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第21話 泥と湿りの境界線

 余の迷宮のかたちが見えたからといって、隣人が待ってくれるわけではない。


 むしろ、こちらが少し落ち着いた頃を見計らったように、外周のざわつきはまた増した。


 赤い蟻の流れが、今度はこれまでより明確に“線”を引き始めたのである。


「……見ろ」


 余は監視点の鼠を通して、森の縁から湿臭洞窟外周へ続く浅い地面を眺めた。


 赤土が細く盛り上がっている。


 それも一箇所や二箇所ではない。まるで獣道の脇へ、小さな傷が何本も走るように、断続的な掘削痕が続いている。


《小穴連結傾向》

「うむ」

《明確な外周制御意図あり》

「やはりな」


 これまでは散発的だった。


 試すように、探るように、あちこち触っていた。


 だが今は違う。少なくとも、一本の通り道を“こちらへ寄せぬようにする”意図が見える。


 余の前へ来るはずの足が、ほんの少し森側へ押しやられるような線。


 逆に、赤泥蟻穴の方へ流れやすくなる線。


「若い牙、少し学んだな」

《手数がまとまり始めています》

「厄介だ」


 その言葉に、自然と唇が歪んだ。


 厄介だが、見える。


 見えるなら、まだよい。


 何も分からず奪われるより、ずっとよい。


 だが問題は、その“線”にどう応じるかだ。


 同じように土を掘り返すか。


 外へゴブリンを出して荒らすか。


 鼠で妨害するか。


 ――どれも、あまり美しくない。


 いや、美しさの話ではない。余の迷宮の形に合わぬのだ。


 余は正面からぶつかる迷宮ではない。


 ならば、境界線の引き方も余らしくあるべきだ。


「管理音声」

《はい》

「土に土で返すのは、少し違う」

《同意します》

「余は湿りである」

《はい》

「なら、湿りで線を引く」


 自分で言って、少し気分が良くなった。


 湿りで線を引く。


 意味は分かりにくいが、余らしい響きではある。


《具体案を》

「うむ」


 余は外周地図を開いた。


 湿臭洞窟の前面。


 獣道。


 森との境目。


 地面の傾き。


 雨が降った時に流れやすい箇所。


 今まで取引で得た床勾配の知識は、本来迷宮内部向けのものだ。だが、考え方そのものは外にも応用できる。


 つまり、水は低きへ流れる。


 踏まれやすい場所はぬかるむ。


 逆に、僅かな勾配と湿気保持で、“歩きたくない帯”を作ることができる。


「外周全部は無理だな」

《資源不足です》

「うむ。なら絞る」


 余は、赤泥蟻穴が通り道を寄せようとしている箇所を三つ選んだ。


 一つは獣道脇の浅いくぼみ。


 一つは森縁の木根が露出している地帯。


 一つは元から湿りが抜けにくい岩陰。


 そこへ、洞窟内部から微細に水気を回し、鼠の通りで表面を崩し、さらにあえて“踏めそうで踏みにくい”薄い湿地帯を作る。


 深い泥にはしない。


 露骨すぎるからだ。


 人間が「嫌だな」と思う程度、小型魔物が「少し遠回りしよう」と思う程度、それで十分。


「……よい」

《緩い押し返し》

「余らしい」


 だが、その準備をしている最中、予想より早く相手が動いた。


 新聞の交流欄に、あからさまな短報が流れたのだ。



【交流欄・短報】

・“赤泥蟻穴”:辺境の湿りは、穴の中で湿っておればよい

・“誰か”:また始まった

・“赤泥蟻穴”:外へ出れば乾く

・“朽縄井戸”井守:上手いこと言ったつもり?

・“玻璃宮の姫”:本当に品がありませんわね



「……」


 余はじっとその文面を見た。


 外へ出れば乾く。


 なるほど、言いたいことは分かる。


 洞窟の外では、お前の強みは通じぬ。


 そういう挑発だ。


「腹が立つな」

《はい》

「だが、同時にヒントでもある」

《どういう点で》

「こやつは、余が外に強くないと思っておる」

《実際、現時点では大きくは外へ手を出していません》

「うむ。だからこそ思い込んでおる」


 それは、使える。


 余の迷宮は外へ巨大な爪を伸ばせない。


 だが、外の“境目”なら触れる。


 しかも湿りは、穴の中だけのものではない。地面の傾き、木陰、岩陰、踏圧、朝露、ぬかるみ――そういうものに寄り添えば、外でも静かに働く。


「管理音声」

《はい》

「境界線を作る」

《承認》

「ただし、こちらから“仕掛けた”と分からぬ程度にな」

《迷宮思想と整合します》

「うむ」


 余はまず、鼠を使って三箇所の表面を軽く崩した。


 蟻の小穴ほど露骨ではない。


 人間が見れば、ただ“最近ちょっと歩きにくい地面”だ。


 次に、湿気の溜まりやすい箇所を繋ぐように、地表すれすれの空気の滞りを微調整する。これはかなり繊細だった。やりすぎるとただの目立つ泥場になる。浅く、薄く、嫌らしく。


