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せまる魔の手

 アケチ探偵事務所に、またしばらく、静寂の時間が続きました。今度は、部屋の明かりも消えていまい、完全に真っ暗な状態で、ひっそりしているのです。

 やがて、ゴソゴソと音を立てて、誰かが、この事務所へと帰ってきました。もう夜の12時を過ぎた時刻です。

 事務所にぱあっと電灯が点きます。玄関を開いた人間の姿も、はっきりと光に照らされました。その人物とは、アケチ探偵の助手の一人であるフミヨさんなのでした。

 事務所に入ったばかりのフミヨさんは、怪訝そうに、その美しい顔をしかめていました。そして、落ち着いて、部屋の中を見渡したのでした。もちろん、明かりが点いていなかったのですから、この部屋には、誰もいないのです。

 実は、フミヨさんは、捜査に出向いていた先の花崎邸から、何度も、この事務所へと電話を掛けていたのですが、夜になってから、急に電話が繋がらなくなってしまったのでありました。いくら電話を掛けてみても、誰も電話を受ける気配がないので、ちょっと心配になってきたフミヨさんは、当初の予定を変更して、すぐに、この事務所へと引き返してきたのです。

 そうしたら、見ての通りなのでした。事務所の中には、誰も待機していません。全くの無人の状態なのでした。フミヨさんは、どこかに書き置きがないかも探してみたのですが、そうしたメッセージもまるで残されていなかったようなのです。

 彼女は、ふうっと深く息をつくと、やむなく、自身が、ここで留守番をする事に決めたのでした。今度は、アケチ探偵ではなく、フミヨさんが、一人で、この事務所の中で、皆を待ち続ける番となったのです。彼女もまた、事務所に明るく電灯を灯して、夜中じゅう、ずっと事務所の中で起き続けていたのでした。

 さらに時間がかなり過ぎていきました。夜が更けていっただけではなく、もうすぐ、夜が明けるぐらいの時間にもなってきたのです。その間、フミヨさんは、仮眠も取ろうとせず、事務所の中を絶えず動き回って、しっかりと起きていました。

