オアシスだ。おぬしが気を失っておる間に戻ってきたのさ」


 上の方から声がして、そちらを見ると柔らかな笑みが返された。頭を少し上に向けただけなのに、くらくらと眩暈がする。

 頭を大きな掌がぽんぽんと優しく叩いた。


「辛ければもう少し寝ていなさい。起きるというならそれでも良いが、まあ、無理はせんことだ」


「……はい」


 お言葉に甘えて、もう少しだけ寝よう。日向の香りと温もりを感じながら、幸臣はまた瞼を閉じた。

 意識が水に沈み込むような感覚、周囲の音も香りも光も、徐々に遠ざかるようなそんな感じ。微睡の内側へと意識を手放す間際に、ふと思った。


(……不思議だ)


 夢を見てるのに、その夢の中でもまた眠りにつこうとしているだなんて。

 

(夢……)


 それに、あの魚の焼ける匂い。まるで現実のようだ。


(夢、なのかな)


 寝る前、何があったんだっけ。


「……クラウス?」


「何だね?」


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 膨らみかけの違和感とわずかな戸惑いを覚えながら、幸臣は続けて問いかけた。


「あの……これって、夢ですよね?」


 問いかけた瞬間、クラウスが口をつぐんだ。思いがけないことを聞かれたような、夢のなかの虚像にしては、あまりにも血の通った反応だ。


「クラウス……?」


「もしもこれが夢でなかったら、おぬしは何を思う?」


「え?」


 何って、なんだろう。


「率直な気持ちでいい。どうか、教えてくれんか」


 これが夢じゃなかったら?


「夢じゃなかったら……」


 これが夢だと思ったのはそもそも何故か。それは、目覚めてすぐ脈絡もなく、クラウスが普通に話しかけてきたからだ。

 だからもし、今の状況が現実なら、それはもう妙な気分としか言いようがない。


「でも」


 それだけでは決してない。幸臣は、ひとつ付け加えて言った。


「それ以上に嬉しいかなあって、純粋にそう思います」


「ん?」


 だって、


「奇跡としか思えませんから」


 ずっと願っていたことだ。


「……そうか、奇跡か」


 不思議と喜びの滲んだ声色に幸臣は顔をあげた。下からでは表情は見えないけど、なんとなく雰囲気が軽くなったような感じがする。


「それで、その、どうなんでしょう?」

 

 夢か現実か、答えはまだ聞けていない。

 幸臣が問いかけると、クラウスが目を細めて見下ろしてきた。


「答え合わせなどなくとも、もうわかっておるのではないかな?」


 笑みを含んだ声。実のところ、それは正鵠を射ていて、


「……現実?」


 幸臣が小さく呟くと、クラウスは鷹揚に頷いた。


「ホントに?」


「ハハ、喜ばしいことにな」


 少しずつはっきりとしてきた頭を振って、幸臣は急いでウィンドウを呼び出した。



−−個別通知−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


>>熟練度が規定値を超えました。【スキル:交感】の一部機能を開放します。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



「一部機能……これかあ」


「うーむ、おそらくは。しかし、〈交感〉とは異なスキルを持つものだ」


「まあ、自分でもいまだに、これがどういうスキルか分かってないんだけど」


 ……あれ?


「というか、見えてます? これ」


「見えておるよ」


 ウィンドウをクラウスの方へ向けると、確かにその上の文字をなぞるように視線が動いた。


「文字も?」


「知らぬはずの文字ではあるがの。いやはや、ほんにスキルとは凄まじいな」


 少し頭を上げただけでぶつかるくらいクラウスの顔が近くにある。少しの間見つめていると視線に気づいてクラウスが見つめ返してきた。


「どうしたのかね?」


「そういえば、近いなぁって」


「ん?」


「膝枕されてるなって思って」


「?」


 しばらく互いの顔を見つめた後、ふたり同時にまばたきをした。

 

(まあ、今更か)


 幸臣の方から目を逸らすと、クラウスも焚き火に視線を向けた。この程度のボディタッチなら、別に珍しくもないし、ありふれたものだ。

 けど、どうして、こんな状況になってるのかがわからない。

 寝る前どんなことがあったっけ?


