第52話 雨は哀しみのように
冷たい雨が降ってきた。レイトは空を見上げる。灰色のどんよりとした空に、冷たい雨、そして静寂の森には雨音だけが響いている。雨を避けるために巨大な木の枝から降りて、地面を歩く。
そして、雨宿りが出来そうな木の下で背負ったアリッサを下ろした。木にもたれさせ、彼女の雨で濡れた前髪を上げた。呼吸が浅い、苦しそうな表情だ。サラドルに刺された場所にかけている医療魔法の効力が切れかかっている。
弱った身体に冷たい雨は身体に障る。このままでは、彼女は衰弱していく一方だ。それに騎士団に狙われている今の状況は、かなりのストレスだろう。精神的な負担もあって、消耗が大きすぎる。
騎士団はすぐ後ろまで、迫ってきている。黒の波動の負担と逃亡に使った魔力が回復するまで、まだ時間がかかる。そして、アリッサは動くことが出来ないどころか、このままでは命に関わる。
(状況は絶望的だ……)
徐々に追い詰められていることを改めて実感する。物量と規模の差はこうもハッキリと出てしまうものか。だが、今は祈るしかない。レイトはアリッサの横で樹にもたれかかると、少しだけ警戒心を抱き、目を閉じた。少しでも回復に努めるために。
変わった夢を見た。レイトは気がつくと城の謁見の間を上から眺めていた。身体が浮いている不思議な感覚。そして、眼下には蒼い色の髪と瞳を持つ少女が居る。腰まで伸びた髪を持つアリッサと違い、その少女は肩で切りそろえたショートカットだった。
今の自分と同い年に見えるその少女の顔を何処かで見たような気がするが、上手く思いだせない。そして、向かい合うのは黒髪を持った一人の少年。彼の顔は輪郭がぼやけており、よく見えない。ただ、その少年が自分では無いことだけは分かる。
(お前は……お前たちは誰だ?)
少年が何かを叫んだ。声は聞こえないが、顔には悲壮感が漂っていることは分かる。彼は今から決死の戦いを挑む覚悟のようだ。しかし、出来れば避けたいとも思っている。だから、叫んだ。
少年の相手は蒼髪の少女だろう。彼はずっと少女の反応を待っているが、彼女は何も返さない。そして、手に持った長杖を少年へと向ける。
――ひとりの人間とは思えないほどの冷たい表情を浮かべて
彼女は少年を殺す気だろう。彼の説得には応じない。そのはずだ、なのにレイトにはどうも腑に落ちないことがあった。
(どうして、彼女は泣いている?)
彼女の蒼い瞳からは涙が溢れ、頬を伝い床に落ちた。表情は相変わらず無表情なのに、涙だけは溢れて止まらない。それほど少年と戦いたくないのか。少年は腰に差した日本刀らしき、反りかえった剣を抜いた。
何故、お互いに戦いたくないのに武器を向けあうのか。恐らく、少女の方は何者かによる、精神的な操作が加わっている。操られていると言った方がいいだろう。そんな、魔法があるとは聞いたことが無いが、彼女の表情は人形と思えるほどに生気が無い。
そして、少年はそんな彼女を救いたいと思っている。だから、今こうして彼女と対峙している。少年が剣を構え、足をグッと曲げた。そして、ボソッと呟いた。
「行くよ。シエル」
それが少年の言葉だった。
「……」
レイトは薄らと目を開けた。左の肩に重さを感じる。目をやると、アリッサの頭が乗っていた。眠っていると思ったが、彼女の違和感に気がつく。アリッサはすでに医療魔法を解除している。治療が終わるには少し早い気がする。何より、今の彼女から生気が感じられない。
「アリッサ。大丈夫か?」
レイトの声に彼女は細く目を開けた。目の光がいつもより弱い気がする。
「はい……レイトさんは回復しました?」
「ああ。もう大丈夫だ」
目を閉じるまで感じていた、身体のダルさも頭痛も全てがとれていた。少し眠っただけなのに、とんでもない回復を身体はしている。
「良かったです……では、レイトさんは逃げて下さい……私は……もう……」
「アリッサ……まさか」
彼女は自分に医療魔法をかけたのだ。本来なら怪我を治すために使うはずだった魔力を最後の力を振り絞って、自分の回復の為に使ったのだ。何故、そんなことをしたのか、疑問が浮かんだが、今はそれどころではない。
