11 星見の礼拝堂(1)
穴を抜け、根が広がる床を踏む。根の凹凸が一定でないために安定した姿勢がとりにくく、クラウスは壁に手をついた。
光球で照らされた空間の中、中央には大きなロングテーブルが置かれ、そのまわりに椅子が並べられている。大広間だ。しかし、食事の乗った皿も、それを囲んで談笑する人々も今はいない。
かつて贅を尽くした食事が並べられていたはずのテーブルも、椅子も、シャンデリアや壁のタペストリーも、それらが持つ絢爛な姿など失われて、根に埋もれたまま在りし日の形だけを保ち続けている。朽ちて侵される城の、言いようのない悲哀を滲ませるように。
クラウスはふと気づいて、周囲に向けていた視線をテーブルの上座へと注いだ。
何者かが座っている。黙して動くこともなく、けれど、クラウスが見やると、それに応じて、その者もまたこちらに視線を投げかけてきた。
「そなたは……」
誰だと言いかけて、その言葉をクラウスは飲み込んだ。それの口元が薄く笑みを浮かべて弧を描いている。
嘲笑されている。
そうはっきりと感じて、クラウスは「何故」と問いを投げた。自分でも驚くほど、低く枯れたような声だった。
返答はない。笑みを浮かべたまま、何の動きも見せない。見つめあったまま数秒が過ぎ、ようやく動いたかと思えば、その手が左方を指差した。
何を、と疑問には感じたものの、しかし、指差された先に視線を向けることなく、クラウスはじっとその者を注視し続けた。重苦しく陰鬱なこの場所で、場違いにも絶えず笑みを浮かべるその顔を。
注視していたはずだ。
「……」
──消えた。
気がついたときには、その者は完全に視界から消え失せていた。瞬きをした覚えはない。だというのに、まるで周囲を満たす暗闇に溶け込んでしまったかのようにいなくなってしまった。
深く息を吐いてから、クラウスは部屋の中ほどまで歩を進めた。
テーブルの上座へと、ゆっくり向かう。
気配は完全に消えている。もうこの場所には誰もいないと断言できる。にも関わらず、進む足が酷く遅々としているのは何故だろう。
(あれは……)
歩きながら考えていた。あの者をどこかで見た覚えがある。しかし、一体どこで……?
答えは出ない。それどころか、妙なことに考えようとすればするほど思考に霞がかかってゆくような……。
「なんだ、これは」
指を眉間に押し当てる。意識して記憶を繋ぎ止めようとするものの、うまくいかない。
何故だ。顔を、座る姿を──そして、あの笑みを。すでに忘れかけているそれらを意識しようとして、しかし、
「……」
最上座、王の坐す場所。根に覆われた台面をそっと撫で、クラウスはふと引かれるようにして横合いに視線を向けた。
根に埋もれてタペストリーがある。離れた場所からでは模様までは見えず、クラウスは壁際へ近づいた。
絵が描かれている。眺めているうちに気がついた。ここに描かれた内容は伝承や神話の類ではない。
暗闇を背景に太陽が浮かんでいる。その周りを星が漂い中心へ向かうように、ゆらゆらと光の尾が揺れて白い軌跡が描き出されている。
背景は黒一色に見えて、その実、多様な色の濃淡がある。幾本もの線として見えるそれらすべてが、ひとつところへ続いている。中心に浮かぶ太陽へと。
直感した。似ている、今の状況に。ならばこれは……黒い線を避けるように揺れるこれらの星は、
(儂ら、か)
根拠などまったくない。しかし、その考えを疑いなく肯定できるほどに、この絵は強烈な印象を放っている。一見、何のことはない絵の細部に、どうしようもないほどの悪辣な意図を滲ませている。
酷く不吉に思え、無自覚なままクラウスは絵の星に手を伸ばした。それが幻影ではないのかと疑う意識は抜け落ちていた。
白い星に指を当てる。そうしてはじめて、本当にその星が動いているのだと気づいた。タペストリーの上を中心へ向かっている。星が湛える光もまた、紛れもなく本物だ。