「焼けてきたな」


 魚の脂がパチパチとはねる音が聞こえて、一際香ばしい匂いが漂ってきた。

 お腹すいたな。


「あっ」


 匂いに刺激されて、不意にお腹がクゥと鳴った。締め付けられるような感覚に胃のあたりを抑えると、上から含み笑う声が降ってきた。


「おやおや、どこかで腹ペコ虫が鳴いておるようだ」


 くつくつと笑いながら、クラウスが串を回す。魚の皮が少し焦げて、そこから白い身が覗いている。

 ああ、美味しそうだ。

 引かれるように起き上がり、少し眩暈のする頭を押さえながら、幸臣はゆっくりと瞬きを繰り返した。


「大丈夫か?」


「多少、気持ち悪さはありますけど……お腹空きすぎちゃってて」

 

「それなら手早く仕上げんとな」


 串をまとめて砂から抜き、焼き加減を確かめると、クラウスは仕上げに赤い実を絞って振りかけた。


「ほら、お食べ」


 脂の燻煙が絡んでいい焼き色だ。

 ためらいながらも一口かじると、ふわりと口の中に旨みが広がった。意外とすんなり飲み込めたことに驚きつつ、思わずもう一口、そしてもう一口と食べ進めた。

 心配していた吐き気はない。むしろ、じんわりと体に力が戻っていく気がした。


「……おいしい」


 ぽつりと呟くと、クラウスは満足げにうなずいた。


「急に倒れて心配しておったが、しかし、あれはなんとも肝が冷えた」


「倒れたって……ああ、そうか」


 そうか、そうだった、シャチと戦闘してテイムに成功して。


「あれも夢じゃなかったんだ」


 じゃあ、シャチはどこに?

 キョロキョロと周囲に視線を向ける幸臣に、クラウスが苦笑して後ろを指差した。


「……?」


 肩をすくめる彼の様子を不思議に思いつつ振り返れば、何やら丸々とした白黒の生き物が横になっていた。

 大きさは柴犬ほどで、呼吸のたびに膨らんだ腹が上下している。大量の魚の骨が身体の周りに散らばっているのを見ると、あれを全部食べたのだろう。脅威の食欲だ。


 というか、まさか、


「……アレが?」


 焚火がぱちりとはぜた。首を傾げたクラウスの顔が次第に笑み崩れていく。


「アレがあのシャチだって?」


「ああ、まさしく」


「あんな……抱き枕みたいな……」


「まったくなぁ。おぬしをここまで運んだ後、魚を焼くうちに縮んでおったんだ」


 眠っているらしく、ぷぅぷぅといびきが聞こえてくる。無防備な顔を見て試しに指を鼻先に近づけようか迷ったけど、やめておくことにした。

 万が一にも起きてたら噛みちぎられるかもしれない、そんな考えが一瞬頭をよぎった。


「アレももう我らの朋友(ほうゆう)だ。恐れる必要はなかろうに」


「そうかなあ……?」


「そうだとも」


 微笑みに後押しされて半信半疑もう一度手を伸ばしてみると、指が鼻先に触れた瞬間、シャチの目がパチリと開いた。


「あ」


 うとうととした丸い目が眼前の指を捉えた瞬間、次第に細く険しくなっていく。眠りを邪魔された腹立たしさと、馴れ合いを嫌う気質的なものと。

 牙を向いて唸るのをみて思わず指を引っ込めると、シャチはひとつ息を吐いて幸臣の持つ串に視線を向けた。


「あ、これ……?」


 恐る恐る串を差し出す。すると、シャチは一瞬、顔を背けたものの素早くそれを飲み込むと、体勢を変えて再び寝入った。

 これで恐れる必要はないって? 本当に?

