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#3 サイン

 あの発言の翌日。

 澪は目覚ましが鳴るよりも早く、ふと目を覚ました。


 カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。机の上には使い込まれた教科書と、文化祭パンフレットの下書き。見慣れた、高校時代の自分の部屋だ。


 不思議と、あの日々へ戻るようなタイムリープは起こらなかった。

 それからは放課後になるたび、音楽室へと通う日々が始まった。


 文化祭まで、あと数日。

 即席で結成されたはずのクラスバンドは、急ごしらえとは思えないほど形になりつつあった。


 澪は壁際のパイプ椅子に腰を下ろし、歌詞カードを膝に広げながら、ステージ中央に立つ佐伯くんを見つめていた。

 マイクを握る彼の横顔は、驚くほど真剣だった。


 練習を重ねるたび、その歌声はまっすぐ澪の胸に届いた。

 彼が歌い始めると、音楽室の喧騒は嘘のように静まり返る。誰もがその声に、吸い寄せられるように聞き入っていた。

 誰かの心にそっと寄り添うような、そんな響きだった。


「……どうだった?」


 曲が終わると、佐伯くんが少し不安そうにこちらを覗き込んできた。


「すごくよかった……!」


 澪が伝えると、彼は目に見えて肩の力を抜いた。


「……よかった」


「そんなに緊張してたの?」


「してたよ。反応が微妙だったらどうしようって、ずっと考えてたから」


 冗談っぽく笑ってはいるけれど、その声には少しだけ本音が混じっているようだった。


「みんなに変だって思われたら嫌だしさ」


 その言葉を聞いて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 嬉しいけれど、それ以上に怖かった。

 この先、彼を苦しめる未来が待っている。

 当時の自分は、まだそんな残酷な結末を知りもしなかった。


 休憩時間、澪は自販機で買ったスポーツドリンクを差し出した。


「はい。お疲れさま」


「ありがとう」


 ペットボトルを受け取りながら、佐伯くんは照れくさそうに笑う。

 額に滲んだ汗を手の甲で拭い、一息ついてから、彼はぽつりと言った。


「俺の声ってさ、ちゃんと届いてるかな」


 思いがけない問いかけに、澪は思わず瞬きをした。

 佐伯くんは手元のふたを指先でいじりながら、はにかむように笑った。


「いや、変なこと聞いてごめん」


「変じゃないよ」


 澪はすぐに首を振った。


「届いてるよ。少なくとも、私にはちゃんと届いてる」


 佐伯くんは驚いたように目を見開いた。

 それから、どこか困ったような、愛おしそうな顔で笑う。


「……そっか」


 その声は小さかった。

 けれどその一言だけは、どれほどの時間を経ても、決して消えない予感がした。


「篠宮さんって、本当に優しいよね」


「そんなことないよ」


「いや、あるよ」


 即答されて、澪は言葉を失った。

 佐伯くんは少しだけ、真面目な顔になる。


「俺、文化祭の話を聞いたとき、正直すごく迷ってたんだ。でも、篠宮さんが『歌ってほしい』って言ってくれたから、やってみようって思えたんだよ」


「……ありがとう」


 そう言って笑う彼を見て、胸が熱くなった。

 彼の笑顔を、自分が引き出せたことが純粋に嬉しかった。


 けれど同時に、得体の知れないざわつきが胸をかすめる。

「歌ってほしい」という一言で、この人はこれほど簡単に、自分を差し出してしまう。

 その危うさが、たまらなく不安だった。


 そのとき、音楽室の扉が開いてクラスメイトの声が響いた。


「佐伯、そろそろ次いくぞ」


「はーい」


 佐伯くんは立ち上がり、数歩歩いたところで不意に振り返った。


「澪」


 初めて名前で呼ばれた。

 一瞬、心臓が跳ねて止まったような気がした。


「今日も聴いてくれて、ありがとう」


 佐伯くんは笑っていた。

 柔らかくて、優しくて、誰もが手を貸したくなるような笑顔で。


 けれどステージへ戻る直前。彼は教室の空気を確かめるように、ほんの一瞬だけ、周囲に視線を巡らせた。


 その仕草を見た瞬間、澪の脳裏にひとつの映像が蘇った。


 ◇ ◇ ◇


 LUMiAのドキュメンタリー番組の一場面。

 楽屋でスマホを握りしめる紫音に、メンバーが呆れたように声をかける。


『またエゴサしてるの?』


『してないってば』


 紫音は慌ててスマホを伏せるけれど、隙間から見えた画面は「#LUMiA」のタグで埋め尽くされていた。


『気にしすぎると疲れるよ』


 そう言われると、紫音は困ったように笑った。


『……でも、やっぱり気になるんだ。みんながどう思っているのか』


 画面の中の彼は、笑っていた。

 優しくて、穏やかで、完璧なアイドルの顔をして。


 けれど澪は知っている。

 この数年後、彼はその笑顔を浮かべたまま、静かに壊れていく。

 誰にも、その悲鳴を気づかれないまま。


 ◇ ◇ ◇


 過去の自分が見逃していた、彼の一部。

 その欠片に、今ようやく触れた気がした。


 昔から、彼はこうだったのかもしれない。


 今度こそ、もう見逃したくない。

 優しすぎる笑顔も、期待に応えようとする癖も、嫌われることを恐れる怯えも。

 そのすべてが、彼が崩れていく前触れだったのだとしたら。


 そして明日。

 あの日が、もう一度始まる。

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