これが自分やタカオミであるのなら、中心の太陽もまた何かを表しているはずだ。城の最奥に隠された何かだとして、それが宝物の類であるなら良い。しかし、これが仮に何らかの存在を示すものであるとすれば──。
じっとそんなことを考えながら煌々と輝く太陽を見つめるうちに、ふと気がついた。星に当てた指先に黒い何かが絡みついていることに。
絵から黒い線が伸びている。織り込まれた糸とは違う、実態のない、絵に描かれた線そのものが浮かび上がっているようだ。うねうねと蠢き、クラウスの指を絡め取って、ゆっくりとタペストリーの方向へ手を引いてゆく。
それが何か、そんな疑問は浮かばなかった。呆然とそれを見ていた。
奇妙な停滞は、数秒続いた。魅入られたように動けずにいるクラウスの手首を、タペストリーを貫いて何かの手が掴むまで。
青白く冷たい手だ。肉付きは不思議と悪くない。それでも、作り物めいた違和感があるなとぼんやり考えて、そのときになってようやく、クラウスは我に返った。
緊張に駆られるまま腕を引き寄せ、なんとか手を振り払おうとする。痩せた腕のはずなのに、それに反して青白い手の掴む力は強い。引き剥がすことができずにいると、ずるりと気味の音とともにタペストリーからソレは姿を現した。
「クラ、ウス」
声を発した。名を聞き馴染みのある声で呼ばれた。黒い瞳が自分の顔を映すのをクラウスは息を呑んで見つめた。
「タカオミ……」
あどけなさの残る顔は白く、血の気を失っている。乾いた唇が、また掠れた声で囁いた。
「助け、て」
言って、ソレはもう一方の手をクラウスの首筋に添えた。身体がまた前方へ引かれ始める。タペストリーに空いた穴の外縁が蠢き、黒く湧き立つように広がるのが見えた。
抵抗せず、されるがまま引かれていると、眼前の顔がほっと安堵するように微笑んだ。作り物とわかってはいても、どうにも直視しきれず、クラウスはそっと目を逸らした。
「もうよい」
首筋の手を取り、ゆっくりと引き離す。
「〈エンチャント・ディバイン〉」
《王典》から取り出した木の葉に聖光を纏わせ、それを掲げながらクラウスは静かに祝詞をあげた。
クラウスの腕を掴む手が崩れ落ちる。光に灼かれ、眼前の顔が歪んだ。苦しげに呻きながらも、しかし、何故か凄惨に笑みを浮かべているようにも思える。
目鼻が落ち、肌が爛れ、原型のなくなった顔
が奥のタペストリーごと縦に裂けてゆく。クラウスは目を細め、じっとその様を見つめていた。
壁が左右に捲れ上がる。壁だと思っていたものが姿を変えてゆく。
(あれが、幻影を作り出していた本体か)
目も鼻もなく、口と呼んでいいのかすらわからないものだけが中央にあり、そこから、無数の根が伸びている。大きく広げられた口のなかは幾重ものヒダが並び、それぞれのヒダには腕ほどの太さの棘が牙のように並んで鈍く光っている。
根で創られたヒトデのような、まさしく怪物とでも呼ぶに相応しいその姿に、クラウスは顔を顰めた。
「悍ましいな」
嘲笑うように根がうねうねと蠢く。いや、“ように”ではないのだろう。
あの幻影は、人の心を理解しなければ創り出せるものではなかった。害意に満ち、こちらの動揺を誘い、悪辣な罠に嵌めようとしていた。
故に、油断はできない。
距離を取るクラウスに対し、無数の根が狙いを定めるように持ち上がる。
怪物の全身に走る一瞬の震え、それを視認した次の瞬間、空気を貫く勢いで根が押し寄せた。
「……」
この程度、対応するのは難しくはない。クラウスは指を軽く振った。
光刃が左右から挟み込むように根を斬り裂く。赤いオーラが炎を生み、根の断面が瞬く間に焼け焦げる。
しかし、怪物に怯んだ様子はない。焦げた根を押し除け、矢のような勢いで次々に殺到する根を斬り刻みながら、クラウスはゆっくりと後退する。部屋中の根がわずかに揺れるのを視界の端に収め、舌打ちをした。
