第63話 新聞便には牙がある
灰冠のロードからの投函は、しばらく開かなかった。
いや、正確には開けなかった。
白い部屋の中央に、黒灰色の封筒が浮いている。
ダンジョン新聞の紙面から剥がれ落ちたような、薄い封筒。
差出人は、灰冠のロード。
交流欄では何度も見た名だ。
だが、個別投函は初めてだった。
「管理音声」
《はい》
「これは安全か」
《本文のみであれば危険度は低いです》
「本文のみであれば、という言い方が嫌だな」
《添付物、設計図、素材片、契約印などが同封されている場合、危険性があります》
「新聞便ってそういうものも送れるのか!?」
《小型の非生物素材、設計図、魔術印、契約文などは送付可能です。大型物、生物、魔物本体は送れません》
「そんな大事なこと先に言え!!」
《今、説明しました》
「遅いわ!」
危ない。
危なすぎる。
余は今まで、新聞をかなり気楽に読んでいた。
交流欄で好き勝手に返事もしていた。
だが、ロード同士のやり取りとは、ただの文通ではないらしい。
新聞便。
ロードだけが使える情報と物の細い道。
そこには当然、罠も混ざる。
人間だけでなく、ロードも牙を持っている。
当たり前だ。
当たり前なのに、余は少し油断していた。
「……ロード同士の交流、全然ほのぼのしてないではないか」
《はい》
「はいじゃない」
余はしばらく封筒を睨んだ。
封筒は動かない。
だが、動かない罠ほど嫌なものはない。
「管理音声。対策は」
《投函処理室の作成を推奨します》
「またソウルを使う話か」
《必要ソウル:35》
「高い!」
《新聞便由来の添付物、契約印、呪印、素材片を本体領域から隔離して処理できます》
「作る」
《ソウル35消費》
《現在ソウル:220》
白い部屋の外。
偽核室のさらに手前に、小さな横穴が生まれた。
白い部屋とは繋がっていない。
コアにも近くない。
湿灰床の端に作った、ただの石部屋。
中央には、黒い石の台。
その上に、新聞便を開くための受け皿がある。
投函処理室。
名前は地味だが、今の余にはかなり重要だ。
「以後、個別投函はここで開く」
《はい》
「本物の白い部屋に直接出すな」
《了解しました》
「今まで直接読んでいたの、かなり危なかったのでは?」
《危険性はありました》
「言え!!」
《申し訳ありません》
余は、少しだけ震えながら灰冠の封筒を投函処理室へ送った。
黒い石台の上で、封筒が静かに開く。
⸻
【“灰冠のロード”より】
“湿った若造。
まず一つ覚えろ。
新聞に載った迷宮は、餌場ではなく市場になる。
人間は君を攻略対象として見る。
ロードは君を取引対象として見る。
弱いロードは君の技を欲しがる。
強いロードは君が誰の下につくかを見る。
そして、どちらでもない者は、君を試す。
未承認添付は開くな。
契約印に触るな。
親切な設計図ほど疑え。
君がラウゼンに見られたなら、次に来るのは人間だけではない”
⸻
「……親切だな」
《はい》
「親切すぎて怖いな」
《はい》
灰冠の文章には、添付物はなかった。
ただの忠告。
それでも、十分重い。
市場。
取引対象。
誰の下につくか。
余は白い部屋で、ゆっくり息を吐いた。
今までは、人間に攻略されるかどうかばかり考えていた。
だが、ロード社会もまた戦場だ。
新聞を読む者は、全員ロード。
つまり全員、迷宮の主。
喰われる側ではなく、喰う側の存在。
そんな連中が、余を見始めた。
「管理音声」
《はい》
「余は今、かなり面倒な場所に立っているな」
《はい》
「分かっておる!」
その時、別の投函が来た。