 クラウスに一瞥を投げると、気まずげに髭を撫でて、


「すまん」


 と、新しい串焼きを差し出してきた。


「だが、人と人との在り方も永遠ではない。やがて自ずと──」


 クラウスの言葉をかき消すように、背後から砂が吹きつけた。

 頭からサラサラと落ちる砂を振り払い、クラウスが後ろを振り返ると、ざっと音を立ててシャチが寝返りを打った。

 上に向けられた背中の孔から少量の砂が溢れている。文句ありげな雰囲気がありありと滲み出ていて、不貞寝だと一目でわかる。


 どう声をかけたものか迷う幸臣だったが、クラウスは大して気にした様子もなくゆっくりと体勢を戻した。

 焚き火を眺めつつ、焼き途中の魚を一つひとつひっくり返す。時折油が垂れてくるのか、アチチと言って顔を顰めている。

 なんであんなにも落ち着き払っているんだろう。


「砂がかかってしまったか……これは食べられそうにないな」


 いくつか引き抜いて呟く。それだけが唯一残念そうだ。


「あの」


 幸臣は遠慮がちに尋ねた。


「本当に気にしてないんですか?」


 あんなことされて──。


 クラウスは後ろにいるシャチを一瞥し、顎に手を当てると、


「察してやらんとな」


 短くそれだけ言って、焼き上がった魚にかぶりついた。


「ほら、照れておるんだ。そんな自分に戸惑って、砂をかけてきたのも照れ隠しのような──ぬおっ!?」


「うわっ!!」


 他意もなく朗らかに笑うクラウスに、今度はさっきの数倍の砂が吹きかけられた。ついでに、その何割かは幸臣にもかかった。

 不貞寝をやめて、起き上がったシャチがこちらを睨んでいる。


「そんなに怒らんでも良かろうに」


「──!」


「も、もうやめときましょう」


 背中の穴をこちらに向けるシャチ。それを押し留めようと伸ばした手に、シャチが噛み付こうとする。

 

「ちょっと!?」


 甘噛みの範疇を超えて、噛み合わせた牙がガチンと音を鳴らした。

 あ、危なかった。


「な……なんて凶暴なシャチだ」

 

 というか、よくもまあ、こんなやつが仲間になってくれたものだと思う。


「そういえば、タカオミ。せっかくだ、ネラと呼んでやりなさい」


「え?」


「ほれ、そやつのことだ」


 倒れる前のことを覚えていないのかと問われて、よくよく思い返してみると、名付けをしたような気がする。


「ネラ……」


 なんだか女の子っぽい名前の響きだ。

 考えていたことが伝わったのだろうか、シャチ──ネラが鋭い鳴き声をあげた。


「ごめんって」


 しばらく機嫌悪そうにしているネラを宥めつつ、魚を食べながらクラウスと情報を共有し合あった。

 はじめて会ったときのこと、これまで助けてもらったことへの感謝。そして、今の自分たちを取り巻く状況や、解決しなければならない問題について。

 

「《白砂の古城》、クエストとな? ふむ……厄介なことこの上ないな」


 現状を共有しおえると、クラウスは唸るように言った。


「これを達成せねば、ここから外へは出られんと」


「でも、手がかりもほとんどなくて」


 唯一、これが手がかりかもしれないと思ったのは岩場で見つけた建造物だ。あれだけ明らかに人工物だった。

 何かあるかもしれない、そう幸臣が話すとクラウスも頷き返した。


「むしろ、これで何もなかったら今度こそお手上げです」


 手をついて息を吐く。空を見ると、どんよりとした自分の気持ちと対照的に底抜けに青い空が広がっていた。

 数日経っても見慣れない色だ。ここの空は高すぎるように思う。


「外のことが心配かね?」


 クラウスが同じように見上げて言った。


「わけのわからぬまま、こんなところへ放り込まれて。そして、途方もない難行を強いられて出るに出られないでいる。おまけに、言葉の話せん老人と一緒ときた」


「そんなことないです。むしろ、僕のおもりの方が大変だったでしょ?」


 顔を見合わせて笑う。ひとしきり笑い合った後、幸臣はぼんやりと焚き火を見つめた。


「心配というより、なんとなく不安なんです。ひとりじゃないのに独りっきりな感じがして、少しずつ砂に埋もれていくような」


 毎夜夢に見る。自分が関与できないところで自分の知る人も場所も砂塵のうちに消えてゆく。彼らが消えた後の砂漠で、独り白く煙った世界に沈みつつある自分の姿を。

 心の弱さが見せる幻想だとわかってはいても、不安は心に爪を食い込ませて離れていってくれない。

 常にわずかな焦りを生んで、それが消えるのは、より強い緊張や恐怖に晒されるときだけだ。

 