(下手を打ったか……)
一歩下がるたびに足裏で根が微弱に動く感触がする。息を顰める獣のように思えた。
これが思い違いでないのなら、今足の下にある根も、部屋や天井、家具、部屋中を覆い尽くす根も、すべてがあの怪物の統制下にあるということになる。
下手を打った、本当に。この部屋全体が獲物を誘い込むための穴蔵だった。
根の怪物が愉悦するように口中のヒダを動した。一斉に攻撃していないのは、これが遊びに過ぎないからだと言わんばかりだった。
末端の根の数本程度、失ったところでものの数ではないと言いたいのだろう。
根が来る、先ほどまでとは比べ物にならない速度で。
対処できるか試すような気配を感じ、クラウスは光刃を素早く操作した。焼け焦げ細切れになる根、そして、それをはるかに凌駕する量の根が波のように迫る。
このまま防ぐだけでは、いけない。いずれ捌き切れなくなる。
流れを断つには、攻勢に転じるよりほかにない。
「〈ホーリーシールド〉、〈エンチャント・フレイム〉!」
光刃をさらにひとつ生成する。
横溢せんばかりのマナに空気が火花を散らし、打ち出した刃は空気を貫いて根の怪物に迫る。
「──!」
それに対し、怪物の取った行動は至極、単純なものだった。
数百と柱状に根を束ね、天井と床とを結んだ柱を光刃の進路状に展開した。柱と光刃がぶつかった瞬間、鈍い音がし、光刃はいくらか威力を落としつつも十分な速度を保ったまま柱を突き抜けた。
けれど、それを目前にしても怪物に焦る様子はなく、むしろ余裕を見せている。
何故、とは思わない。あの程度の攻撃なら簡単に対処されて然るべきだ。少なくとも本気ではなかったはずだ。威力を図るために、敢えて防御を軽くしたのだろう。
地の利も地力も相手が上、それを正しく認識してクラウスは二の矢を継いだ。
挨拶程度の攻撃では届きようがない。なら、どうせ口火を切らなければならないのであれば、
(痛烈な一撃を!)
怪物と直進する光刃とを常に注視しながら、マナを練りあげてゆく。
──来る。
部屋中の根がざわりと揺れた。予感した瞬間、怪物と光刃との間に無数の柱が突き立つように現れた。
壁や天井、床、部屋の隅、あらゆる場所からあらゆる角度で展開された柱。根で構成されたそれらは一本一本が先ほどの柱と同等の太さを誇り、そして、空間における、それらすべての交点が光刃の進路状に位置している。
光刃が突き立つ。そしてそのまま進んでゆく。衝撃に根が潰れ、空いた穴の淵から柱の上下へ炎が迸る。
しかし、光刃は数本の柱を貫いてみせたものの、結果としてそこまでだった。本体に到達する前に失速し、根に絡め取られたまま完全に動きを封じられている。
付与された炎の性質により光刃に触れる根は炎に包まれているものの、本体とは連絡が絶たれているのか、怪物には手傷を負った様子はない。
先ほどの防御など、まるで本気ではなかったのだろう。余裕そうな雰囲気のまま、煽るように根を持ち上げる姿をクラウスは見やった。
(流石に手強い。だが)
だからこそ、隙はある。そして、それを突く準備はちょうど終わった。
防御のために周囲を公転するように飛ばしていた二つの光刃、しかし、その軌道はすでにクラウスから大きく離れ、壁をかすめながら超速で飛んでいる。遠心力により加速する刃は進路状にある根を焼き切りながら進んでゆく。
クラウスはその最後の一押しをした。
「──、─」
先ほどと同じ攻撃に思えたのだろう。無いはずの目で左右から迫る光刃を確認し、根の怪物もまた先と同様に防御をしようとしたが、その結果は当然、大きく違った。
展開された柱をそのまま貫くことなく、根に突き刺さった瞬間、刃はその輝きと熱量とを増した。ようやく異常を悟ったらしい。が、遅すぎる。