差出人。
針骨回廊。
交流欄でラウゼン情報を求めていたロードだ。
「……早いな」
《はい》
「灰冠が言った直後にこれか」
《確認しますか》
「投函処理室で開ける。ただし、添付物があれば先に表示しろ」
《了解しました》
針骨回廊の封筒は、灰色ではなく、黄ばんだ骨の色をしていた。
紙なのに、端が硬い。
投函処理室の石台に置くと、かちり、と乾いた音がした。
⸻
【“針骨回廊”より】
“迷靄洞の若きロードへ。
貴殿は査定官ラウゼンと接触したと聞く。
当回廊は、過去にラウゼンの観測隊と交戦経験がある。
対価として、対査定官用の設計図を送る。
代わりに、外周誘導路の形成条件を共有されたい。
添付:骨縫い杭・簡易設計図”
⸻
《未承認添付を確認》
「来たな」
《はい》
「灰冠の言う通りすぎるだろ」
《開封しますか》
「するわけないだろ!」
《破棄しますか》
余は少し考えた。
破棄すれば安全だ。
だが、針骨回廊が何を仕込んだか分からない。
見ずに捨てれば、次も同じように来る。
なら、調べる。
ただし、本物の場所では開けない。
「偽核室に運べ」
《はい》
「偽核の残骸を中央に置け。そこに開かせる」
《了解しました》
偽核室はまだ臭かった。
ゴブリンの小便と胞子と湿灰の嫌な匂いが残っている。
正直、近づきたくない。
だが、罠を開くにはちょうどいい。
偽の重要施設。
見せたい嘘。
そこへ、針骨回廊の添付物を移した。
「開封」
《実行》
骨色の紙が裂けた。
中から出てきたのは、設計図ではなかった。
いや、表面は設計図だった。
細い骨杭の図。
足止め用の針。
影に刺す楔。
いかにも便利そうな線が並んでいる。
だが、その裏側から、白い針が生えた。
一本。
二本。
十本。
紙の繊維がほどけ、針になり、足のように動き出す。
「うわっ、やっぱり動いた!」
《所在針です》
「何それ怖い!」
《受領した迷宮の核位置、主力魔物、魔力流路を探る偵察呪具と推定》
「殺せ!」
《非生物のためソウル取得は見込めません》
「ソウルとかどうでもいいから殺せ!」
所在針は、偽核室の床を這った。
白い針が、偽核の残骸へ向かう。
やはり。
核に似せた反応へ食いついた。
針は偽核石に刺さり、震える。
何かを探っている。
余の本物の白い部屋ではない。
コアでもない。
偽物だ。
「よし、騙された」
《はい》
だが、安心するには早かった。
所在針のうち三本が、偽核から外れた。
壁へ向かう。
投函処理室の方ではない。
入口の方でもない。
湿灰床の流れ。
外周誘導路に繋がる湿りの筋へ向かっている。
「まずい」
《外周誘導路の起点を探知される可能性》
「大蜘蛛!」
《反応あり》
「針の影を縫え」
《影が極小です》
「なら針が刺した穴を縫え!」
《実行》
火影縫い大蜘蛛の糸が、偽核室の天井から落ちる。
針そのものではなく、針が床に開けた小さな穴。
そこへ糸を通す。
穴と穴を縫う。
所在針の動きが鈍る。
しかし、まだ止まらない。
「ポフキノコ、胞子」
《胞子放出》
ポフキノコの胞子が偽核室に満ちる。
湿気を吸った針が、きしきしと音を立てる。
針骨回廊の呪具は乾いた骨の迷宮から来たものだ。
湿りに強くない。
さらに、ゴブリンの小便臭が染みた偽核室。
最悪の環境だ。
針の動きが止まり始める。
「マネ」
「ギィ?」
「針の音を真似ろ」
「チ、チチチ……」
マネが所在針の擦れる音を真似た。
針が反応した。
仲間の音と誤認したのか、三本がマネの音の方へ向かう。
そこは偽核室の隅。
湿灰を厚く盛った処理溝だ。
「グズ」
「ギィィ」
