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#4 期待①

 文化祭当日。


 朝の校舎は、いつもより少しだけ明るく見えた。廊下には色紙の飾りが揺れ、教室のあちこちから威勢のいい呼び込みが聞こえてくる。焼きそばのソースが焦げる匂いに、甘いクレープの香りが混じり合う。普段なら先生に怒られそうな喧騒さえ、今日という日の一部として優しく許されている気がした。


 受付表の確認を終え、パンフレットの束を整えた澪は、さっきから何度も時計に目をやっていた。ステージ発表の時間は、もうすぐそこまで迫っている。緊張しているのは自分ではないのに、紙を揃える指先がどこかぎこちない。


 今日、佐伯くんがステージに立つ。ただそれだけで、胸の奥がずっとざわついていた。


 体育館へ足を向けると、そこはすでに大勢の生徒で溢れかえっていた。ざわめきと、照明の熱気。床を鳴らす上履きの音。見慣れた朝礼の場所が、まるで知らないどこか遠くの空間のように感じられた。


 ステージの袖に、マイクを握る彼の姿を見つけて、澪は歩みを止めた。佐伯くんはいつも通りの顔をしていたけれど、指先には、少しだけ力が入っている。


「緊張してる?」


 声をかけると、彼は一秒も待たずに首を振った。


「してない」


「うそつき」


「判断が早すぎないか」


「返事が早すぎる人は、だいたい嘘つきなんです」


「澪さん、それ何調べ?」


「私調べ」


 そう言うと、彼は困ったように少しだけ笑った。


 澪は、そんな彼の笑い方が好きだった。眉を下げて、それでも相手に気を遣わせないように、申し訳なさそうに笑う。今になって振り返れば、あの表情にはちゃんとサインが出ていたのだと思う。けれど、あの頃の自分はそれを読み取れるほど大人じゃなかった。ただ、彼が笑ってくれたという事実だけで胸がいっぱいだった。


「怖かったら、怖いって言ってもいいんだよ」


 少しだけ真面目なトーンで伝えると、佐伯くんは手元のマイクに視線を落とした。


「……怖くないって言ったら、それこそ嘘になるかな」


「じゃあ、怖いんだ」


「うん。逃げたいくらいにはね」


「正直すぎて、逆に好感度上がった」


「こんな時に上げてどうするのさ」


「本番前だから。少しくらいサービスしておこうと思って」


 佐伯くんは、また笑った。でも今度は、さっきよりも少しだけ肩の力が抜けていた。


 その時、ステージ袖の向こうから男子たちの騒がしい声が聞こえてきた。


「佐伯、今日マジで頼むぞ」

「練習のときから普通にプロっぽかったもんな」

「本当それ。プロでもいけるって。失敗なんてありえないだろ」


 冗談まじりの、明るい声だった。言った側に悪気なんてない。むしろ純粋に期待しているのだと分かった。けれど、その言葉が耳に届いた瞬間、佐伯くんの肩がほんのわずかに強張ったのを澪は見逃さなかった。


 彼はすぐに、いつものように笑った。


「やめてよ。勝手にハードル上げないで」


「いやいや、上げとく方が燃えるだろ」


「残念ながら、俺はそういうタイプじゃないんだけどな」


 どっと場が笑いに包まれる。佐伯くんも一緒に笑っていた。けれど彼は笑い出す直前、男子たちの顔やステージ係の生徒の横顔、そして澪の顔を、なぞるように順番に見た。周りの人間が自分に何を求めているのかを、必死に探り当てようとするみたいに。


 澪の胸の奥が、すっと冷えていく。このまま彼を舞台に出していいのだろうか。未来を変えたいと願うなら、今ここでこの「期待の連鎖」を断ち切るべきなんじゃないか。


 もしも彼が今日歌わなければ、彼を壊すことになるあの未来は、音を立てて崩れるかもしれない。そう考えた瞬間、握りしめた手のひらにじっとりと嫌な汗が滲んだ。


「佐伯くん、ちょっと」


 澪は彼の袖をそっと引いた。


「え?」


「こっちに来て」


 ステージ袖の端、喧騒が少しだけ遠のく場所まで彼を連れていく。佐伯くんは不思議そうに目を瞬かせていたけれど、澪の視線の強さに気づくと、すぐに作るような笑みを消した。


「……どうしたの?」


「出なくてもいいよ」


 言った瞬間、自分の声が自分でも驚くほど硬く響いた。


「今日じゃなくてもいい。怖いなら、やめてもいいよ。体調が悪いって言えばいいし、私から先生にも話すから」


 佐伯くんが、ぱちくりと目を瞬かせた。澪は言葉を止めなかった。ここで言わなければ、また同じことを繰り返してしまう。そんな予感が背中を押していた。


「みんなが期待してるからって、無理して出る必要なんてない。佐伯くんが嫌なら、もうやめていいんだよ」


 体育館のざわめきが、足元から波のように押し寄せてくる。ステージの向こう側では、出番を待つ生徒たちの熱を帯びた声が膨らんでいた。佐伯くんは少しの間を置いてから、静かに、確かめるように言った。