「──ッ!!?」
迸るマナが瞬間的に長大な光の槍を形成し、怪物の口を、あやまたず穿った。
衝撃に一瞬固まった怪物の口から悲鳴が漏れ出る、その間際、
「ふっ!」
クラウスは間髪入れずに指を振った。思いもよらぬ痛手に、拘束の緩んだ正面の光刃へと。
──もう、一撃。
あっさりと拘束を逃れ、刃は滑るように柱の隙間を抜けてゆく。さしたる障害もなく怪物に肉薄した光刃は再度の深手を怪物の身体に刻みつけながら、背後の壁の中程まで刃閃を刻みつけた。
末端を斬られるのとはわけが違うだろう。
声の無い叫びが部屋中に木霊する。痛みを感じているのか、あるいは、不意を打たれたことに憤っているのか。空気が揺れるほどの振動が周囲を駆け抜け、張り巡らされた根の隅々に至るまで、さざ波が立った。
ほとんど無防備に近い形で三発もの攻撃を喰らわせた。肉体的な痛苦も精神的な負荷も相応に与えられたはずだ。身体から繋がった根を床に打ちつけ、のたうち回るように身体をくねらせる怪物に余裕はない。
少なくとも、そう見えはする。
(だが、これで彼奴は後に引けなくなった)
見下げていた相手にこれほど翻弄されて、引けるほどの思慮深さがあるのなら、最初から煽りなどするはずはない。現にのたうち回る姿には痛みから来る恐怖や危機感以上に、怒りに近いものを感じる。
今はまだ、攻撃が来る気配はない。
クラウスはその隙に、後退しながら周囲をあらためて見回した。
攻防に割いていることもあり、根の大半は怪物のいる壁際に集中し、部屋の壁を覆っていた根が一部薄くなっている。そういった箇所に素早く視線をめぐらせて、
(あそこか)
クラウスの目が探していたものを捉えた。
斜め後方の隅に小さな扉がある。それを再度確認し、クラウスは即座に手をあげた。
マナの起こりに反応し、傷ついた身体を引きずって根の怪物が身構える。動きが酷く緩慢だ。攻撃を警戒する意思に反して、身体はついていくことができていない。
あるいは、ここで決め切るべきか……そんな考えが浮かびかけて、クラウスは迷わずそれを捨てた。
だが、危機にあるからこそ、なりふり構わず全霊を尽くそうとするだろう。だからこそ、油断はできない。
「〈ホーリーシールド〉!」
光の盾を展開する。攻撃のためではない。
壁を、長大な壁を──ただ、それだけを一念に膨大なマナを注ぎ入れる。繊細な操作を必要としない分、変化は迅速かつ劇的だった。
「──ッ!!」
部屋を二分し、クラウスと怪物とを隔てる壁。
攻撃されるものと思っていたのか、あるいは狙いが外れて動揺したか、意表を突かれて、怪物が壁を激しく叩く。
強烈な威力に壁が揺れ、表面に幾重もの波紋が広がっている。圧迫された根が裂け、さらに裂けた根すらも粉砕する勢いで強打する姿に、クラウスは扉へと急ぎながら、図らずも舌を巻いた。
弱った様子から一転して、苛烈な攻撃が繰り返されている。致命傷を負った身体であれができるとは、到底思えなかったからだ。
そう思っていると、怪物の周囲が空間ごとポロポロと崩れ始めた。
傷を負ってはいる。しかし、前と比べれば違いは一目瞭然だ。
「攻撃を誘っておったのだな……!」
とすれば、相当にまずい。
足元の根が蠢き、その場に縫い止めようと飛んでくるのをクラウスは即座に斬り払った。
そのまま扉の方向へ、光刃を床に擦るようにして走らせると、火を嫌って根が退き、黒々とした海を割るようにして道ができあがった。
扉まであと少し。手が届くほどの距離にノブがある。
しかし、それでも、もう少し早く走れたならと願わずにはいられなかった。
背後から氷にヒビが入るような音がした。嫌な予感に、身体を横倒しにしながら跳ぶ。
途端、後方から伸びてきた太い根の柱が空気を無理に押し出すような音と風圧とともに、すぐ横を掠めた。
凄まじい……!