 別にナイーブになっていたわけじゃない。

 真面目に取り合って欲しいわけでもなくて、むしろ、バカバカしいとでも言って笑い飛ばしてくれたら良かった。

 けれど、横目で見たクラウスはぼんやりと虚空に視線を彷徨わせて、何かを思い出すように、伏せられたまつ毛が揺れている。

 やがて、言った。

 

「拒み続けるよりほかはない。それが、現実とならぬように」


 その言葉が自分に向けられたものかどうかは、幸臣には判別がつかなかった。

 囁きに近く、自分自身に言い聞かせるような、そういう調子の声だったからだ。


「不安を感じる己の弱さをこそ、受け入れねば」


 風に吹き流される砂の行方を追って視線を前方へと滑らせながら、けれど、その瞳は何も映していないかのように思えた。

 どうしたのだろう? 何か、まずいことを言ってしまっただろうか?

 声をかけようか迷ったものの、それができる雰囲気でもなくて、幸臣は様子見に徹した。


 しかし、それもほんの数秒のことで、


「すまん、答えになっておらんな」


「……いえ」


 こちらへ向けられたクラウスの顔が、いつもの調子で微笑む。

 でも、どこか違和感はあった。喉の奥がほんのわずかにつっかえるような、見過ごそうと思えばできるくらいの些細な違和感が。

 その微妙な気持ちの揺れを悟られたのか。


「タカオミ」


 それとも、同じような揺れがクラウスの胸中にもあったのか。


「手がどうにも冷たくてな……もしよければ、握ってくれんか」


 申し訳なさそうに言うクラウスに戸惑いながらも差し出された手を握りしめると、確かに冷たい。震えか何かを抑えこむように酷く強張っている。

 幸臣はその手をさらに強く両手で覆った。


(一体、何を思えばここまで強く……)


 心配になってクラウスの顔を覗き込む。と、彼は静かに目を細めた。

 微笑みとは違って、でも、どこか安堵したような表情。ただ純粋に、自分を気にかけてくれることを喜ばしく思っているような。


「どれほど些細なことであっても、おなしの隣におるだけで儂は荷の重さを忘れられる」

 

 クラウスがそっと、タカオミの手を握り返した。


「たまには弱みを見せねば。あまり抱え込みすぎては、そのうち立ち上がるのも億劫になってしまう。そうやってゴロゴロ寝っ転がってばかりいては……ほれ、儂のように」


 空いた手で自分の腹をさすって、クラウスは冗談めかして笑った。


「ひとまず、あの建物に何か痕跡があることを願うとしよう。今、むやみに頭を悩ませたところで意味があるとは到底思えんからな」


「……わかりました」


「出発は明朝だ。今宵はゆっくりと休まねばな」

 




 砂漠の東、波打つ赤い岩場は日の出を照り返して赤熱するように輝いている。そして、巌の内に半身を埋もれさせたまま、その建物は沈黙していた。


「思いのほか、楽に着いたな」


 クラウスの言葉に、幸臣は頷き返した。

 時折カニが歩いている以外にはモンスターも見かけず、岩陰に隠れてやり過ごすのも容易だった。

 おかげで戦闘と言える戦闘もなく、疲労もほとんどないまま辿り着けたのは幸いだった。


「何かあればいいんですが」


「きっとあるさ。早速入ってみるとしようか」


 ふたり──ネラは今や拳大にまで縮んで、幸臣の頭の上で眠っている──は外壁をよじ登り、横合いの窓から内側へ入り込んだ。

 以前と同じ、傾いた部屋がふたりを出迎えた。埃っぽい空気。床の上にはちょうど前来たときの靴跡が残っていて、とりあえずはモンスターが入り込んだような痕跡はなさそうだった。


 窓から離れるほど部屋は薄暗くなっていく。クラウスが作り出した光球を頼りに、次の部屋へ進み、そして、部屋を横切って奥の出入り口へ向かった。


「おぬしが言っておったのは、この階段だな? どれ、何もいなければ良いが」

 