「澪は、聴きたくないの?」



 不意を突かれ、澪は喉の奥を詰まらせた。


 違う。本当は、聴きたい。誰よりも聴きたい。佐伯くんの歌をみんなにも聴いてほしい。放課後の教室で初めて胸を撃ち抜かれた、あの震えるような歌声を、自分だけの思い出に閉じ込めておくのはあまりに惜しい。


 けれど、その願望が彼の重荷になるのなら、それはきっと正しくない。


「私は……佐伯くんに、無理をしてほしくないだけ」


「無理してるように見える?」


「見えるよ」


「そんなに?」


「少し。でも、その少しが、壊れてしまいそうで怖い」


 佐伯くんは、困ったように眉を下げて笑った。


「澪って、ときどき、すごく真面目だよね」


「今は、真面目に話してるの」


「そっか」


 彼はふいと顔を上げ、ステージの袖を見つめた。ざわめきの中から、誰かが彼の名前を呼ぶ声が遠く響く。


「怖いよ。今すぐにでも逃げ出したい。でも、ここで逃げたら、きっと俺、ずっと後悔すると思う」


 消え入りそうなほど小さな声だった。けれど、そこには確かな芯が通っていた。


「みんなが待ってくれているような気がするのも、本当。ここで逃げたら、がっかりさせるんだろうなって思うのも、本当なんだ。でも、それだけじゃない。自分でも確かめてみたい。俺の声が、どこまで届くのかを」


 澪はもう、何も言い返せなかった。彼の歌を聴きたいという渇望。守ってあげたいと願う一方で、舞台に立つ姿を求めてしまう。自分勝手な矛盾が、澪の胸をひどく締め付けた。


 けれど同時に、澪は別の答えに手を伸ばそうとしていた。佐伯くんは、自信がないのかもしれない。自分の声が届くかどうか分からないから怖い。みんながどう見るか分からないから不安になる。だから逃げたいと言う。


 今の彼に必要なのは、止めることではなく、信じてもいい理由を渡すことではないだろうか。


 そう思った瞬間、澪の中で「止める」という選択が、甘く危険な形へと変貌した。

 『歌わないで』ではなく『歌っても大丈夫だよ』と伝えること。それが彼を救う唯一の正解なのだと、自分に言い聞かせてしまった。


「大丈夫だよ」


 澪は言った。佐伯くんがこちらを見る。


「根拠は?」


「私が聴いてる」


「それ、根拠になる?」


「なる。少なくとも私の中では」


 佐伯くんは何か言いかけて、やめた。そして、小さく息を吐く。


「じゃあ、少し覚えておく」


「何を?」


「澪が、今日だけやけに偉そうだったこと」


「そこじゃない」


 二人で笑った。たぶん私は、その瞬間を一生分の宝物みたいに大事にしてしまったのだと思う。彼が怖いと言ってくれたこと。自分の言葉で少しだけ笑ってくれたこと。自分が彼の特別な誰かになれたような気がしたこと。その全部が、嬉しかった。


 だから、気づけなかった。


 怖いと言った彼に、澪は一度は「逃げてもいい」と言った。けれど結局は、彼の不安を自信のなさと決めつけて、歌う方へ言葉を向けてしまった。


 それが本当に彼のためだったのか、それとも自分が彼の歌を聴きたかっただけなのか。その時の澪にはまだ分からなかった。


 ステージ係の生徒が顔を出した。


「佐伯、次!」


 佐伯くんは一度だけ澪を見た。不安そうで、それでも逃げないと決めた目だった。澪には、まだ引き止める機会があった。けれど、言えなかった。


「いってらっしゃい」


 そう言うと、佐伯くんは小さく笑った。


「行ってきます」


 その言葉を残して、彼はステージへと歩きだした。


 その時の私には、自分の言葉が彼にとっての「最後のひと押し」になってしまうなんて、想像もできていなかった。



 照明が落とされると、それまで響いていたざわめきが嘘のように引いていく。広い体育館が、まるごと一つの生き物になって息を呑んだかのような、濃密な静寂。


 澪は胸の前で指を組み、祈るように力を込めた。止めるべきだったのか。それとも、これでよかったのか。


 いくら自問しても答えは出ない。


 正解も分からないまま、澪はただ、ステージへ向かう佐伯くんの背中をじっと見つめていた。


 そんな葛藤を置き去りにして、最初の一音が鋭く空気を震わせた。

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