烈風に身体が流され、根の海へ押し出される間際、クラウスは光刃を飛翔させ、その側面に手をつくことで傾いだ体勢をなんとか立て直した。反転し後方を見る。
そして、即座に、その行動を悔いた。
二本目の柱が迫っている。先と同様、風を押し出しながら一直線に。その先端にはいくつもの根が捻れ合って並び、凶悪に尖っているのが見える。
しかし、それはさしたる問題ではない。威力は絶大であっても、防ぐことだけが手立てではないのだから。回避の手もある。防御も多少の無理はするだろうが、おそらく不可能ではないだろう。その一撃だけであれば、対処するのはそう難しいことではなかった。
見るべきは後方ではなかった。それ以前に、常に念頭に置くべきだったのだ。あの怪物の悪辣さから、一瞬でも意識を逸らすべきではなかった。
「──くっ!!」
側方、一本目の柱から蛇のように起き上がった根がクラウスの首に巻き付いた。すぐさま光刃で断ち切るも、伸びてくる根はその一本だけに留まらず、十や二十をゆうに超え、その数は百に届くほどだ。
距離が近い。一度に対処し切れる量など遥かに超えている。
(間に合うか……!)
小節を唱える暇はない。根が到達する寸前に間一髪で光の盾を展開し、迂回して側方から抜けようとする根に対してさらに展開した盾で防ぐ。
盾と盾とを継ぎ合わせ、身体全体を覆う正六面体を作り出す。全方位から攻め立てる根が盾を突破できず周囲を覆っていくのを見て、クラウスは詰めていた息を短く吐き出した。
(しかし、これでは……)
突発的な状況下で展開したために、かなり不安定になってしまった。細い根であれば、これで事足りるだろう。現に防ぐことはできている。
では、あの柱による一撃は……?
あれを防ぐには、少なくとももう一手必要だ。六面体の強度を高めるか、さらに堅固な盾を作り出すか。
(いずれにせよ、これ以上、考えている暇は──)
びっしりと周囲を覆われて、外の様子から注意が逸れてしまっていた。それが、いけなかった。策を講じるなど、あまりにも悠長に過ぎたのだ。
光の壁が一瞬にして破砕した──衝撃に周囲を覆っていた根が引きちぎれ、数メートル後方にあったはずの壁を突き抜け、その先の廊下に投げ出されてようやく、何が起きたかを知った。
「……っ、幸い…だったな……」
盾の角度が良かったのか、柱は僅かに斜めに逸れてくれていた。直撃していたら命はなかっただろう。
壁は大きく崩れ、粉塵の立ちこめる向こうから根が伸びてくる。酷く遅々とした動きで、おそらくはこちらの負傷の程度を察してのことだろう。
「この期に及んで、まだ儂を舐めるか……!」
〈ヒール〉で傷を癒しながらなんとか立ち上がった。根を細断し、周囲を見回すと、長い廊下が二方向に伸びているのがわかった。
大広間に沿って横へ伸びるものと、大広間から垂直に遠ざかるものとがある。前者は壁に大きく走ったひび割れの間から根が覗き、また、後者は大広間の壁を貫通した根の柱が廊下の中程に突き刺さったまま横たわっている。
どちらへ進む……?