泥門番ゴブリン・グズが、偽核室の入口に棍棒を置いた。
中には入らない。
門番だからだ。
門を越えようとする針だけを、門柱のような棍棒で叩き潰す。
白い骨針が砕けた。
《所在針の無力化完了》
《取得:針骨片》
《解析可能》
「ふう……」
余は白い部屋で息を吐いた。
危なかった。
本当に危なかった。
もし白い部屋で開けていたら。
もし偽核室がなかったら。
もし灰冠の忠告を読む前だったら。
針骨回廊に、余の本当の位置を少しは掴まれていたかもしれない。
「……ロード同士の交流、最悪では?」
《はい》
「はいじゃない」
白い部屋に、新しい表示が浮かんだ。
⸻
【素材解析】
針骨片
用途候補:
・針返し床
・偽道杭
・影穴縫い補助
・投函罠識別精度向上
即時開放可能:
針返し床
効果:
踏み込んだ対象の足裏、靴底、杖先、測定針などに返し針を立て、離脱を遅らせる。
必要ソウル:25
⸻
「作る」
《ソウル25消費》
《現在ソウル:195》
偽核室と入口の間。
湿灰床の一部に、細かい骨針が混ざった。
見た目は変わらない。
だが、踏み込んだものを返しで引っかける。
強い罠ではない。
殺す罠でもない。
だが、半歩遅らせる罠だ。
半歩。
今の迷靄洞では、それで十分に人が死ぬ。
余は、針骨回廊へすぐ返事をしなかった。
代わりに、交流欄へ短く書いた。
⸻
・“迷靄洞”:針骨回廊より未承認添付。所在針を確認。骨は湿りに弱い
⸻
交流欄が、一瞬止まった。
次に、ざわめくように流れ始めた。
⸻
・“朽縄井戸”井守:おやおや、若いのに公開したねえ
・“玻璃宮の姫”:未承認添付は礼を欠きますわ。まあ、引っかからなかったのはお見事です
・“名なしの苔階段”:怖いので添付物は開けないことにします
・“針骨回廊”:誤解だ。試験用の簡易呪具にすぎない
・“灰冠のロード”:湿った若造、最初の返しとしては悪くない
⸻
「針骨回廊、言い訳が早いな」
《はい》
「信用は」
《低下しています》
「よし」
ロード社会には、武力だけでなく評判がある。
未承認添付で若いロードを探ろうとした。
それを公開された。
針骨回廊は面白くないだろう。
だが、こちらも黙っていれば舐められる。
弱いと思われれば、次々と針が来る。
「管理音声」
《はい》
「余は今、喧嘩を売ったか?」
《はい》
「……だよな!」
怖い。
非常に怖い。
針骨回廊がどの程度の迷宮かも知らない。
だが、やられたまま黙るよりはいい。
余はもう、ただ震えるだけのEランクではない。
Dランク上位。
Cランク移行審議。
泥門番もいる。
なら、少しは牙を見せねばならない。
その時、外縁が震えた。
《外周に人間反応》
「ラウゼンか?」
《違います。小規模。三名。装備軽量》
白い部屋に外の様子が映る。
雨の前の暗い森。
封鎖線のさらに外側から、三人の人間が近づいていた。
一人は大きな鉤槍。
一人は短弓。
一人は革袋と刃物を大量に下げている。
冒険者というより、狩人。
いや、素材屋か。
「何だ、あいつら」
《会話取得》
外の音が拾われる。
「本当に出たんだな、進化ゴブリン」
「泥門番型だってよ。棍棒の芯だけでも売れる」
「ラウゼンの封鎖区域だぞ」
「だから今だろ。正式討伐が入る前に拾うんだよ」
「核は狙わない。門番の欠片だけ取って逃げる」
余は、白い部屋で固まった。
「……余のグズを、素材扱いしたな?」
《はい》
「棍棒の芯だけでも売れる、と言ったな?」
《はい》
静かに。
とても静かに、腹の奥が冷えた。
人間はソウルだ。
侵入者は餌だ。
それは分かっている。