 最後に、洞窟側からわずかな匂いの流れを乗せる。


 腐敗臭ではない。


 湿った苔と茸の、何とも言えぬ“入りたくはないが、嫌悪で逃げるほどでもない”匂い。


「……難しいな」

《微調整領域です》

「言葉にすると急に面白くなくなるな」


 しかし、効果は半日で出始めた。


 まず、小型魔物の流れが少し変わった。


 赤泥蟻穴側へ寄せられていた野鼠崩れの群れが、こちらと向こうの中間で一度立ち止まり、それから森の奥へ逃げた。どちらにも寄らぬ流れ。つまり、相手の誘導がそのまま通らなくなったのだ。


「……よい」

《相殺効果あり》


 次に、採集者の足跡。


 これまで森側へ押されていた一部の足が、今度は獣道中央寄りへ戻っている。湿地帯が嫌で完全にこちらへ寄る、というほどではない。だが少なくとも、赤泥蟻穴が引いた線が素直には機能しなくなっている。


 盤面の押し合い。


 それが初めて、目に見える形になった。


「これだ」

《境界線が成立しつつあります》

「泥と湿りの境界線、か」

《詩的です》

「たまにはそう言え」


 そして何より分かりやすかったのは、赤い蟻の流れそのものだった。


 いつもならすっと外周を横切る群れが、今日は途中で一度、ぬかりの帯に足を取られ、散り、まとまり、少し苛立ったような動きを見せたのである。


「……おお」

《誘導阻害》

「見たか」

《はい》


 蟻は完全には止まらぬ。


 だが、進み方が汚くなる。整然としていた列が一瞬乱れ、枝分かれし、戻る個体が混じる。小さな乱れだ。だが群れ運用において、この“小さな乱れ”は案外大きい。


「よいではないか」

《かなり》


 余は少し気分が高揚した。


 派手ではない。


 勝った、というほどではない。


 だが、向こうが引いた線に対し、こちらの線を重ねられた。それも、余らしいやり方で。


 土の主に、湿りで返す。


 悪くない。


 かなり悪くない。


 その日の夕方、交流欄がまた更新される。



【交流欄・短報】

・“赤泥蟻穴”:最近、辺境の地面が妙にぬかるむな

・“誰か”:天気では?

・“朽縄井戸”井守:湿り系いるしね

・“赤泥蟻穴”:……

・“玻璃宮の姫”:静かになりましたわね

・“灰冠のロード”:盤を見ろ



「……」


 余は、その最後の一言に、思わず笑ってしまった。


 盤を見ろ。


 その通りだ。


 赤泥蟻穴のロードは、たぶん今、原因をはっきり掴めておらぬ。こちらが外を大きく動かしたわけではないからだ。湿りは地面に紛れる。境目に紛れる。露骨な手ではない。


「管理音声」

《はい》

「効いておるな」

《少なくとも違和感は与えています》

「よい」


 そしてここで、余は一つ学んだ。


 外周を動かすのに、大きな手は必ずしも要らぬ。


 相手が線を引くなら、その線を少しだけ滲ませればよい。


 整然とした流れが売りの相手なら、少しだけ嫌な湿りを置けばよい。


 これこそ、余の迷宮の形だ。


 正面から奪い返すのではない。


 向こうがまっすぐ奪おうとするなら、その“まっすぐ”を成立させぬ。


 足を止める。


 息を乱す。


 視界を曇らせる。


 それは外でも同じなのだ。


「……余の迷宮は、盤の上でも余の迷宮であるな」

《整合しています》

「うむ」


 自分で言って、また少し嬉しくなった。


 洞窟の中だけでなく、外の境目にまで思想が伸びたのだ。まだごく小さな伸びだが、それでも一歩は一歩である。


 しかし、その満足の直後に、監視点から別の報告が上がる。


 森の奥。


 赤泥蟻穴寄りの方角で、複数の人間の足音。


 今度は三人ではない。


 もっと多い。


「……何だ」


 意識を寄せる。


 四人。


 装備は前の半端者よりずっとましだ。盾持ち一、槍一、軽装二。統一感まではないが、少なくとも“迷宮へ入るつもり”で集まった顔ぶれである。


 しかも、進む方角が微妙だ。


 まっすぐ赤泥蟻穴へ向かっているようでもあり、途中でこちらへ逸れてもおかしくない位置取り。


「盤がまた動くぞ」

《はい》

「……ふむ」


 余は白い部屋の中央で、静かに目を細めた。


 赤泥蟻穴が寄せる。


 余が滲ませる。


 その結果、人間の流れがどちらへ落ちるか。


 それが今、目の前で試されようとしている。


「よい」

 余は低く呟く。

「ならば見よう。泥と湿り、どちらの境界がより嫌らしく機能するかをな」


 言いながら、自分でも少し驚いた。


 怖くないわけではない。


 戦いはまだ怖い。


 予定外は今も嫌だ。


 だが、それと同時に、盤面そのものを見る面白さが勝ち始めている。


 余はもう、ただ侵入者が来るたび慌てるだけの主ではない。


 どこから来たか。


 なぜ来たか。


 どの状態で来たか。


 その全部を読みながら迎え撃つ主へ、少しずつ近づいている。


 湿った境界線の向こうで、風が草を揺らした。


 赤土の小穴が連なる。


 ぬかるみの帯が鈍く光る。


 人の足音が近づく。


 盤面は、静かに次の手番へ進んでいた。

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