第76話 正しい道ほど、奥へ続く
第二観測点は、森の浅い丘にあった。
迷靄洞の入口から、まだ人間の足で引き返せる距離。
そこに、王都調査隊の本隊がいた。
数は十二。
測量班より多い。
盾兵が四。
槍兵が二。
白灯神官が二。
弓兵が一。
火術師が一。
指揮官らしき男が一。
そして、記録係が一。
戦うための隊だ。
だが、ただの討伐隊ではない。
全員が腰に白い縄を結んでいる。
退路を見失わないための命綱。
さらに、先頭の盾兵が白い粉を床に落としながら進む準備をしている。
通った道に印をつけるつもりだ。
「学習しているな」
《はい。前回の測量班消失を受け、迷子対策を強化しています》
「面倒な連中だ」
余は白い部屋で、監視面を睨んだ。
第二観測点の中心に、指揮官が立っている。
四十前後の男。
派手ではない。
だが、目が冷たい。
冒険者ではなく、兵士だ。
「先遣測量班は戻らない」
指揮官が言った。
「つまり、あの迷宮は外周付近でも人を殺す。地図は失われた。ならば、我々で内部確認を行う」
白灯神官の一人が頷く。
「入口から深追いはしないのですね?」
「しない。目的は攻略ではない。構造把握、罠の種類、白灯への反応確認だ。危険と判断すれば撤退する」
「慎重だな」
《厄介です》
「殺しにくい」
《はい》
突っ込んでくる敵は喰いやすい。
慎重な敵は、喰いにくい。
だが、喰えないわけではない。
「影縫い大蜘蛛」
天井の奥で、大蜘蛛が脚を鳴らした。
ぎち。
「カゲヌイ」
壁の影から、小さな罠師が現れる。
「人間どもは縄で帰るつもりだ」
《帰還縄を確認》
「なら、縄を殺せ」
影縫い大蜘蛛の糸が、するすると伸びた。
黒く、太く、影に溶ける糸。
カゲヌイがその糸に骨針を通し、床の影へ縫い込む。
ただ切るのではない。
ただ絡めるのでもない。
人間の縄と、迷宮の影を、別の意味にすり替える。
《新規連携罠、構築中》
「名は」
《仮称:帰路縫い》
「よい」
帰る道を縫う。
帰っているつもりで、奥へ進ませる。
地図ではない。
今度は、退路そのものを殺す。
本隊が迷靄洞へ入った。
先頭は盾兵二人。
その後ろに白灯神官。
さらに指揮官、記録係、火術師。
後方に槍兵、盾兵、弓兵、もう一人の白灯神官。
隊列は崩れていない。
強い。
少なくとも、今までの雑な冒険者よりはずっと強い。
入口のグズが棍棒を握る。
「ギィ……」
「まだだ、グズ」
余は止めた。
「お前が出れば、あいつらはすぐに引く」
グズは不満そうに唸った。
《理解率、中》
「待て。入口で殺すな。奥で喰う」
指揮官が手を上げた。
「白灯、前方照射」
白い光が通路を照らす。
湿灰がじゅう、と乾く。
影縫い大蜘蛛の細糸も、一部が焼けた。
だが、本命の糸は見せていない。
カゲヌイが壁の影を縫い、影縫い大蜘蛛の糸をその下へ潜らせている。
白灯が照らすのは表だけ。
影の裏までは照らせない。
「白粉を落とせ」
盾兵が床へ白い粉を撒く。
通った道に線が引かれる。
「これで迷わないつもりか」
《そのようです》
「なら、線を曲げる」
カゲヌイが骨針を動かした。
床に落ちた白粉の線。
その影だけが、ほんの少し横へずれる。
白粉そのものは動いていない。
だが、白灯の角度と影縫い大蜘蛛の糸が作る暗がりで、人間の目には線が曲がって見える。
指揮官はすぐ気づいた。
「止まれ」
隊列が止まる。
「線が曲がったように見えた。白灯、足元を強く照らせ」
白灯が床を照らす。
影が薄くなる。
カゲヌイの縫い目が見えかけた。
「引け」
余が命じる。
カゲヌイが影糸を抜く。
ただの白粉の線に戻る。
指揮官はしばらく睨んでいたが、やがて言った。
「幻惑系の罠がある。線と縄を信用しすぎるな」