彼女はこのままでは死ぬ。
「置いて行けるわけないだろう! 絶対、二人で生き残るんだ!」
「私が居たら……足を引っ張ってしまいます……それに、シエルのためにも、父を止めないといけない……」
確かにそうだ。もし、シエルが異界人を呼べば、イェノムは同じことを彼女にさせる。きっと、今度は何振り構わず。シエルが召喚魔法を使うとは断言できないが、行えばそうなるだろう。
(そうか……あの夢は)
レイトは夢の内容を少しだけ理解した。あの夢の少年は、シエルに呼ばれた異界人だ。もし、シエルが異界人を呼べば、二人は殺し合うという暗示だ。そして、シエルはあの少年を愛していた。だから、あれほどの涙を流し、少年もまた彼女を愛し、救いたいと願った。
「それに……私はもう長くありません……だから、もしよかったら、お願いがあります」
聞くな、その先を聞いてはいけない。耳を塞ぎたいと思うが、彼女の大切な言葉。その事実が身体を動かそうとはしなかった。そして、アリッサは禁断の提案をしてきた。
「私の魔素を吸収してください」
アリッサは小さな声で力強く言った。それがどうゆう意味か、もはや説明は不要だった。今のままでイェノム達に勝つことは難しいだろう。倒したとしても、アリッサが居なければ国は混乱に陥る。シエルが王位を継ぐには早すぎる。
だが、アリッサの魔素を吸収し力を付ければ、将来的に起こりえる対決での勝率が飛躍的に上がる。理屈では分かる。だが、当然受け入れられるものではない。
「ダメに決まっているだろ。俺は君を殺すことは出来ない」
「どの道、ここでお別れです……私はもう長くない……」
アリッサは覚束ない足取りで立ちあがった。レイトも立ち上がり彼女を支える。そして、直感的に気がつく、彼女がもう助からないことに。戦場で多くの人の死を見て来たレイトには、それが分かった。誰も抗えない、死への道を彼女は歩いている。
ならば、魔素だけでも吸収して、彼女の力だけでも残すべきか。レイトはゆっくりとアグナの宝剣を抜いた。蒼白く鈍い光を放つ刀身は、こんな時でも美しい。
アリッサはアグナの刀身を白い両手で挟み、切っ先を自分へと向けた。後はレイトが少しだけ押し込めば、アグナは彼女の胸突き刺し、死に至らしめる。
アグナを握った右手が小刻みに震え、力が入らない。今、自分が彼女に剣を向けている事が信じられなかった。こんな、日が来ること自体が。
「もし、シエルが異界人を呼んだら……シエルと異界人が納得のいく未来を選べるようにしてください……」
これが彼女との最後の約束になるのだろうか。アリッサとの出会いから今までの思い出はフラッシュバックのように、脳を駆け巡る。何とか、助けることが出来ないかと必死に考えるが、この場でアグナを刺さなくても彼女はもうじき死ぬ。それが運命なのだ。
胸が張り裂けそうなほど痛い。これほど、ツライ思いをするのなら彼女と最初に出会ったとき、差しだされた短剣で彼女を殺せばよかった。そう思うほどに。
「あなたに最初から最後まで重荷を背負わせてごめんなさい。
だけど……後の世代が幸せを得るために……私を殺して」
――あなたを巻き込んだ罰は受けなきゃ
彼女は笑った。そして、彼女が自分に素の口調で話してくれたのは初めてだった。悲しい笑顔はレイトに全てを決断させた。
――せめて、笑顔のままで
レイトはアグナを彼女の胸へと突き刺した。柔らかい感触がアグナを伝い右手に到達する。始めて刺した人の身体は驚くほど柔らかかった。アリッサは口端から一筋の血を流し、グッタリと靠れかかってきた。そして、耳元に口を近づける。
「さようなら……私の愛おしい人……愛しています……」
「……俺もだよ」
レイトは重い剣を引き抜いた。剣が抜けた彼女の身体が糸の切れた人形のように、力なく地面に倒れ落ちた。胸の部分から血が徐々に溢れ、土から浮き出た雨と混じり広がってゆく。
自分にとってこの非現実的な光景が、彼女はもう動かないことを示していた。何故か、不思議と涙は出なかった、失ったのは最愛の人なのに。
ただ、冷たい雨が身体を濡らしていた。