 クラウスが光球を二、三作り出し、それぞれを階段の上下へ向かわせた。滞留した空気にわずかな流れが生じて、床に堆積した埃がふわりと舞った。

 あまり長居したくない場所だ。雰囲気的にも衛生的にも。


「大丈夫……みたい?」


 しばらくそのまま待っていたものの、光に反応して何かが出てきたり、あるいは、声や物音が聞こえるといったこともない。

 やはり足跡もないことから、とりあえず、モンスターはいないものと仮定していいだろうか。

 幸臣が問いかけるとクラウスも頷いて、ふたりはまず階段を上へ向かうことにした。


 厚く積もった埃のおかげで足音は抑えられている。

 空中に舞う埃を吸わないよう手で口を覆い、慎重に床を踏みしめて進んでいると、先を行くクラウスが言った。


「しかし、傾いた階段というのは、どうにも上りづらくて敵わんなあ」


 確かに、平衡が取りにくい。見えている景色と実際とにずれが生じて、徐々に感覚が麻痺してくる。


「けど、どうしてこんなところに建物があるんでしょう? 斜めになっているだけならまだしも、岩に埋もれてるなんて」


「さてなあ? 何らかの魔術の痕跡か、あるいは、酔狂で風変わりな建築家でもおるのか」


「魔術……」


「とはいえ、岩場の中でこれだけが取り残されておるというのも意味深長だ。何者かの意図があるように思えてならんよ」


 クラウスは煩わしそうに、顔にまとわりつく埃を振り払った。頭の上のネラが時折くしゃみをし、早くここから出ろと幸臣の頭をペシペシと叩くのを宥めながら歩を進める。

 ひとつ上の階も普通の民家のようだ。部屋に立ち入り、あたりを見回す。

 大小いろいろな食器や調理器具、そして、絵か何かを飾った額縁、目につくのはこれくらいで、一見してどれもクエストの手がかりにはならないものばかりだ。

 でも、


「ここにも……誰か住んでたんですね」


 生活の跡がある。誰かの遺品のような、触れがたい雰囲気も一緒に感じられる。

 クラウスに促され次の階へ向かおうとするとき、去り際に幸臣はそっと手を合わせた。


 それは次も、その次の階でも同じだった。


 何も見つからない。見つかるのはこの場所で暮らしていた人々の痕跡だけ。

 階を上がるごとに、喉元をじわじわと締め上げられるような苦しさが増していくような気がする。


(焦ってるのか)


 背中を伝う汗の冷たさに思わず身震いした。


 ゆっくりと上へ上へと進み、各階をくまなく探索する。やがて一番上の階を探し終えたころには全身が汗で湿っていた。

 マラソンを走り終えたときのように心臓が激しく鳴っている。

 濡れた肌に空中の埃がまとわりついて、払っても払っても取りきれず、そんなどうでもいいはずのことに幸臣は酷く気落ちした。


「タカオミ、大丈夫か?」


 クラウスの声に顔を上げると、彼は心配そうにこちらを見つめていた。

 幸臣は浅く息を吐き、額に張り付いた前髪をかき上げる。


「……大丈夫です」


 そう答えながらも、指先に残る汗の感触が、じっとりと不快だった。


 あとは地下室だけ……。


「いや、まだ地下室が残ってるって思わなきゃ」


 落胆している暇なんかない。頬を叩いて喝を入れる。

 時間的にも体力的にもまだまだ余裕はある。でも、無駄にくよくよしていちゃ、余裕なんかどれだけあっても無いのと同じだ。


「のう、タカオミ。少し休憩を取らんか?」


「でも、まだ全部見終わってません。せめてこの建物の中を探し終えてからでも」


 クラウスが首を振った。


「手がかりが何であれ、それに脚が生えて逃げ出すようなこともあるまい。根を詰めすぎて、もしも見逃すようなことがあっては、それこそ元も子もないとは思わんか」


「……けど」


 気が急いているのはわかってる。それでも、今はただ立ち止まっているだけの時間に耐えられそうにない。

 素直に心のうちを話すと、クラウスはしばし沈黙した後、静かに頷いて言った。


「わかった。休憩は地下室を見終わってからにしよう」


 だが、と指を立てる。


「転ばぬよう慎重に。怪我をせんようにな」


「はい、わかりました」


 “地下室”、と便宜上そう呼んでいただけで、そこがもともと地下に位置していたのか、それとも建物が傾いたせいで地下に埋もれていただけなのかは定かでない。

 けれど、足を踏み入れた先は、そのどちらとも言いがたい場所だった。


 階段を降りたすぐ先には、古く大きな扉があった。

 別にそれだけなら不思議なことはない。この建物のエントランスが見当たらないことと、壁から何から傾いたこの建物の中で、その扉だけ明らかに鉛直に立っているという点を無視すれば。