だが、配下を素材として見られるのは、別の不快感があった。
グズは馬鹿だ。
低知能継続だ。
小便臭いゴブリンから進化した門番だ。
だが、余の門番だ。
「管理音声」
《はい》
「あいつらを喰う」
《はい》
「ただし、グズを釣らせるな」
《了解しました》
素材狩りの三人は、慎重だった。
核を狙わない。
奥へ入らない。
入口に近づきすぎない。
鉤槍で引っかけ、門番を外へ釣り出すつもりだ。
賢い。
だが、ラウゼンほどではない。
鉤槍の男が、入口の湿灰床ぎりぎりに肉を投げた。
獣の肉。
血がついている。
グズが唸る。
「ギィィ……」
「待て」
余は命じた。
「門を越えた獲物だけを潰せ。外の肉は見るな」
「ギ……」
グズの棍棒が震える。
だが、動かない。
よし。
門番になった。
昔のグズなら、たぶん肉に飛びついていた。
それだけで釣られていた。
今は違う。
馬鹿は馬鹿だが、門番の馬鹿だ。
「出てこねえな」
「賢くなってやがる」
「なら、こっちだ」
鉤槍の男が、長い鎖付きの鉤を投げた。
狙いはグズではない。
グズの棍棒。
泥と石で太くなった門柱棍棒に、鉤が引っかかる。
「引け!」
三人が同時に引いた。
グズの腕が外へ引かれる。
足元の湿灰床が盛り上がる。
グズは踏ん張った。
「ギィィィ!」
「グズ、出るな!」
余の声に、グズはさらに踏ん張る。
鉤槍の男が叫ぶ。
「腕だけでも切れ!」
刃物持ちが前へ出た。
早い。
短い曲刀を二本持っている。
入口のぎりぎりで、グズの手首を狙うつもりだ。
「針返し床、起動」
《はい》
刃物持ちの足が、湿灰床を踏んだ。
その瞬間、靴底に小さな骨針が立つ。
「っ!?」
深くは刺さらない。
だが抜けない。
一歩、遅れる。
その一歩で、グズの棍棒が自由になった。
「潰せ」
「ギィィィッ!」
泥門番の棍棒が横に振られた。
刃物持ちは両刀で受けた。
腕は立つ。
ただの雑魚ではない。
だが、足が抜けない。
針返し床が靴底を掴んでいる。
湿灰が膝へ絡む。
門を越えた。
なら、グズの一撃が重くなる。
曲刀ごと、腕が折れた。
次の一撃で、頭が潰れた。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:41》
《現在ソウル:236》
「一人」
短弓の男が即座に矢を放った。
グズの肩に刺さる。
《グズ軽傷》
「下がれ!」
鉤槍の男が叫ぶ。
「こいつ、床が変わってる!」
「死体だけでも!」
短弓の男が、死んだ仲間の腰袋を狙った。
素材袋。
刃物。
道具。
人間は、やはり物を捨てるのが遅い。
「マネ」
「ギィ?」
「死んだ奴の声」
マネが、潰れた刃物持ちの声を真似た。
「……袋、取れ」
短弓の男が止まった。
「今、言ったか?」
「馬鹿、死んでる!」
「でも――」
迷った。
その迷いで、外周誘導路が足を曲げる。
短弓の男は入口へ向かうつもりなどなかった。
ただ、落ちた袋を拾おうとしただけ。
だが、その袋は湿灰床の上。
余の門の内側。
「ポフキノコ」
《胞子放出》
薄い胞子が流れる。
雨前の湿気と混ざり、足元を白く曇らせる。
短弓の男が袋を掴む。
同時に、針返し床が膝を捕まえた。
「しまっ――」
ミルが暗がりから見た。
一瞬。
短弓の男の目が、入口の奥に吸われる。
その一瞬で、グズが踏み込む。
棍棒が、短弓の胸を砕いた。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:38》
《取得:短弓、素材袋》
《現在ソウル:274》
「二人」
鉤槍の男は逃げた。