 そして、ようやく、事務所の玄関の方では、誰かが入ってきた物音がしたのです。

 フミヨさんも、ハッとしました。彼女は、椅子から立ち上がると、迷う事なく、玄関の方に向かったのでした。

 玄関のドアは、すでに開いていました。今、やって来た人物も、この事務所の人間であり、玄関の鍵を持っていたのです。その人物とは、所長のアケチ探偵なのでした。

「お帰りなさい、先生」フミヨさんは、ホッとした感じで、でも、少し疑うような目つきで、帰って来たばかりのアケチ探偵に声を掛けました。

「ああ、ただいま。なんだい、君の方が先に戻って来ていたのか」と、アケチ探偵が言います。

「先生こそ、今まで、どこに出かけておられたのですか。てっきり、事務所で待機していたものだとばかり、思っていましたわ」

「急な用事が入ったんだよ。でも、おかげで、今起きている事件の有力な手掛かりが見つかった」

 このアケチ探偵は、先ほど、賊に襲われて、拉致されてしまった事については、なぜか、まるで話そうとはしなかったのでした。

「まあ、本当ですの!」フミヨさんが、素直に、喜びの声をあげます。

「だから、すぐ、手掛かりのあった場所へと向かおうと思う。その場所とは、西タマ郡にある鍾乳洞だ。君も早く出かける準備をしなさい。いっしょに捜査に行こう」

 アケチ探偵があまりにも急かした為、フミヨさんの表情も少し固くなったのでした。

「あのう、先生」

「何だい」

「手掛かりって、一体、どの事件の手掛かりが見つかったのですか」

「そ、そりゃあ、コバヤシくんが誘拐された件についてのさ」

 アケチ探偵のこの一言を聞いて、フミヨさんの態度は豹変したのでした。彼女は、あからさまにキツい顔つきになり、アケチ探偵のそばから素早く離れたのです。

「あなた、アケチ先生じゃありませんね?」と、フミヨさん。

「おいおい、何を言っているんだ。私はアケチだよ。この顔を見ろ。どう見ても、アケチだろう?」アケチ探偵が、苦笑いしました。

「うそ!アケチ先生は、断言できない事をすぐ口に出すような人ではありません。なぜ、あなたは、音信不通だったコバヤシくんの事を、誘拐されたと言い切ったのですか?」

「そ、そりゃあ、西タマの鍾乳洞の中で発見されたのが、コバヤシくんだったからさ」

「でしたら、手掛かりなどと曖昧な事を言わず、『コバヤシくんが見つかった』とはっきり告げてくれても良かったのではありませんか?」

「そ、それは・・・」

「しかも、もし、西タマにいたのがコバヤシくんなのでしたら、そこは、『捜査に行く』ではなく、『救助に行く』と言うべきです。あなた、『コバヤシくんが見つかった』などと言うのは、とっさの出まかせだったのでしょう?」

 さすがは、これまでも、幾つもの手柄を立ててきた女探偵のフミヨさんなのです。このアケチ探偵との会話の僅かな違和感から、すぐさま、そこまで見抜いたのでした。

 アケチ探偵は、チッと舌打ちをしました。

「勘が鋭いのも考えものですね。おとなしく従っていれば、穏便に連れさらったものを」このアケチ探偵は、ついに、そんな本音を口走ったのです。

 もう間違いありませんでした。外見は、確かに、アケチ探偵そっくりですが、このアケチ探偵は、きっと、ニセモノなのです。仮に、もし、本物のアケチ探偵であったとしても、恐らくは、悪人の催眠術にでも操られていて、正気な状態ではなかったのでしょう。

 フミヨさんは、バッと駆け出して、逃げ走りました。この事務所の奥の方にある部屋は、居住空間になっているのです。彼女は、その居住区域へと逃げたのでした。

 アケチ探偵は、ゆっくりと、そのあとを追い掛けます。

「逃げられませんよ。事前に、この事務所の裏口のドアは、開かないように、外から細工しておきましたからね」彼は、冷ややかに笑いながら、そう呟きました。

 となると、フミヨさんは、せっかく、居住区域の方に逃げたとしても、出口が開かなくて、袋のネズミになってしまった事になるのでしょうか。

 アケチ探偵は、とうとう、居住空間にあったリビングにも、ずかずかと入り込んでいきました。この場所には、まだ、フミヨさんの姿は見当たらなかったのです。

 アケチ探偵は、さらに、奥の方の部屋である寝室にも乗り込みました。しかし、そこでも、フミヨさんは見つからなかったのでした。部屋の中は無人であり、しーんと静まり返っているのです。

「おかしいですね。こんな短時間では、すぐ逃げられないと思うのですが」アケチ探偵は言いました。

 その時、寝室の片隅に置かれていた大きなクローゼットの方から、ガサリと音がしたのです。

 アケチ探偵は、ニンマリと微笑みました。

「おや、そこでしたか。隠れたつもりでも、ちょっと安易すぎる場所だったかも知れませんね」

 そして、彼は、つかつかと、クローゼットの前にまで歩み寄ったのでした。それから、クローゼットの折れ戸に手を掛けると、思いっきり、ガバッと横に開いたのです。

 ところが、クローゼットの中は空っぽであり、ここにもフミヨさんはいなかったのでした。クローゼットの内側の背面の板は、大きな姿見になっており、その鏡にアケチ探偵の姿が反射して、ぼっと映っているだけなのであります。鏡の中の彼は、薄暗くて、やや不気味な印象なのです。

「?」アケチ探偵は、ギョッとしました。

 この不気味さは、気のせいではないのです。本当に、鏡の中のアケチ探偵の姿はおかしかったのでした。そう、そこに映っていたアケチ探偵は、顔こそ、全く同一のアケチ探偵でしたが、服装はまるで違う柄のものを着ていたのです。なんて、不思議な話でしょうか。普通の鏡でしたら、そんな奇妙な事には絶対になりません。

「うわあ!」と、思わず、アケチ探偵は悲鳴をあげてしまいました。

 と言うのも、次の瞬間、鏡の中のアケチ探偵が、ぬうっと、クローゼットの外にまで出てきたからなのでした。

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