 

「……これは、ひょっとするやもしれんな」


 両開きの古風な扉は全体に曲線を描いている。随所を花を模った意匠が彩り、その重厚な佇まいは、この場所にはひどく不釣り合いなものとして映った。


「あれ……」


 幸臣が扉に手をかけようとしたその時、力もかけていないのに、扉の合わせ目にわずかな隙間が開いた。

 気のせいだろうか?

 中から何かが飛び出てくる様子はない。声や音も聞こえないし、風も吹いていない。気づかないうちに、指先が当たったとか?

 

「タカオミ?」


「ああ、いや、何でもありません」


 きっと、建て付けが悪いとかそんなだろう。脳裏に浮かんだ“誘われている”だなんて不吉な考えを頭の隅へ追いやりつつ、幸臣は扉を押し開けた。

 

(真っ暗)


 わかるのは、この部屋がかなり広いということと、壁全体に書架が設置されていること。円状の部屋はクラウスが浮かべた光球でも一部を照らすのがせいぜいだった。

 

 書架の一つひとつに、大量の本が並べられている。

 壁際へ近づいて、そのうちの一冊を手に取ると、それはどうやら何かの哲学書のようだった。

 内容といえば高尚かつ難解だ。自我の規定、ヒトの本質、そういった概念が宗教観と複雑に絡まっていて、一読しただけではまるで意味がわからない。

 本は棚ごとに大別されて、幸臣が本を抜いた棚は哲学、隣の棚は歴史や文化史、そして、その隣は医学、薬学と様々なジャンルの本が揃えられているようだ。中には魔術や占星術に関連する書物もあった。

 驚くべきことに、それらすべてが手書きの写本だ。そして、書かれた文字は見覚えのないもののはずなのに、こうして読めているということもまた、


(そういえばウィンドウを見せた時、クラウスも……)


 知らない文字のはずなのに読めて不思議だと言っていた。

 とすると、今、自分に起きていることも〈交感〉の影響と考えていいはずだけど。


「あの、クラウス、ちょっと──」


 クラウスは本を片手に、集中するように眉間に皺を寄せている。呼びかけても反応はない。


「クラウス?」


 視線は頁の一点に注がれている。読むことに集中しているというよりは、もっと別の難題に行き当たったような、そんな雰囲気だった。


「まさかとは思っておったが……やはりか」


 だとすれば、クラウスは小さく言って本を棚に戻すと部屋の中央へ歩いてゆく。


「タカオミ、こちらへ」


 手招くクラウスの隣へ幸臣も近づくと、彼は虚空に手をかざし、《王典》を取り出した。


(何を……?)


 と、尋ねる暇はなかった。


「選定の証はここに。我は王の末裔、大樹の守人。真実をこれへ、無知なる我に智慧の光明を」


 《王典》の光に釣られるように、床から光の粒子がゆっくりと立ち昇り始める。水面に浮き上がる気泡のように。


「……!」


 粒子が書架の本に触れると、中から光輝く頁が抜け出てひらりと舞い、数十にも及ぶ頁がひとつ所に集まると一冊の本を作り出す。



−−個別通知−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


>>特定アイテムの顕現、取得を確認。

>>クエスト《白砂の古城》が次の段階へ進行します。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



「え」


 ウィンドウが表示される。


(クエストが、進行……? こんなに簡単に?)