早かった。
仲間を助けようともしなかった。
素材袋も捨てた。
正しい判断だ。
だが、外には赤泥蟻穴がいる。
地面が割れた。
赤泥蟻が、逃げる男の足に噛みつく。
「うわあああっ!」
男は鉤槍で蟻を叩いた。
片足を血まみれにしながら、森の方へ転がる。
死んではいない。
赤泥蟻も深追いしなかった。
外で倒れきらなければ、蟻穴の餌にもならない。
「逃げたか」
《はい》
「追うな」
《はい》
逃げた一人は、人間側へ話を持ち帰る。
泥門番は釣れない。
入口の床が刺す。
声を真似る魔物がいる。
視線型もいる。
情報が増える。
だが、全員殺そうとしてグズを外へ出すよりはいい。
今は、門を守る方が大事だ。
「グズ」
「ギィィ……」
「よく出なかった」
グズは、意味が分かっているのか分からない顔で棍棒を持ち上げた。
肩に刺さった矢を、雑に引き抜く。
血が出る。
だが浅い。
《グズ軽傷。泥門番特性により、湿灰床上で回復促進》
「よし」
門番は守れた。
素材狩りは二人喰った。
針骨片も罠に変えた。
今日だけで、ロードの罠と人間の欲を両方喰ったことになる。
◇
戦闘後の収支が浮かぶ。
⸻
【本日収支】
投函処理室構築:−35
針返し床構築:−25
素材狩り撃破:+79
取得:針骨片、短弓、素材袋、曲刀片
グズ軽傷
所在針無力化:ソウル取得なし
現在ソウル:274
⸻
「悪くない」
《はい》
「ロードの罠も、人間の素材狩りも、どちらも餌になる」
《はい》
だが、油断はできない。
針骨回廊は、余に恥をかかされたと思っているだろう。
人間側には、素材狩りの生還者が情報を持ち帰る。
ラウゼンはそれを聞く。
そして、必ず次の手を考える。
さらに、灰冠の言う通りなら、他のロードも余を見ている。
新聞に載るということは、目立つということ。
目立つということは、餌が来るということ。
餌が来るということは、罠も来るということだ。
◇
夜、ダンジョン新聞が震えた。
⸻
【地域短報】
・迷靄洞、未承認添付による所在針を無力化
・針骨回廊との間に軋轢発生
・迷靄洞入口にて無許可素材狩り二名が未帰還
・泥門番ゴブリン、釣り出しに抵抗。入口防衛能力の上昇を確認
・迷靄洞、Cランク移行審議中にもかかわらず周辺接触が増加
⸻
交流欄が流れる。
⸻
・“朽縄井戸”井守:一日でロードと人間を両方噛んだか。若いねえ
・“玻璃宮の姫”:投函処理室を作ったのは正解ですわ。新聞便はお茶会ではありませんもの
・“針骨回廊”:迷靄洞は礼を知らぬ。簡易試験を攻撃と誤認しただけだ
・“赤泥蟻穴”:逃げた一匹、足を噛んだ。肉は少なかった
・“灰冠のロード”:湿った若造。ようこそ、ロード社会へ
⸻
針骨回廊の言い訳は、やはり気に入らない。
余は短く返した。
⸻
・“迷靄洞”:礼を知る贈り物は、核の匂いを嗅がない
⸻
交流欄が少し止まった。
次に、朽縄井戸が笑うような文を流した。
⸻
・“朽縄井戸”井守:これは一本取られたねえ、針骨
⸻
針骨回廊からの返事はなかった。
だが、沈黙は終わりではない。
むしろ、次があるということだ。
そして、灰冠から個別投函が来た。
今度は、添付物なし。
⸻
【“灰冠のロード”より】
“返し方は悪くない。
だが覚えておけ。
針骨回廊は強くはないが、しつこい。
ラウゼンは強くはないが、正しい。
赤泥蟻穴は賢くはないが、近い。
君の周りには、面倒な牙が三つある。
次に必要なのは、敵を一体ずつ相手にしないことだ。
牙同士を噛ませろ。
その方法を知りたいなら、こちらの条件を聞け”
⸻
「条件、か」