迷いかけた頭を振って、クラウスは後者の廊下を選んだ。どのみち容易に通れないなら、大広間から少しでも遠ざかる方を選ぶべきだ。
「むぅ…ぐっ……!」
次第に治りつつあるとはいえ、十全でないのは確かだ。少し動くだけでも走る痛みに歯を噛み締め、クラウスはなんとか走り出し、殺到する根を斬り払いながら先へ進んだ。
逃すまいとして、根が執拗に追い縋ってくる。背後から聞こえた衝撃音に振り返ると、崩れかけの壁を押し除けて巨体が身を乗り出してきていた。
猛る獣のように身体を震動させ、怪物が凄まじい絶叫をあげた。
もう追いついてきたのか、そう思ったのも束の間、
「──ッ! 光刃よ!!」
何かを推測したわけでも、予感したわけでもない。ただ全身に戦慄が走った。
(ひとつでは足りん……! ふたつ、いや──)
四つ──今あるすべて。咄嗟にありったけのマナを込め、一切の加減なく光刃を打ち出す。
途中で暴発すれば、自滅すらあり得た。高密度のマナに光刃の外殻が耐えきれず、徐々にひび割れてゆく感触が経路を通じて伝わってくる。
危険と隣り合わせの選択だ。しかし、それは決して間違いではなかった。
刹那、
「白──」
熱波、轟音、震動、遅れてそれらが到達する。
暴れ狂う風に吹き飛ばされそうになるなか、頭を庇って上げた腕の隙間から、前方の様子がわずかに見える。
クラウスと怪物のおおよそ中間あたり、廊下に削り取られてできたような球状の空白が生まれている。
何が起きたのか、まるでわからない。
光刃はひとつを残して消失してしまっていた。残ったひとつすら、なんとか形を留めている程度の有様で、体内のマナもわずかに残るのみだ。
(これは、根が枯れている……?)
周囲を覆っていた根が白茶けて完全に枯れてしまっていた。攻撃の余波にやられたというより、むしろ生気を吸われたかのように。
末端の根が枯れているのとは対照的に、中枢の怪物の周囲の根は黒々としたままだった。それを見れば、流石に察した。
(……先の一撃か)
自身の生命力を費やし放つ一撃、なるほど、あれこそが切り札というわけだ。激情に呑まれ打ち放ち、けれど、それでも防がれるなどとは想像もしていなかったに違いない。
獣のような勢いはなりを顰めている。こちらの様子を注意深く伺いながら、次の手を考えるように口周りの根が揺れている様子は、酷く理性的だ。
マナの残量から、先の攻撃を防げたところであと一度。仮に根による飽和攻撃を選択されれば、いずれは押し負ける。あの様子では、これまで以上に悪辣な手で仕掛けてくる可能性もある。
逃げる以外に選択肢はない。
さらに言えば、振り切れるかわからない以上、タカオミたちとの合流も目指さなければならない。
慎重になった今、あの怪物も無理には追って来ないかもしれない。
「ん?」
そこまで考えたとき、抉れた壁の向こう側から何かの音がした。
ガチャガチャと金属同士がぶつかる音だ。砂煙の向こうに人影が見え、一瞬、タカオミかと思ったが、すぐに違うとわかった。
煙を掻き分ける両腕には籠手が着けられ、続く脚や身体にも鎧を身につけている。中に人が入ってるにしては、どこか不自然でぎこちない動きだ。騎士というより、むしろ、甲冑がそのまま動いているような印象を受けた。
一体だけではないようだ。それに続いて煙の向こう側からゾロゾロと甲冑が出てくるのを、クラウスだけではない、怪物さえもが注視している。
味方同士ではないのか?
