第39話 ごめん。さようなら
ここは何処だろうか。アリッサは自分の周りに広がる不思議な光景に戸惑う。足首辺りまでの深さしかない、浅い湖に自分は立っている。湖は何処までも広がっており、空は不気味な灰色の雲で覆われていた。
湖の真ん中には葉の先まで純白の木が一本、神々しい姿で立っており、自然と足をその木へ進めていた。次第に木が大きくなるにつれて、そこに人影があることに気がつく。目を凝らすと黒髪を持った少年だった。
「レイトさん!!」
駆け足で近付き、彼の手を取る。
「生きていたんですね! 怪我はありませんか?」
彼は優しい笑みを浮かべたまま、何も言葉を返さない。
「どうしたんですか? 何か言ってくださいよ? からかっているんですか?」
彼は言葉を返さない。彼の手を強く握るが、握り返してはくれない。胸がギュッと締め付けられる。息が苦しい、鼻の奥がツンと痛くなる。何故彼が返事をしないのか、頭は理解し始めている、だけどそれを認めることは出来ない。してはならないと心が叫ぶ。
「早く安心させてくださいよ……何か……言ってくださいよ……」
アリッサの訴えに彼は笑みを浮かべたまま、口を動かした。言葉は出てこなかった。でも、何を言っているかは口の動きで分かった。
『ごめん。さようなら』
彼はアリッサの手を振り払うと、踵を返し歩き始めた。
「待って!!!」
こんな一方的な別れなど許せるわけがない。アリッサは彼の後を追いかけようとするが、見えない壁に阻まれた。彼の姿はどんどん見えなくなっていく。
「レイトさん!! 振り返ってください!! お願いです!! 行かないで!!」
固く拳を握り、壁を叩くがびくともしない。やがて、湖の向こうへと彼は消えてしまった。足の力が抜け、見えない壁に頭をつけたまま、その場に座り込んだ。溢れた涙は頬を伝って下に落ちた。
「待って……行かないで……一人にしないで……」
彼女の嗚咽で低くかすれた声は誰にも届かない。泣き続ける彼女の視界が、やがて黒に染まる。何も見えない。そこは漆黒の世界だ。自分が目を閉じていることを理解するのに数秒かかった。ゆっくりと目を開けると自室の見慣れた天井があった。窓からは光が差し込んでおり、まだ昼間のようだ。
(夢……だった……)
どうやら夢を見ていたらしい。レイトが居なくなり、さよならを言う夢。少し前に見た、元の世界に帰ってしまう夢よりもリアルでショックな内容だった。
「姉さま?」
横から声がした。首を向けると、妹のシエルが心配そうな表情を浮かべていた。
「大丈夫よ」
彼女の不安を消すため、出来るだけ優しい笑みを浮かべる。
「まだ、寝ていて。ガノ総隊長呼んで来る」
「いいわ。自分で立てるから」
身体を起こし、ベッドから出る。足を床につきベッドから立ち上がった瞬間。足の力がフッと抜け、よろめいた。
「一週間も寝たのに、無理したらダメ」
「一週間!?」
シエルの言葉に驚愕する。そして、夢の内容のことばかり考えていた脳裏に、倒れる前の記憶が蘇る。次々と運ばれてくる怪我人を治療しているといつの間にか、意識が飛んでいた。確かに、かなり魔法を酷使したし、10人同時に治療をしたりもしていた。
(この部屋があるってことは、戦いには勝った。だけど被害は?)
アリッサはシエルを連れて、覚束ない足取りで部屋を出た。すれ違う人々に心配されるが、今は被害を確認して、治療が必要な人間が居れば治さなければならない。ガノの居場所をすれ違った兵に聞いて、騎士団の寮にある彼の執務室を訪れた。
ドアの前に立ちノックする。
「入れ」
ガノの声だ。
「失礼します」
シエルを連れて部屋に入る。彼は報告書を書いている手を止めて、少し安堵した表情を浮かべた。
「意識が戻ったようですね」
「はい。被害はどうなっていますか? 治療が必要な人は居ますか?」
「そうですね……正直、何からやるべきなのか……」
彼はことの顛末を教えてくれた。
魔物領より王都に押し寄せた、大地を埋め尽くすほどの魔物は、騎士団の決死の殲滅作戦の末、全滅し王都は守られた。王都に被害は実質、無かったと言っていいほど街の人々には怪我人は居なかった。
しかし、騎士団は半数以上が死亡。隊長格も一応は全員生還したものの、動けるのはガノとサラドルの二人だけ。残りの三人は受けたダメージが酷く、静養が必要な状態だった。勝つには勝った、多大な犠牲を払って。
そして、すでに治療が必要な人は居ないらしい、医療魔法が使える魔術師たちが一週間かけて、手を尽くしてくれた。
「今、あなたに必要なのは休養だ。身も心ね」
その言葉で彼が何を言いたいか、理解した。
「……レイトさんは、帰ってきてないのですね」
「はい。最優先は魔物の警戒です。今は騎士団の力は半減していると言っていい。捜索は出来ません」
「分かっています」
あれだけの魔物の侵攻を直接王都に受けた。民は不安になったはずだ。当然、警戒はしなければならない、そして、半数以上の兵を失った騎士団にはその警戒だけで手一杯だ。そもそも、その魔物の警戒ですら満足に行えるのか分からない。
