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第127話 広告塔は、地図になる前に折る

 それから、31日が過ぎた。


 霧灰白庭迷宮むかいはくていめいきゅうの浅層は、すっかり変わっていた。


 最初は、誰もが恐れていた。


 銀刻の5人が帰らなかった迷宮。


 白磁庭園を喰ったかもしれない迷宮。


 入口で盾を壊し、矢筒を齧り、霧の中から声が聞こえる迷宮。


 だが、今は少し違う。


 恐れられている。


 それは変わらない。


 だが、同時に、欲しがられている。


 白灰匣はくかいばこ


 灰白採取物かいはくさいしゅぶつ


 白磁花片。


 灰霧石。


 影糸の切れ端。


 赤錆噛みの抜け牙。


 そして、白銀磁片はくぎんじへん


 浅層で拾える小さな宝。


 浅層の奥で見つかる白い箱。


 中層入口で見たという正式宝箱。


 人間どもは、勝手に噂を育てた。


 そして、勝手に名を付けた。


 灰白庭。


 白箱迷宮。


 銀刻帰らず。


 帰り道を食う迷宮。


 どれも正式名称ではない。


 だが、どれも悪くない。


 余は、白い部屋の中央で、月次報告を見下ろしていた。


《霧灰白庭迷宮 直近31日報告》



侵入組数:57組

侵入者総数:184名


生還者:139名

死亡者:45名


推定ランク内訳:

Eランク相当:31名

Dランク相当:78名

Cランク相当:58名

Bランク相当:17名


主な死亡地点:

浅層:9名

灰霧回廊:11名

戻り水湿地:14名

影縫い小道:6名

白磁偽回廊:5名


獲得ソウル:18,740


消費ソウル:7,120

内訳:

宝箱・報酬品生成:2,460

灰白採取物維持:710

迷宮修復:1,380

魔物補充:1,940

罠調整:630


期首保有ソウル:8,960

現在保有ソウル:20,580



「……増えたな」


《はい》


「かなり増えたな」


《はい》


「なのに消費も多いな」


《宝を置けば費用がかかります》


「分かっている。分かっているが、宝箱とは金食い虫だな」


《迷宮ですので、正確にはソウル食い箱です》


「言い方が嫌だ!」


 それでも黒字だ。


 大幅な黒字。


 1ヶ月前なら、これだけのソウルがあれば何を買うかで大騒ぎしていただろう。


 今も大騒ぎしたい。


 だが、余はAランク迷宮のロードである。


 落ち着かねばならない。


「管理音声」


《はい》


「20,580あれば、何が買える」


《多数あります》


「聞くだけだ。買うとは言っていない」


《本当に?》


「本当にだ!」


《では候補を出します》


 壁面に購入候補が並び始めた。


 湿骨兵。


 泥甲ゴブリン。


 霧喰い大蛾。


 白骨書記。


 苔灰巣母。


 濁白騎士の再構成強化。


 宝物庫中枢補助核。


 浅層採取物自動再配置機構。


 帰路罠強化。


「……全部欲しい」


《ソウルが足りません》


「なぜだ!」


《全部欲しがるからです》


 くそ。


 Aランクになっても、ソウルは足りない。


 いや、Aランクになったからこそ足りないのかもしれない。


 迷宮が大きくなれば、欲しいものも増える。


 それに、今は浪費できない。


 宝箱運用。


 魔物修復。


 浅層から中層への調整。


 夜棺白庭やかんはくていの秘匿維持。


 フィルエの森灰観測室しんかいかんそくしつの安定化。


 やるべきことは多い。


 そして、今一番重要なのは、ソウルの使い道ではない。


 人間の使い道だ。


「ニル・カートは」


《直近31日で5回侵入。5回生還》


「ロウゼン・ハルトは」


《直近31日で3回侵入。3回生還》


「ずいぶん宣伝してくれたな」


《はい》


 ニル・カート。


 Cランク斥候。


 怖がりで、慎重で、欲深い。


 そして、よく話す。


 ロウゼン・ハルト。


 Bランク下位冒険者。


 探索兼護衛職。


 ニルより強く、冷静で、危険判断が早い。


 この2人が外で何度も語ったおかげで、霧灰白庭迷宮の宝の噂は一気に広がった。


 特にニルは良かった。


 あいつは恐怖を話せる。


 ただの自慢ではなく、どこが怖かったか、どうすれば死なずに済むか、どうすれば宝に届くかを語る。


 そういう話は、人間に刺さる。


 ロウゼンは別の意味で役に立った。


 Bランクが、


「浅層でも舐めるな」


「中層入口で引く判断をした」


「正式宝箱があった」


と証言した。


 それで、一気に噂の格が上がった。


 しかし。


「管理音声」


《はい》


「あの2人は、もう広告塔ではなくなりかけているな」


《はい》


 壁面に別の表示が浮かぶ。



継続誘導対象:ニル・カート

危険度更新:中


理由:

・浅層から中層入口までの罠配置を複数記憶

・白灰匣と正式宝箱の違いを認識

・帰路罠への対処経験あり

・灰霧封じ、影糸巻きの使用法を外部に伝達

・冒険者間で「灰白庭案内役」として認識され始めている



対象:ロウゼン・ハルト

危険度更新:中〜高


理由:

・Bランク相当の判断力

・中層入口の構造を一部把握

・宝箱取得後の帰路罠を推測

・ニル・カートの行動を補佐

・今後、組織的探索隊の案内役となる可能性あり



「広告塔が、地図になる」


《はい》


 それは困る。


 ニルは、十分に宣伝した。


 ロウゼンも、十分に価値を高めた。


 だが、ここから先は違う。


 あの2人が生き続ければ、霧灰白庭迷宮の浅層攻略は進みすぎる。


 宝の価値を外へ流す広告塔は必要だ。


 だが、迷宮の腹の形を覚える地図は不要だ。


 いや。


 地図は殺す。


 霧灰白庭迷宮は、そういう迷宮だ。


「フィルエ」


「うん」


「ニルとロウゼンを殺す」


 森灰観測室から、少しだけ沈黙が返った。


 それから、フィルエは静かに言った。


「そろそろだと思ってた」


「止めないのか」


「止めない。あの2人、見すぎてる」


「惜しいがな」


「うん。惜しいから、今」


「今?」


「これ以上進むと、殺す時も高くつく」


 余は笑った。


「その通りだ」


 惜しい。


 非常に惜しい。


 だが、惜しいものほど、回収する時期を間違えてはならない。


「管理音声」


《はい》


灰白小宝庫かいはくしょうほうこを開く」


《浅層奥の小型宝物室ですね》


「そうだ。あの2人に見せる」


《殺害目的ですか》


「回収目的だ」


《同義です》


「言葉を選べ」


 灰白小宝庫。


 まだ本格運用していない浅層奥の小宝物室。


 中央に正式宝箱。


 周囲に灰白採取物。


 天井に影糸。


 床に戻り水。


 壁に白磁花。


 出口は2つに見える。


 1つは来た道。


 もう1つは宝の奥へ続く偽の道。


 今回は、そこに特別な仕掛けを加える。


「ニル専用の帰路を作れ」


《対象の足跡、沈降反応、罠回避癖を使用しますか》


「使う」


《戻り水に蓄積された過去5回分の歩行記録を参照します》


「よし」


 ニルは慎重だ。


 だからこそ、過去の自分を信用する。


 前回ここは安全だった。


 前回この湿りは罠ではなかった。


 前回この影はただの飾りだった。


 そう思う。


 ならば、それを使う。


「ロウゼンには?」


《ロウゼン・ハルトは未知罠より、既知罠の変化を警戒します》


「なら、変化を見せすぎるな。あいつには、見抜いたと思わせろ」


《見抜かせる罠ですね》


「そうだ」


 見抜いた者は、次に踏み込む。


 罠を見つけた者ほど、その裏の罠に落ちる。


 余はこの1ヶ月で学んだ。


 宝は、人間の足を止める。


 恐怖は、目を増やす。


 そして、見える罠は、自信を育てる。


 その自信を喰う。


    ◇


 ニルとロウゼンが来たのは、3日後だった。


 今回は4人組。


 ニル。


 ロウゼン。


 魔術師の女。


 荷物持ち兼採取役。


 前より少ない。


 少数精鋭。


 いや、正確には、余計な者を減らしたのだろう。


 生還率を上げるため。


 宝を分ける人数を減らすため。


 欲が、少し濃くなっている。


「今日は深く行かない」


 ロウゼンが言った。


「灰白小宝庫を確認するだけだ」


「噂、本当だと思いますか」


 ニルが聞く。


「お前が流した噂だろ」


「俺は、小さい宝物室があるらしい、としか」


「それで十分だ。人は勝手に膨らませる」


 よく分かっている。


 ロウゼンも広告塔として優秀だった。


 だからこそ、ここで折る。


「入口は通せ」


《はい》


「浅層採取物は少なめ。余計に拾わせるな」


《はい》


「灰霧回廊の罠は見えるようにしておけ」


《見抜かせますか》


「そうだ。順調だと思わせろ」


 ニルたちは迷宮へ入った。


 もう、入口では驚かない。


 牙跡も、泥も、遠くのゴブリン声も、赤錆噛みの小さな気配も、すべて警戒しながら進む。


 慣れている。


 腹立たしいほど慣れている。


 同時に、誇らしくもあった。


 余の迷宮が、人間を育てた。


 そして今から、育ったものを喰う。


 灰霧回廊では、ニルが罠を2つ見抜いた。


 ロウゼンが3つ目を見抜いた。


 魔術師の女が霧の流れを止め、採取役が影糸を切った。


 完璧ではない。


 だが、良い動きだった。


「……本当に惜しいな」


《殺害判断を撤回しますか》


「しない」


 余は静かに言った。


「惜しいから、喰う」


 やがて、4人は灰白小宝庫へ到達した。


 小さな白い部屋。


 灰をかぶった白磁床。


 壁には閉じた白磁花。


 中央には正式宝箱。


 そして、その周囲には小さな採取物が散らされている。


 白磁花粉結晶。


 灰霧石。


 影糸の切れ端。


 赤錆噛みの抜け牙。


 いかにも、価値があるように。


 いかにも、今なら拾えるように。


 ニルは入口で足を止めた。