わからない。わからないが、動くのであれば今を置いて他にないと思った。
決断は一瞬だった。
「───ッ!! ──」
クラウスが走り出すと、怪物のあげた怒号が殴りつけるように鼓膜をビリビリと揺らした。本気にさせたのだから応じろとばかりに、金切り声をあげている。
応じる余裕はない。
距離は離れている。根の攻撃が瞬時に届く範囲ではないはずだ。
あの巨体では移動するのにも相応の時間はかかるだろうし、なまじ冷静になってしまった現状、ともすれば自滅しかねない手など取れるはずもない。奥の手はきっと使ってこない。
そして、あの甲冑。
仮に怪物と甲冑とが完全な共闘関係にないのなら利用できる。
無防備にも背を晒して走り出したのは、そんな思惑があってのことだ。
「……!」
果たして、賭けは成功した。
激昂した怪物がクラウスへ向けて根を伸ばす。荒れ狂う波のような怒涛の勢い。それは言いかえれば、制御の甘い乱雑な動き。それは怪物にとり意図せぬ結果を生んだ。
つまりは、根の進路状にいた甲冑を数体巻き込んで粉々に破壊した──破壊してしまった。
肩越しに振り返りつつ、廊下を駆け抜ける。
ぼんやりと佇むだけだった甲冑たちが、怪物に向かって一斉に視線を向けた。怪物は動揺したように身じろぎをし、根の攻撃も自ずと勢いを失ってゆく。
両者の間で戦闘が始まる。少しずつ遠ざかっていく光景と戦闘音とを都度確認しながら、クラウスは廊下を駆け抜けた。
(追っては来ぬようだな)
しばらく経って、乱れた息を整えようとクラウスは立ち止まった。
いつの間にか、いたるところに張っていた根はすっかりなくなっている。先ほどまでの陰鬱さはまるでなく、改めて廊下を見回して、これほどまでに広々としていたのかと、クラウスは気づいた。
静かで何も聞こえない。戦闘音も。
甲冑と怪物との戦いはどうなっただろうか。
根の攻撃で容易に倒されていたあたり、あの甲冑では数が多かろうともそう長くは持たないと思っていたが、現状、根が追ってくる様子はない。
タカオミ達はどこにいるのだろう。彼らも、こんな静かな廊下を彷徨い歩いているのだろうか。
それにしても、静かだ。
廊下のところどころに扉もあるが、施錠されているようで、ここに来るまで開く扉はついぞなかった。
大理石の壁は左右とも、廊下のはるか先まで途切れず続いている。調度品や絵画はなく、何もない、何もいない。静かで、美しい廊下。
伽藍堂の────虚構。
「まさか……!」
光刃を地面に突き立て、神聖の光を付与する。徒労に終わるなら、それで良い。だが、もしも、この違和感が気のせいでないのなら、
「──やはり」
周囲の景色に波紋が広がり輪郭が崩れると同時、元の廊下が姿を現した。陰鬱な雰囲気も根が張っているのも同じ。
怪物も甲冑も、未だクラウスが記憶していた通りの場所で熾烈に争っている。
幻影……気付かぬうちに囚われていた。
逃げられてはいなかった。その場で足踏みをさせられていただけだったのだ。
甲冑は何度砕かれようとも再生し、怪物へ立ち向かってゆく。けれど、死なないというだけでは抗いようのない差が、両者の間には歴然としてある。
甲冑を薙ぎ払い、絶えず根を打ちつけながら、怪物は全身を微弱に震わせた。口だけの顔が不意にクラウスへ向けられた。凶悪に笑んだ。まるで、恐れなどないとでも言うように。
直感した。見誤っていたのだ、愚かしくも。
(舐めておったのは儂の方か……!)
急速に吸われてゆくマナが、根の中を脈動しながら中心へと流れてゆく。前兆を二度目は見逃さずに済んだ。
マナが収束する、棘の並んだ口内の中心へ。あの攻撃が来る。幸いなのは、致命的な隙を晒すより前に幻影から抜け出せたことだ。抉れた壁の方向を素早く確認する。大理石の壁は厚いが、あの程度ならば….!