「厄介な男だな」
《はい》
だが、完全には防げない。
疑えば進みが遅くなる。
進みが遅くなれば、迷宮の中にいる時間が増える。
時間が増えれば、こちらの手数が増える。
「灰噛みネズミ。後方の縄を噛め。ただし切るな」
《ソウル6消費》
三匹の灰噛みネズミが壁際を走る。
狙いは最後尾の弓兵の腰縄。
ぷつん、と切れば気づかれる。
だから、繊維を半分だけ噛む。
ほつれさせる。
弱くする。
そこへ影縫い大蜘蛛の糸を一本、混ぜる。
人間の縄に、迷宮の糸が入った。
帰路縫いが始まった。
隊は、ゆっくり進んだ。
罠を警戒し、白灯で照らし、粉を落とし、縄を確認する。
だが、少しずつ、ほんの少しずつ、道がずれていく。
本当なら左へ曲がる通路。
人間の目には、まっすぐに見える。
まっすぐ進んだはずの道。
実際には、影縫い大蜘蛛の巣の内側へ入っている。
壁の位置が変わったわけではない。
人間の足元の影が、踏むべき場所を間違えさせているのだ。
記録係が羊皮紙に線を引く。
「入口から三十七歩、右に緩やかな曲がり」
「違う」
余は笑った。
「そこは左だ」
記録係は知らない。
自分の地図が、もう嘘を描いていることを。
カゲヌイが壁の影を縫う。
影縫い大蜘蛛が天井から糸を降ろす。
その糸は隊列の影に絡み、足をほんの半歩ずつずらす。
半歩。
また半歩。
それだけで、隊列は帰り道から外れる。
白灯神官が不安げに言った。
「隊長、霧が濃くなっています」
「撤退基準の半分だ。まだ進む」
その瞬間、マネが声を出した。
先ほど殺した測量士の声。
「――隊長、第二観測点から追加指示です。入口右の空洞を確認せよ」
隊列が止まる。
指揮官の目が細くなった。
「音真似だ。無視しろ」
即答。
「ちっ」
《効きませんでした》
「だが、音を聞いた」
《はい》
「なら十分だ」
マネの声に反応して、後方の弓兵が一瞬だけ振り返った。
その一瞬、腰縄が張る。
さっき灰噛みネズミがほつれさせた場所に力がかかる。
ぷつ。
切れた。
だが、切れた縄の先には、影縫い大蜘蛛の糸が繋がっている。
弓兵は気づかない。
自分の縄がまだ繋がっていると思っている。
だが、その縄が繋がっている先は入口ではない。
迷宮の影だ。
「一人目」
余は低く言った。
「後方を分ける」
カゲヌイが影糸を引いた。
弓兵の足元の影が、隊列から半歩遅れる。
さらに半歩。
さらに一歩。
白灯の範囲から外れる。
その瞬間、影縫い大蜘蛛が天井から落ちた。
音はない。
糸が首に絡む。
腕に絡む。
弓に絡む。
影を壁へ縫う。
弓兵の口が開く。
叫ぶ前に、糸が口を塞いだ。
湿灰が足元から上がる。
《侵入者一名捕縛》
「殺せ」
《処理》
弓兵は壁に縫いつけられたまま、湿灰に喉を塞がれて死んだ。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:32》
隊列の後方で、白灯神官が振り返る。
「弓兵がいない!」
指揮官が即座に叫んだ。
「全員停止! 背中合わせ!」
速い。
反応が速い。
だが、もう遅い。
止まったことで、全員の影が床に濃く落ちた。
影縫い大蜘蛛にとっては、最高の足場だ。
「カゲヌイ」
小さな罠師が、両手の骨針を床に突き刺した。
《影縫い罠巣、展開》
隊列の足元に、黒い縫い目が走る。
盾兵の影。
槍兵の影。
記録係の影。
それぞれが床に縫われる。
「足が動かん!」
「白灯を下へ!」
白灯神官が床を照らす。
縫い目が焼ける。
だが、焼けた隙間に影縫い大蜘蛛の糸が落ちる。
糸を焼けば、影が残る。
影を焼けば、糸が残る。
二体の連携が、人間の対処を一拍ずつ遅らせる。
「火術師!」
指揮官が叫んだ。
「通路ごと焼け!」
