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28話 帰れぬ帰路

悔しさを抱えた夜ほど、頭は妙によく回る。


 眠れぬからか。


 あるいは、腹の底で何かが燃えているからか。


 白い部屋で地図を開いた余は、夜のあいだ何度も迷靄洞の導線を見直していた。


 入口。


 新小部屋。


 旧小部屋。


 湿りの溜まり。


 苔スライムの定着位置。


 ポフキノコの半開き範囲。


 鼠の走路。


 ゴブリンの待機位置。


 今までの迷靄洞は、進むほど嫌になり、戻る時にもっと嫌になる迷宮だった。


 それで間違ってはいない。


 だが、まだ“戻れる”のだ。


 嫌だが戻れる。


 乱れるが戻れる。


 その一線を、余はまだ越えられていない。


「……」


 帰れぬ帰路。


 言葉にすると、少し寒い。


 だが、それが必要だ。


 進んだ時より、戻る時の方が危ない。


 戻れると思った瞬間に、判断が狂う。


 その構造を、もっとはっきり迷宮の核へ据えねばならぬ。


「管理音声」

《はい》

「今の迷靄洞は、“帰り際が嫌”で止まっている」

《はい》

「余が欲しいのは、その一段先だ」

《“帰れると思って崩れる”段階ですね》

「うむ」


 そこが重要だ。


 人間は、出口を認識した瞬間に緩む。


 撤退を決めた瞬間に、思考の比重が“戦う”から“帰る”へ移る。荷を守るか、仲間を守るか、どこで走るか、どこで立て直すか――その判断が一気に粗くなる。


 ならば、帰路は“帰るための道”ではなく、“崩すための道”に変えられる。


「……よい」

《方向性、明確です》


 余は、新小部屋から入口までの区間へ意識を集中した。


 今まではそこを、単純な戻り道として見ていた。嫌らしいが、通るだけの道。


 違う。


 ここを第二の戦場にする。


 いや、むしろ本戦場にしてよい。


 侵入者を奥で殺す必要はない。奥で“帰る”と決めさせ、帰路で崩せばよいのだ。


「グズ」

「ギィ」

「起きよ」

「ギィ……?」


 寝ていたらしい。


 知るか。


「集めよ。全員だ」

「ギィッ」


 やがて、眠そうなゴブリンどもがぞろぞろ集まり、鼠が壁際を走り、余は白い部屋から迷宮全体へ声を響かせた。


「よいか。今日から、戻り道は戻り道ではない」

「ギィ?」

「ギィ……?」

「人間が帰ると決めた時、そこからが喰う時だ」

 ざわつく。

「進む時に押すな。帰る時に噛め」

「ギィッ!」

 なぜかグズが妙に嬉しそうだ。

「おぬしらは奥で勝つ必要はない」

 余は続ける。

「帰れると思った者を、帰し損ねさせればよい」

「ギィィッ!」


《かなり分かりやすい方針です》

「そうであろう」


 それから、余は具体的に構造を変え始めた。


 まず、新小部屋の手前にあった泥化帯の角度を少し変える。


 前進時はまだ踏みやすい。


 だが、戻る時には足が外へ流れやすい。


 ほんの僅かな傾きだ。露骨ではない。けれど、焦っている時には効く。


 次に、苔スライムの定着位置を入口寄りへ薄く伸ばす。


 いままでは“戻り始め”で効いていたものを、“出口が見えた頃”にも効くようにするのだ。