光刃を壁に突き刺し、圧縮されたマナを瞬間的に解き放った。刃が破裂すると同時に壁に大穴が空き、砂埃が立ちこめる中を突っ切って、クラウスは大穴の内側へ身を踊らせた。
空気が揺らぎ、後方を音もなく何かが過ぎ去ったような感覚の後、一瞬、つんざくような耳鳴りがした。
「間に合ったか……」
大理石の破片がパラパラと降ってくる。小部屋の中、仄かに光る天井画と、その下に並ぶ彫像や絵画。緊迫した状況など嘘のように停滞したその空間で、一瞬気が抜けかけたところを、クラウスは膝を打って跳ね起きた。
まだ終わってはいない。この程度のことで安堵していてどうする。
奥に扉がある。部屋を横切り、押し開くと、クラウスは続く部屋も同じように駆け抜けた。
先へ先へと進むうちに、ふと後方から帯の擦れるような音が聞こえ始めた。
徐々に近づいてくる音を振り切ろうと、より早く、より効率よく部屋を駆け抜け、先へ先へと進むも、一定の距離を保ったまま根は執拗に追ってくる。
いくつかの部屋を抜けた先、広く開けた廊下に飛び出たクラウスは進行方向の曲がり角から根が伸びてくるのを視界に捉え、その場に踏みとどまった。
回り込まれた。
距離は離れているものの後方からも迫っている。出てきた場所以外にも扉はあるが、そちらにも先回りされている可能性が十分にある。
ひとつ活路があるとすれば……クラウスは横合いへ視線を向けた。
上階へ続く階段だ。吹き抜けで、見える範囲には特に何かがいるような気配もない。
躊躇しているような暇はない。しかし……。
(もしや、罠か……?)
そうでないとは言い切れない。これが罠なら、あちらへ進んだ瞬間、何よりも大きな苦難に襲われることになる。そうなればどうなる? この上、他のモンスターに襲われるようなことになれば? しかし、他に道があるか?
「……?」
不意にそっと手を引かれた気がした。
(何だ?)
何かの気配があったわけではない。それでも、不思議と手の平にはぬくもりが残っている。悪い感覚ではなく、あの怪物の害意に満ちた幻影とは異なって、むしろ。
説明できない確信がある。この感覚を信じて良いのなら、
(いや、信じるべきだ)
可能性を信じられなければ、活路などないに等しいのだから。
行かねば。進まなければ、先へ。あれに追いつかれぬよう、少なくともタカオミと合流するまでは。ふと息を吐く。
クラウスは意を決して階段へ向かい、駆け上がっていった。
およそ五十段ほど、緩やかではあるが何せ段差が多い。ひとつ上の階へ着いた頃には息も絶え絶えになってしまっていた。
脚が震える。これは何とも、老いた身には辛いものだ。これくらい、身体強化を使えれば屁でもないだろうに。
(それもまた、言い訳よな)
少しは痩せておけばよかったのだ。丸々と突き出た腹をさすりながら思う。
下を覗くと、根はすでに階下の手すり近くまで伸びて来ている。もうひとつ上の階へ行く階段があるにはあるが、そちらへ進むほどの時間も体力も残されていない。
できるだけ上へ行きたかったが……歯噛みし、周囲を見回す。と、すぐそばにふたつ大きな扉があるのに気づいた。
「ここは……そうか」
自分を導く何者かがいるとするなら、それはきっと、あの扉の先へ進むことを望んでのことだろう。
扉へ向かい、ゆっくりと開く。隙間から内側を覗き、扉の近くに何もいないことを確認してから身体を滑り込ませた。状況はわかっている。しかし、それでも慎重にならざるを得なかったのだ。
扉を後ろ手に閉じ、その空間を目の前にしてクラウスは息を漏らした。
この場所だ──太陽はあった。
幻影の中、タペストリーに描かれていた絵は、唯一あれだけは真実を映していたのだろう。
静謐の波が押し寄せる。高く伸びる柱。壁一面を覆うステンドグラスは暗がりの中にあってなお、淡い灰色のヴェールをまといながらも微かに瞬いて見える。
右方、奥には祭壇と、祭壇の後ろには黄金でできた像が鎮座する。また、さらにその背後には天井に届くほど巨大なパイプオルガンが屹立し、鈍く輝きを放っていた。
何より……。
バルコニーの手すりに手を置き、信じがたい思いでそれを見上げながら、クラウスは再度小さな吐息を漏らした。
「星……」
満天の星が光を湛えている。