「……部屋だ」


 ロウゼンが低く言う。


「初めての宝物室だな」


「浅層奥で、これですか」


「だから怖い」


 魔術師の女が短杖を構えた。


「床、動いてます」


 採取役が袋を握りしめる。


「採取物、かなりあります。全部拾えば……」


「拾うな」


 ニルとロウゼンが同時に言った。


 いい判断だ。


 だが、中央の宝箱は無視できない。


 ロウゼンは部屋を一周見る。


 ニルは床を見る。


 魔術師の女は壁を見る。


 採取役は宝を見る。


 その目の配置も、もう読める。


「カゲヌイ」


《待機中》


「採取役の影だけ、少し引け」


《了解》


 採取役が、一歩だけ宝箱へ近づいた。


 自分でも気づかぬ程度に。


 ニルが気づく。


「下がれ」


「あ、すみません」


「影が引かれた」


 気づいたか。


 よい。


 だが、そこは見せ罠だ。


 ロウゼンが床を剣で軽く叩く。


「影系。足元注意。宝箱正面は避けろ。横から開ける」


 余は笑った。


「そう来ると思った」


 宝箱の正面は罠ではない。


 横も罠ではない。


 今回は、開ける瞬間ではなく、開けた後に選ぶ瞬間が罠だ。


 ニルが長い鉤棒で蓋を開けた。


 何も起きない。


 霧も出ない。


 音も鳴らない。


 ただ、箱の中に3つの報酬があった。


 1つ目。


 灰霧封じの正式小瓶。


 2つ目。


 影糸巻き。


 3つ目。


 白銀磁片の小片。


 そして、蓋の裏に、白磁で刻まれた短い文字。


 ――2つまで。


 ニルが息を止めた。


 ロウゼンが目を細める。


「迷宮が、数を指定してる」


「2つまで……」


「3つ取ったら何か来る」


「2つでも何か来るでしょう」


「だろうな」


 余は黙って見ていた。


 さあ、選べ。


 灰霧封じは命綱。


 影糸巻きは斥候に価値がある。


 白銀磁片は金になる。


 3つとも欲しい。


 だが、文字は2つまで。


 迷宮がそう言っている。


 信じるか。


 逆らうか。


 疑うか。


 ニルの手は、まず灰霧封じへ伸びた。


 当然だ。


 次に影糸巻き。


 これも当然。


 斥候である彼には価値が分かる。


 白銀磁片を見た。


 手が止まる。


 金貨になる。


 だが、2つまで。


「ニル」


 ロウゼンが言った。


「置け」


「……はい」


 ニルは白銀磁片を置いた。


 余は微笑んだ。


「成長したな」


《はい》


「だから殺す」


 箱を閉じる。


 その瞬間、部屋の入口が音もなく曇った。


 白磁の扉ではない。


 霧でもない。


 戻り水が、入口の床を薄く濡らしただけだ。


 ニルがすぐ気づく。


「帰路」


「来るぞ」


 ロウゼンが剣を構えた。


 そこへ、白い部屋から低い音が響いた。


 帰路喰らいの落武者きろくらいのおちむしゃの刃音。


 実体はまだ出していない。


 だが、音だけで十分だった。


 ニルの顔が青くなる。


「これは……」


 ロウゼンの目が鋭くなる。


「Aランクを喰ったやつか」


 知っていたか。


 いや、噂だけだろう。


 だが、それで十分だ。


 音だけで足が止まる。


「本体は出すな」


《帰路喰らいの落武者、影のみ展開》


 部屋の奥の壁に、影が映る。


 落武者の影。


 刃を持つ灰白の影。


 出口方向を見る影。


 それだけで、空気が変わった。


「撤退」


 ロウゼンが即断した。


「宝は?」


「持ったまま出る。無理なら捨てる」


 いい判断。


 だが、もう遅い。


 帰路の床が、ニルの過去5回分の歩行記録を使って、彼の足へ合わせて沈む。


 前は安全だった場所が、今日は深い。


 前は罠だった場所が、今日は浅い。


 記憶が邪魔をする。


 ニルが一歩踏み出した瞬間、膝まで沈んだ。


「っ!」


「引け!」


 ロウゼンが手を伸ばす。


 そこへ赤錆噛みが出る。


 狙いはロウゼンの剣ではない。


 ニルを助けようとする、ロウゼンの手甲の留め金。


 かり。


 一噛み。


 ロウゼンは即座に手甲を外して捨てた。


 判断が早い。


 だが、その0.5秒が遅い。


 ニルの影に、カゲヌイの影針が刺さった。


「影!」


 ニルが叫ぶ。


 自分の影を切ろうとする。


 だが、影糸巻きを持った手が邪魔になる。


 捨てれば早い。


 だが、捨てない。


 ほんの一瞬。


 その一瞬が、命を奪う。


「フィルエ」


「うん」


「欲は本当に重いな」


「うん」


 ニルは影糸巻きを捨てかけた。


 しかし、灰霧封じの小瓶は離さなかった。


 命綱だからだ。


 ならば、それを逆にする。


「灰霧」


《発動》


 部屋の奥から灰霧が噴いた。