《はい》
「ついに来たな」
《はい》
忠告だけでは終わらない。
灰冠もロードだ。
善意だけで動くはずがない。
条件がある。
対価がある。
取引がある。
それでも、灰冠の情報は使える。
針骨回廊。
ラウゼン。
赤泥蟻穴。
三つの牙を、それぞれ相手にしていたら足りない。
ソウルも、時間も、手札も。
なら、噛ませる。
敵を餌にするだけではない。
敵同士を餌場に引きずり込む。
「管理音声」
《はい》
「灰冠への返事はまだだ」
《はい》
「条件を聞く前に、こちらの条件を決める」
《どのような条件ですか》
「余のコアに触れないこと」
《はい》
「迷靄洞の外周誘導路の完全条件を渡さないこと」
《はい》
「グズを素材扱いしないこと」
《……はい》
「何だ、その間は」
《三つ目は交渉条件としては感情的です》
「うるさい。余の門番だ」
《記録します》
余は、入口に立つグズを見た。
泥門番ゴブリン。
低知能継続。
だが、余の門を守る者。
白い部屋の外には、偽核室。
投函処理室。
針返し床。
湿灰床。
外周誘導路。
赤泥蟻穴との餌場境界。
少しずつ、迷靄洞は複雑になっている。
最初は、ゴブリンを十匹ずつ適当に置いただけだった。
今は違う。
何を見せ、何を隠し、何を喰わせ、何を噛ませるか。
それを選ぶ。
怖い。
面倒だ。
だが、悪くない。
「灰冠に返せ」
《はい》
⸻
【“迷靄洞”より】
“条件を聞く。
だが、余の核に触れる話なら破る。
外周誘導路の完全条件は渡さぬ。
それでもよければ話せ”
⸻
返事は、すぐには来なかった。
その沈黙の間に、外で雨が降り始めた。
湿灰床が、雨音を吸う。
グズが門に立つ。
ポフキノコが胞子を膨らませる。
火影縫い大蜘蛛が、濡れた影を静かに縫う。
そして新聞が、ゆっくり震えた。
⸻
【“灰冠のロード”より】
“いいだろう。
まずは取引だ。
君に、ロード社会の最初の敵を教える。
そいつは針骨ではない。
ラウゼンでもない。
赤泥蟻穴でもない。
君の成長を見て、君の迷宮を買おうとするロードだ”
⸻
余は、思わず声を出した。
「買う?」
《はい》
次の文が表示される。
⸻
“ダンジョンは攻略されれば消える。
だが、攻略以外でも消える方法がある。
譲渡契約だ。
若いロードを守ると言って近づき、
契約印で迷宮の所有権を奪う者たちがいる。
新聞便で契約書が来たら、絶対に触るな”
⸻
余は、白い部屋で固まった。
人間は外から攻める。
針骨は中を探る。
赤泥蟻穴は外周を噛む。
だが、契約で迷宮を奪うロードがいる。
攻略ではなく、譲渡。
戦わずに消える。
「……最悪だな」
《はい》
灰冠の最後の一文が浮かんだ。
⸻
“そして、その契約書はもうすぐ届く。
君が新聞に載ったからだ”
⸻
雨音が強くなる。
白い部屋の中央で、ダンジョン新聞がもう一度震えた。
新しい封筒。
差出人は、美しい金文字で記されていた。
⸻
【“白磁庭園”より】
“新興迷宮・迷靄洞のロード様へ。
保護契約のご案内”
⸻
余は、ゆっくり笑った。
喉の奥が少し震えていた。
怖いからだ。
だが、それだけではない。
「管理音声」
《はい》
「投函処理室を閉じろ」
《はい》
「誰も触るな」
《了解しました》
「それから、灰冠に礼を言うな。まだ借りにするな」
《はい》
白磁庭園。
保護契約。
美しい文字。
甘い言葉。
だが、余にはもう分かる。
甘い餌には針がある。
親切な設計図には牙がある。
そして保護契約には、たぶん首輪がある。
「よい」
余は白い部屋で、新聞を見据えた。
「次は、契約を喰う」