 “特定アイテム”、状況に照らし合わせるなら、それはあの本に他ならない。

 手に取るよう促すクラウスに従って、幸臣は、状況の唐突さと、あまりの呆気なさに呆然と本を掴んだ。

 革の装丁で装飾はない。大袈裟な登場に反して、見かけはただの古ぼけた本という印象だ。

 それに、その内容も。


「これ、神話かな」


 様々な英雄、怪物の闘いに関する話が(つづ)られているけど、主題は創世に関する神話のようだ。

 

「ああ……しかし、この国にとっては最も価値あるもののひとつだった」


 クラウスが本の表紙を撫で、ゆっくりと開く。

 そして、静かに読み上げる。


「大地は始め、悠久の星海に漂う小石のようなものだった──」


 それは神話の始まり、創世の一幕。人と世界、あるいは龍と大樹の物語。

 何度も聞かされた寝物語を今度は自分が聞かせるような、澱みない口調でクラウスが語る。

 

(どうして……)


 ふと思い浮かんだことがあって、幸臣はクラウスの袖を引こうとした。


 けれど、その寸前に事態は動いた。



−−個別通知−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


>>クエスト進行に伴い、《白砂の古城》が姿を現します。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



「……タカオミ、見てみろ」


 クラウスの呼び声。息を顰めるように囁くクラウスに釣られて、前方に視線を向けた幸臣はそのとき初めて気がついた。

 幸臣たちの前方に光の渦ができている。虚空に浮かぶ光の粒子が次々吸い寄せられるように飛び込んで、くるくると舞っている。

 さざなみに打たれるような感覚だ。


 根拠もないのに、幸臣には確信があった。これは道だ。ひとつのステージをクリアして、次へ進むための道。


「……ここで、よかったんだ」


 安堵で息が漏れ出た。やっとだ。やっと次へ進める。


「行こう」


 背を押されて一歩踏み出す。渦の外縁につま先がかかる。あともう一歩踏み出せばいいだけ。

 唾を呑んで渦を見つめていると、頭の上でネラが尾を揺らし、さらにつむじに打ち付けた。

 焦ったいなと言いたいらしい。クラウスが苦笑した。


(確かにそうだ)


 でも、どうしても緊張する。何が待っているのだろうと思うと、手に馴染んでいたあの木の棒が無性に恋しく思えてくる。

 だからといって、ここで二の足を踏んでいても何も始まらない。

  

「わかった。行くよ」


 幸臣が踏み出すと同時、渦はその輝きを変えた。さらに白く、さらに眩く。

 唐突に足元の床が消えた。身体が下へ落ちてゆく。


 意外だった。もっと瞬時に移動するものかと思っていた。

 抵抗の暇もなく身体が下へ引かれるなか、幸臣は自由の効かない身体を必死で捻って、クラウスの腕を掴もうと手を伸ばした。

 けれど、


「クラウス!」


 引き離される、押し流される。


 下へ、下へ、下へ────光の奔流はある時点を境に唐突に掻き消えた。





大地は始め、悠久の星海に漂う小石のようなものだった。冷たく、暗く、風もなく、命の影もなかった。けれども、やがて大地は目覚め、そこに人々が生まれた。彼らは互いに寄り添い、声を交わしながら闇の世界を歩みはじめた。


ある時、天より龍が降り立つ。その体躯は空を覆い、その輝きは闇を払い、大地に光をもたらした。龍のまとう炎は太陽のごとく、そして、昼が誕生した。


人々は歓喜し、初めて世界の色を見た。青き海、緑の草原、黄金に波打つ大地。しかし、やがて彼らは気づく。


──光が眩しすぎる。眠ることも、影に隠れることも叶わぬ。


そこで、大地は応えた。一筋の芽を生み、大空に向かって伸ばした。その芽は幹となり、枝を広げ、やがては龍の光を遮るほどの大樹へと育った。大樹は人々に影を与え、彼らを安らぎの中へと導いたのだ。


しかし、龍は怒った。


己が光を拒む大樹を憎み、その葉を焼き尽くそうとした。炎の舌が枝を舐め、幹を焦がし、地を灼こうとした。けれども、大樹は揺るがなかった。根を深く張り、人々に大地の声を伝え、龍に立ち向かった。そして、大樹の導きを受けた人々は龍に戦いを挑んだ。


長き戦いの果て、龍は討たれた。その身は天へと昇り、星々の間に溶けていった。龍が去った空には、静寂が戻った。そして、大樹はさらに枝葉を広げ、世界の半分を覆った。光はその葉の影に沈み、そこに初めて夜が訪れた。


こうして、昼と夜が生まれた。人々は大樹を讃え、その影に眠り、再び陽が昇るのを待つようになったのだった。


         ──【創世記】より抜粋──

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