火術師が杖を構える。
まずい。
火は蜘蛛にもカゲヌイにも相性が悪い。
「苔灰ゴブリン、前へ」
《ソウル15消費》
湿灰から、苔灰ゴブリンが這い出した。
森灰をまとった緑黒い小鬼。
火術師が炎を放つ。
苔灰ゴブリンは避けない。
燃える。
だが、燃えた体から森灰混じりの煙が広がった。
白灯とは違う、湿った灰の煙。
火術師が咳き込む。
「煙が……!」
「今だ」
影縫い大蜘蛛が糸を吐いた。
カゲヌイがその糸を影へ縫う。
火術師の杖を持つ手が、床の影に縫いつけられた。
炎の向きが逸れる。
盾兵の背中を焼いた。
「ぎゃああ!」
《侵入者一名重傷》
「グズ」
「ギィィ!」
待っていたグズが、脇道から飛び出した。
棍棒を両手で振る。
重傷の盾兵の頭を潰す。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:35》
隊列が崩れた。
ここからだ。
迷宮は、整った隊列が嫌いだ。
だが、崩れた人間は好きだ。
喰いやすいからだ。
指揮官は、それでも冷静だった。
「撤退! 縄を辿れ! 記録係、地図を守れ!」
記録係が羊皮紙を抱えて走る。
しかし、その地図はもう嘘だ。
さらに、帰還縄も嘘だ。
彼らが辿る縄は入口へ続いていない。
影縫い大蜘蛛の糸にすり替えられ、カゲヌイによって別の通路へ縫いつけられている。
撤退しているつもりで、奥へ進む。
白灯神官の一人が叫んだ。
「おかしい! 入口が遠い!」
「縄を確認しろ!」
「繋がっています!」
「なら進め!」
進むな。
そう思いながら、余は笑った。
いや、進め。
もっと奥へ。
記録係が転んだ。
灰噛みネズミが足元を噛んだのだ。
羊皮紙が落ちる。
カゲヌイが影から現れ、骨針で地図を床へ縫いつけた。
記録係が悲鳴を上げる。
「地図が!」
影縫い大蜘蛛が天井から降り、地図ごと記録係を覆った。
糸で包む。
影で縫う。
地図と人間を、同じ繭にする。
「よい趣味だ」
《記録係、捕縛》
「殺せ。地図も一緒に潰せ」
湿灰が繭を飲み込む。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:22》
《敵性地図、破壊》
指揮官の表情が初めて歪んだ。
「この迷宮……記録係を優先している」
気づいたか。
だが遅い。
「白灯二番、全出力! 影を消せ!」
二人目の白灯神官が、小型ではない中型白灯を取り出した。
強い光。
通路の影が一気に薄くなる。
カゲヌイが壁際へ後退した。
影縫い大蜘蛛の糸も白く浮かび上がる。
《影縫い罠巣、機能低下》
「ここで切り札を使わせるか」
《追跡者の起動を推奨します》
「まだだ」
追跡者は指揮官に使う。
白灯神官には別のものをぶつける。
「アンデッドゴブリン、三体」
《ソウル30消費》
先ほど死んだ盾兵の血。
古いゴブリン骨。
湿灰。
それらが混ざり、三体のアンデッドゴブリンが這い出した。
白灯を浴び、皮が焼ける。
だが止まらない。
死んでいるからだ。
神官が叫ぶ。
「来るな!」
アンデッドゴブリンが燃えながら突っ込む。
一体は盾兵に斬られる。
一体は白灯で頭を焼かれる。
だが最後の一体が、神官の足にしがみついた。
そこへ、影縫い大蜘蛛の糸。
カゲヌイの影針。
神官の影が床へ縫われる。
白灯が落ちた。
グズの棍棒が、それを叩き割る。
白い光が消えた。
《白灯一基、破壊》
「よし」
影が戻る。
迷宮の暗さが戻る。
カゲヌイが、再び床を縫い始める。
影縫い大蜘蛛が、天井を支配する。
ここからは、迷靄洞の時間だ。
残った人間は、指揮官、白灯神官一人、槍兵二人、盾兵一人、火術師。
六人。
半分になった。
それでも指揮官は撤退を諦めていない。