 人は出口が見えると、壁を頼りたくなる。支えを求める。そこをぬめらせる。


「……悪いな」

《迷宮としては良いです》

「そういう意味で言ったのではない」


 さらに、ポフキノコの配置も見直す。


 奥で濃く使うのではなく、新小部屋から入口へ戻る途中で、薄く一度だけ咳を誘う形へ寄せる。


 深追いをやめた者に、“あと一歩で出られる”という所で息を乱させる。


 強くなくてよい。


 ほんの少し視界が曇るだけで、人間は帰路判断を誤る。


「鼠は?」

《戻り導線の前後断ちが最も有効です》

「うむ。では斜めに切れ」


 鼠を、入口と出口の直線上ではなく、斜めに走らせる。


 真横ではない。斜めだ。


 これで侵入者は、“このまま走るか、足元を見るか、鼠を避けるか”の判断を一瞬迫られる。その一瞬が、泥・苔・茸と重なれば十分。


 最後に、ゴブリンの位置。


 これが一番大きかった。


 これまで余は、入口近くに常駐させるか、奥で構えさせるかの二択に近かった。だが今回は違う。


 戻り始めた侵入者の“後ろ”ではなく、“横”へ置く。


 正面で止めるのではない。


 横から見せて、出口方向への意識を乱す。


 見えている出口へ一直線に走らせぬための位置だ。


「グズ」

「ギィ」

「おぬしは入口手前右壁寄り」

「ギィ?」

「正面に立つな。見えるだけでよい」

「ギィッ」

「もう二体は左の凹み」

「ギィ」

「飛び出すな。石だけでよい」

「ギィッ」


 理解しているかは怪しい。


 だが、何度も言えば少しは染みる。


 グズも、最近は前より待てるようになってきた。そこへ“帰る時に噛め”という方針を乗せれば、迷靄洞の色に合う動きも増えるだろう。


「管理音声」

《はい》

「今の構造、どう見える」

《進行妨害迷宮から、撤退崩し迷宮への移行です》

「よい」

《かなりはっきり》

「それでよい」


 それは、少し嬉しかった。


 格の差を見せつけられた悔しさが、ちゃんと迷宮の深まりへ変わっている。羨むだけでなく、自分の勝ち筋を一段深くできている。


 それは主として、たぶん正しい。


 そして、その“新しい迷靄洞”を試す機会は、思ったより早く来た。


 昼過ぎ、外周監視の鼠が二人組を拾う。


 男女の冒険者。


 斧使いの男と、軽装の短弓使いの女。


 装備はそこそこ。


 だが会話が、いかにもよい。


「迷靄洞ってここか」

「ああ。軽く見て、危なそうなら戻る」

「帰りが嫌なんだっけ」

「なら、最初から帰りを意識しとけばいいだろ」

「それで済むなら楽だけどな」


「……」


 余は、静かに息を吐いた。


「来たな」

《はい》

「分かりやすい」

《試験に最適です》

「試験というな。命がかかっておる」

《迷宮ですので》


 余はすぐに指示を回す。


「全員、奥で欲張るな」

「ギィッ」

「引かせる」

「ギィ?」

「帰ると決めさせよ」

「ギィッ」


 二人は入口から慎重に入った。


 だが三人編成よりはやはり浅い。役割の補完が足りぬ。斧使いは前を見られるが、短弓使いはどうしても援護位置を探す。そのせいで、迷靄洞の“どこで立つか分からぬ嫌さ”に少し弱い。