これだけの被害が出ると、本当に自分たちは魔物領でこの侵攻の原因を止めたかどうか、疑いたくなる。確かに、極大魔法石は勇者の手によって破壊されたはずだ。死力を尽くして実は違いましたではすまないほど、こちらの被害は甚大だ。
「どっちにしてもあなたは忙しくなる。今はゆっくりと休んで下さい」
「分かりました。そうさせてもらいます」
アリッサはガノに一礼すると、シエルと共に部屋を後にした。騎士団の寮を出て、城までの道をシエルと並んで歩く。
「姉さま。あいつが心配?」
「もちろん。シエルも?」
「あいつは嫌い。でも、あいつが居なくて姉さまが泣くのなら、帰ってきてほしい」
「泣くのなら?」
「姉さま。寝ている時、あいつの名前を呼んで泣いてた」
あの夢を見ていたときのことだ。妹に心配されるとは我ながら情けない。しかし、それほどショックだったと言うことだ。夢は夢だと思いたい。彼は今もどこかで生きている。それで、彼が王都へ帰ってくると言う保証は無いが、生きているのならまた会える。
「早く、帰ってくるといいわね」
「少しでも変態が治ってたらね」
シエルは口を尖らせた。表面的には嫌っているが、彼女もなんだかんだで、彼のことを兄のように思っている節がある。彼がこの世界に来て間もない頃、まだ魔法の訓練をしていた時は二人でよく、張り合って勝負をしていた。
もちろん、魔術系の魔法が使えない彼はいつも負けていた。その勝負をしている時のシエルはイキイキしていて楽しそうだった。そんな二人を微笑ましく、そして少しだけ妹を羨ましく眺めていた。この子は自分の知らない彼と話していたからだ。
そんな光景も感情も、彼が居ないと成立しない。今思うと、彼はよく居なくなる。いつも待たされたばかりだ。帰ってきたら、思う存分甘えてみよう。そんなことをふと思った。
王都決戦後、より一層、魔物領への警戒を強めたストレニア王国だったが、魔物は一度も溢れてこなかった。まさに侵攻前の状態へと戻っていた。驚くほど穏やかな日々が流れ、王であるイェノムが魔物の侵攻が終わったと告げたのは、王都決戦から一か月後のことだった。
人々は歓喜し、街は宴に包まれた。そして、同時に次期王座にアリッサが就くことが決まった。正式な継承はまだ先で、民に伝えるのはもう少し後だが。一部の貴族や騎士団上位の者にはその知らせはすぐに届いた。
アリッサの元に祝いの言葉や、婚約の話が次々に舞い込んで来るが、それを聞く気も見る気もならなかった。待ち望んでいた人々の平和。ただの日常をこれほど切望していたのに、心は満たされない。
理由は分かっている。でも、それを自力でどうすることも出来なくて。ただ、彼への想いは雪のように積もり続ける。この一か月、忘れるどころか逆に大きくなるばかりだ。最後に心の底から笑ったのはいつだろうか、最近は笑い方すら忘れてしまった。
(私の心は冬だ)
暖かい日差しが自室の窓から零れている。ベッドで無気力に天井を見つめる。王女としての用事が無い時以外は、基本的に部屋にこうして引きこもっている。このままでは、いけない事は頭では分かっている。この国を治める者として、立派に立ち振る舞わなければならない。
それでも心は割りきれなくて。彼に会いたいと赤子のように叫ぶ。諦めよう、嫌だ、会いたい。そんな感情で心は満たされ、整理は出来ずグチャグチャになる。これほど苦しむことになるのなら、彼を呼ばなければよかったそう思うほどに。
(ダメだ。もう、忘れないと)
このままでは何時までも変わらない。そう思い、アリッサは外套を身にまとい、フードを被り、周りに気付かれない様にこっそり部屋を出た。見つからない様に城を出て、門へと向かう。門兵は適当にあしらえばいいだろうと思い近づく。
「嘘をつくな! 俺は騙されんぞ!!」
「自分を勇者と偽り、姫の傷心に付け込む手口……非道なり!!」
二人の門兵の声が聞こえる。その声からかなり怒っているように思える。婚約の話の中には自分が勇者と名乗ったり、髪を魔法で黒く染めて城に来る人もいた。最初は何度か確認していたが、違うと分かり、次第にそう言った話を聞くことが嫌になった。
期待して騙されるのなら、最初から期待しない。それに本物なら門兵くらい片付けることも出来る。彼がそんな手段を取るかどうかは別にして。アリッサの心情を察したガノが門兵たちに、追い払えと指示してくれた。それにガノは彼の顔を知っている。
本物だと思えたのなら自分を呼べと、忙しいはずなにわざわざ時間を割いてくれた。感謝の気持ちと、少しばかり自分が情けないと思った。周りをこれほど振り回しているのだから。 そのせいか、門兵たちのやり取りもあまり気にせず、横を素通りしようと思った。
「本当だって! アリッサを呼んでくれれば分かる!」
門兵と言い争う少年の言葉が耳に入って来なければ。
(え……? この声)
心臓の音がドクンと大きくなる。それは聞き覚えのある声、そして待ち望んでいた声。アリッサは門兵の後ろから少年を眺めた。距離にして数十m。そして、その視線に気がついた彼と目があった。
黒い髪と黒い瞳。一カ月ぶりに会った彼は髪が少し伸びていること以外、何も変わらなかった。
「ただいま」
夢の彼とは違う。本物の彼は言葉を出した。