「全員、俺の声だけ聞け! 道を見るな! 縄を見るな! 俺の左手の方向へ進め!」
「ほう」
余は感心した。
「目と縄を捨てたか」
《音声指揮へ切り替えています》
「なら、音を殺す」
マネが、指揮官の声を真似た。
「――右だ! 右へ進め!」
指揮官本人が叫ぶ。
「違う! 俺は言っていない!」
声が二つ。
人間たちの足が止まる。
一瞬でいい。
影縫い大蜘蛛の糸が、槍兵の首に絡む。
カゲヌイがその影を壁へ縫う。
槍兵は、自分の足で前へ進もうとして、首だけ後ろに残った。
ごきり。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:28》
もう一人の槍兵が叫んで糸を切ろうとする。
その手首を灰噛みネズミが噛む。
剣が落ちる。
グズが棍棒で叩き潰す。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:27》
火術師が最後の炎を放とうとした。
だが、苔灰ゴブリンの燃え残りが足元にまとわりつく。
湿った灰が靴に絡む。
火術師は火を出す前に転んだ。
影縫い大蜘蛛が糸で包み、天井へ吊る。
「燃える前に湿らせろ」
《湿灰噴出》
火術師の口と鼻に湿灰が詰まる。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:41》
残り三人。
指揮官。
盾兵。
白灯神官。
指揮官は剣を抜いた。
こちらを見ている。
正確には、監視面越しの余を見ているわけではない。
だが、迷宮の意思を探している。
「ロードがいるな」
その言葉に、余は少し黙った。
「ほう」
「この罠の動きは、ただの魔物ではない。判断している。記録を潰し、白灯を潰し、帰路を潰している」
指揮官は血まみれの顔で笑った。
「ならば、ここは成長中の迷宮だ。危険度C、いや、今後Bに届く」
《敵が迷宮評価を更新》
「持ち帰らせぬ」
余は静かに言った。
「その判断は、誰にも渡さぬ」
指揮官が盾兵に言う。
「神官を連れて走れ。俺が残る」
「隊長!」
「命令だ」
いい判断だ。
だが、遅い。
「追跡者」
《起動しますか》
「今だ」
《ソウル80消費》
湿灰の底で、鎧が鳴った。
がしゃん。
落武者のような影が、通路の奥に立つ。
錆びた太刀。
青白い片目。
指揮官の顔が強張る。
「まだ、切り札を残していたか」
「当然だ」
追跡者が歩く。
盾兵が神官を連れて走る。
だが、影縫い大蜘蛛の糸が足元を縛る。
カゲヌイが影を縫う。
追跡者が、指揮官の横を通り過ぎた。
指揮官を無視した。
「なっ――」
「追跡者は、逃げる者を追う」
太刀が振られる。
盾兵の背中が裂けた。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:33》
白灯神官が転ぶ。
追跡者の影が覆う。
一撃。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:39》
残ったのは、指揮官だけ。
指揮官は剣を構えた。
影縫い大蜘蛛が天井で糸を引く。
カゲヌイが床の影を縫う。
グズが入口側から棍棒を担いで近づく。
追跡者が、背後から戻ってくる。
四方。
逃げ場なし。
「名を聞こうか、人間」
指揮官には聞こえない。
だが、彼はなぜか答えた。
「王都迷宮対策隊、第三分隊長、ギルベルト」
「そうか」
余は小さく頷いた。
「覚えぬ」
影縫い大蜘蛛の糸が走る。
剣を持つ腕を縛る。
カゲヌイが影を床へ縫う。
グズの棍棒が膝を砕く。
追跡者の太刀が、首を落とした。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:52》