 まず、一体だけゴブリンを見せる。


 斧使いが睨み、追いすぎない。


 よい。


 だが、そこへ鼠を斜めに走らせる。


 短弓使いが一瞬そちらへ意識を取られる。


「今の見た?」

「鼠だ、気にするな」

「でも細穴多いよここ」


 さらに半歩進む。


 泥が軽く足を取る。


 斧使いが舌打ちする。


「……これ、帰りだと嫌だな」

「もう嫌なの?」

「だから最初から確認してるんだろ」


 よい。


 もう“帰り”が頭にある。


 ならば十分だ。


「茸、まだ」

《待機》

「ゴブリン、見せるだけ」

「ギィッ」


 新小部屋手前で、横合いからグズがちらりと見える。


 正面ではない。


 斧使いは一瞬進むべき方向を見失い、半歩止まる。


 その止まりが、迷靄洞では大きい。


「……数いるかも」

「入口近いし、一回戻る?」

「いや、あと少しだけ――」


 その“あと少し”の迷いが出た。


 そこが本当に、肝だった。


 帰るか。


 進むか。


 この迷いが一度出ると、人間は以後ずっと判断が遅れる。


「今だ」

《茸、半開き》


 ポフキノコが薄く胞子を吐く。


 短弓使いが咳き込む。


「っ、ごほっ」

「下がるぞ」

「うん、戻ろ――」


 戻る。


 決めた。


 そこからが迷靄洞の時間だ。


「鼠、斜め」

「チチッ!」


 二匹の鼠が戻り導線を斜めに切る。


 短弓使いが足を止める。


 斧使いは先に一歩出る。


 距離が半歩開く。


「止まるな!」

「でも足元――」


 そこへ泥。


 短弓使いの足がわずかに流れる。


 支えようとして壁へ手をつく。


 苔スライム。


「ぬめっ!?」

「壁触るな!」


 斧使いが振り向く。


 振り向いたその時、入口手前右壁寄りのグズが姿を見せる。


 正面ではない。


 横だ。


「っ、右!」

「何匹いるの!?」

「見えるな、見えるのに邪魔だ……!」


 そうだ。


 見える。


 出口方向は分かる。


 だが一直線に走れぬ。


 横に気配がある。


 足元が悪い。


 壁がぬめる。


 咳が出る。


 鼠が切る。


 だから、帰路が帰路でなくなる。


「石、一発」

「ギィッ!」


 小石が短弓使いのすぐ前へ落ちる。


 当てない。


 だが、それで十分。


「ひっ」

「走れ!」

「走れない、滑る!」


 斧使いが手を伸ばして引く。


 その時、泥に深く足跡が刻まれる。


 短弓使いがほとんど転ぶように入口へ出る。


 斧使いも続くが、最後に振り返って吐き捨てた。


「……帰りが嫌なんじゃない。帰らせ方が嫌なんだよ、この穴」


「……」


 余は、その言葉を白い部屋でじっと聞いていた。


 そして静かに、深く息を吐いた。


「うむ」

《成功です》

「うむ」


 今の一言は大きい。


 帰りが嫌なんじゃない。


 帰らせ方が嫌なんだ。


 まさしくそれだ。


 迷靄洞は、ただ不快なだけの迷宮ではない。撤退という判断そのものを崩す迷宮へ、一段深く入った。


「……帰れぬ帰路、か」

《定着しつつあります》

「よい」


 その日の地域短報は、思った以上にはっきり書いた。



【地域短報】

・“迷靄洞”より帰還した二名組、「撤退時の導線圧」が特異と報告

・生還者証言:“出口が見えているのに、まっすぐ帰れない”

・周辺で“帰り道の方が怖い穴”として噂が強まる



「……」


 余はそれを読んで、しばらく何も言わなかった。


 嬉しい。


 かなり。


 だが、同時にぞくりともした。


 帰り道の方が怖い穴。


 それは、良い意味で危険だ。


 人間側の記憶に残る。


 迷靄洞らしい。


 しかも、赤泥蟻穴の“獲る穴”とは別方向の格を持てるかもしれぬ。


「管理音声」

《はい》

「少し見えてきたな」

《はい》

「余の上がり方が」

《はい》


 赤泥蟻穴のように、牙を見せる道ではない。


 迷靄洞は、帰路を狂わせることで格を上げる。


 深く入った者だけでなく、引くと決めた者をも喰える迷宮として。


 それはたぶん、人間側にとってかなり嫌だ。


 そして、迷宮としてはかなり強い。


「……若い牙」

 余は静かに呟く。

「おぬしが前へ噛むなら、余は後ろを閉じる」


 悪くない。


 非常に悪くない。


 それはもう、ただの湿った洞窟ではなかった。迷わせ、曇らせ、帰らせ損ねる迷宮――迷靄洞として、確かな核が立ち始めている。


 その時、交流欄が更新された。



【交流欄・短報】

・“朽縄井戸”井守:あー、なるほど。帰り道を戦場にしたか

・“玻璃宮の姫”:陰湿さが洗練されましたわね

・“灰冠のロード”:ようやく一段深くなった

・“赤泥蟻穴”:退く者を噛んで誇るのか

・“迷靄洞”:帰れると思った者を帰さぬのが、迷宮である



「……」


 返してから、余は少しだけ笑った。


 よい。


 短い。


 そして、今の迷靄洞の色にきちんと沿っている。


《かなり王っぽい返しです》

「そうか」

《はい》

「……それは少し嬉しいな」

《把握しました》


 素直にそう思った。


 以前の余なら、まだここで慌てていたかもしれぬ。二人組を通して試すことにもびくつき、帰還報告に一喜一憂して、噂の強まりにも落ち着かなかっただろう。


 だが今は違う。


 試し、掴み、言葉にし、色を定着させる。


 少しずつだが、主のやり方ができてきている。


 もちろん、まだ上は遠い。


 赤泥蟻穴との差が消えたわけでもない。


 だが、迷靄洞はもう“ただ嫌な穴”ではない。


 帰れぬ帰路を持つ迷宮として、一段深く立った。


「……よい」


 窓の向こうで、泥に残る足跡がまだ湿っている。


 苔スライムが壁を這う。


 ポフキノコが静かに縮む。


 鼠はもう次の走路を選び、グズは何となく誇らしそうに棍棒を振っていた。


 その全部が、帰路を戦場に変えるために噛み合っていた。


 それを見ていると、悔しさの熱が、ようやく少しだけ確かな自信へ変わっていく気がした。

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