静かになった。
通路には、白粉の線が残っていた。
だが、その線は途中で曲がり、途切れ、影縫い大蜘蛛の糸に飲まれている。
帰還縄も、もう入口へは続いていない。
地図もない。
記録係もいない。
報告する口もない。
王都本隊は、迷靄洞の中で消えた。
白い部屋に収支が浮かぶ。
⸻
【王都調査本隊迎撃戦】
撃破:
弓兵
盾兵二名
記録係
白灯神官二名
槍兵二名
火術師
分隊長ギルベルト
ほか二名
獲得ソウル:
+32
+35
+22
+39
+28
+27
+41
+33
+52
+67
消費:
灰噛みネズミ生成:−6
苔灰ゴブリン生成:−15
アンデッドゴブリン三体:−30
影縫い罠巣展開:−18
帰路縫い維持:−22
追跡者起動:−80
糸・影糸補修:−12
取得:
帰還縄
中型白灯片
王都迷宮対策隊徽章
分隊長の剣
焼けた白粉袋
破損地図板
火術師の杖片
影縫い糸に絡んだ白灯灰
戦術更新:
帰路縫い
影縫い罠巣・実戦型
現在ソウル:おおよそ増加
⸻
「具体数が雑ではないか」
《戦闘中の湿灰吸収が継続しており、確定値算出中です》
「ならよい」
余は監視面を見た。
影縫い大蜘蛛は、天井でじっとしている。
糸をかなり使ったのだろう。
腹が少ししぼんでいる。
カゲヌイも壁際に座り込み、骨針を抱えていた。
働いた。
間違いなく、この戦いの主役だった。
「影縫い大蜘蛛、カゲヌイ」
二体が、こちらを見る。
「よくやった」
影縫い大蜘蛛が脚を鳴らす。
カゲヌイが小さく頭を下げる。
《影縫い大蜘蛛と影縫い罠師カゲヌイの連携適性、大幅上昇》
《迷宮構造に“影縫い罠巣”が定着しつつあります》
「定着?」
《一時罠ではなく、迷靄洞の基本構造として組み込めます》
「つまり、これからの迷靄洞は」
《道そのものが敵の影を縫う迷宮になります》
余は笑った。
それはいい。
非常にいい。
地図を殺すだけではない。
帰路を殺す。
隊列を殺す。
判断を殺す。
Cランクになった迷靄洞にふさわしい進化だ。
その時、森糸通信が震えた。
『迷靄洞』
「見ていたか、フィルエ」
『見てた。王都の本隊、戻らなかった』
「当然だ」
『でも、これで王都はもっと本気になる』
「分かっておる」
『あと、白磁庭園の気配も動いた』
余は笑みを消した。
「白磁か」
『うん。人間の本隊が消えたのを、たぶん見てる』
「やはり観測していたか」
『次は、人間と白磁が別々に来るとは限らない』
白い部屋が、少し冷えた。
人間の王都。
白磁庭園。
どちらも敵。
もし、その二つが同じ方向を向けば、厄介だ。
だが、今の迷靄洞には影縫い大蜘蛛がいる。
カゲヌイがいる。
グズがいる。
マネがいる。
追跡者がいる。
フィルエもいる。
もう、ただ怯えるだけのEランクではない。
「なら、次は両方まとめて喰う準備をする」
《方針を確認》
「入口から第二層まで、影縫い罠巣を固定化しろ」
《了解》
「帰還縄、白粉、地図板は解析。人間がどうやって迷わないようにしているか、全部学べ」
《了解》
「そして学んだ上で、次はもっと綺麗に迷わせる」
余は監視面の中の死体を見下ろした。
白粉の線。
切れた縄。
破れた地図。
そのすべてが、影縫い大蜘蛛の糸に絡まっている。
「人間は、道具で迷宮に勝とうとした」
カゲヌイが、その地図板の破片に骨針を刺す。
影縫い大蜘蛛が、その上から糸を重ねる。
地図の線が、黒い糸に潰れて見えなくなる。
「だが、ここでは道具も迷う」
迷靄洞の奥で、糸が張られる音が広がった。
ぎち。
ぎちぎち。
影が縫われ、道が嘘をつき、帰路が奥へ繋がっていく。
余は白い部屋で、静かに笑った。
「次に来る者には、入口すら正しく見せぬ」