 ニルは反射的に灰霧封じの小瓶を使う。


 正しい。


 だが、今回は霧が本命ではない。


 灰霧が薄れた瞬間、床に映っていた帰路喰らいの影が濃くなった。


 霧が消えたから、影が見えた。


 その影が、ニルの足元に伸びる。


 影の刃が、彼の帰路を断った。


 ニルが振り返る。


 目が合った。


 こちらから見えているわけではない。


 だが、あの男は確かに迷宮の意思を見たような顔をした。


「……俺、ここまでか」


 声は小さかった。


 ロウゼンが叫ぶ。


「諦めるな!」


 ニルは笑わなかった。


 ただ、懐から白銀磁片を取り出した。


 前に持ち帰ったものだ。


 売らなかった宝。


 広告塔の証。


 彼はそれをロウゼンへ投げた。


「持って帰ってください」


「馬鹿野郎!」


「俺より、あなたの方が帰れる」


 余は、その瞬間、少しだけ迷った。


 ニルをここで殺し、ロウゼンを帰すか。


 ロウゼンに白銀磁片を持ち帰らせれば、さらに強い噂になる。


 だが、もう決めた。


 2人とも折る。


 宣伝役は十分だ。


 これ以上、地図にしてはならない。


「帰路喰らい」


《影から実体へ、部分展開》


 落武者の刃が、壁の影から半分だけ現れる。


 完全な実体ではない。


 だが、刃は届く。


 ロウゼンが白銀磁片を受け取った瞬間、その足元の帰路が重くなった。


 宝を受け取った。


 欲ではない。


 仲間の意思を受け取った。


 だが、迷宮にとっては同じだ。


 持ち帰るものを増やした。


 だから、重くなる。


「くっ……!」


 ロウゼンが膝をつく。


 そこへ、落武者の影刃が走る。


 ロウゼンは受けた。


 受けきった。


 Bランク下位とはいえ、さすがだ。


 刃を弾き、足を引き抜き、ニルへ手を伸ばす。


「来い!」


 ニルは手を伸ばそうとした。


 だが、彼の足はすでに戻り水に呑まれている。


 水が彼の足跡を覚えている。


 逃げ方を覚えている。


 迷い方を覚えている。


 そして、今日の終わり方を選んだ。


 ニルの胸元から、灰霧封じの小瓶が落ちた。


 割れた。


 灰霧が一瞬だけ部屋を満たす。


 その中で、ニルの影が完全に縫われた。


 カゲヌイの針。


 影縫い大蜘蛛の糸。


 戻り水の沈降。


 そして、帰路喰らいの影刃。


 ニル・カートの喉に、灰白の刃が通った。


《継続誘導対象:ニル・カート、死亡》


《獲得ソウル:520》


《取得:ニルの罠記録片、白銀磁片保持履歴、灰霧封じ使用経験、恐怖と欲の混合記憶》


 白い部屋が、少しだけ静かになった。


 フィルエも何も言わなかった。


 余も、少しだけ黙った。


 ニル・カート。


 広告塔。


 生還者。


 欲と恐怖を持ち帰った人間。


 十分に役目を果たした。


「……よく宣伝した」


 余は小さく言った。


「だから、余の腹に戻れ」


 ロウゼンの叫びが響いた。


「ニル!」


 その声に、宝物室全体が反応した。


 怒り。


 後悔。


 失敗。


 責任。


 Bランクの冒険者らしい、重い感情だった。


 それもまた、帰路を重くする。


 ロウゼンは白銀磁片を握りしめていた。


 捨てれば、少し軽くなる。


 捨てれば、動けるかもしれない。


 だが、彼は捨てない。


 ニルが投げたものだからだ。


「人間は、欲でなくても捨てられぬのだな」


《はい》


「なら同じだ」


 ロウゼンは立ち上がった。


 剣を構える。


「来い」


 その目は、もう帰る目ではなかった。


 殺す目でもない。


 せめて、何かを壊して帰る。


 そういう目だ。


 危険だ。


 Bランク下位でも、捨て身は危険だ。


「完全展開するな」


《帰路喰らいの落武者、部分展開を維持》


「周囲で殺せ」


《はい》


 ロウゼンが走る。


 白磁床を蹴り、灰霧を裂き、戻り水の重さを力で押し切る。


 剣が壁の影を斬る。


 カゲヌイの影針が2本折れる。


 影縫い大蜘蛛の糸が断たれる。


 赤錆噛みが1体、剣圧で吹き飛んだ。


《赤錆噛み1体、死亡》


「強いな」


《はい》


「だが、出口を見ていない」


《帰還意思が低下しています》


 そう。


 ロウゼンはもう、生還を最優先にしていない。


 だから、帰路喰らいの落武者は少し効きにくい。


 帰ろうとする者を喰う魔物だからだ。


 なら、別のものを使う。


「宝を重くしろ」


《対象:白銀磁片》


 ロウゼンが握る白銀磁片が、わずかに光った。


 それはニルが持ち帰り、売らずに残したもの。


 白灰匣3号の中身。


 広告の核。


 今は、ロウゼンの手の中にある。


 その白銀磁片に、戻り水の記録を流す。


 ニルが拾った時の恐怖。


 町で開いた時のざわめき。


 金貨3枚の値。


 売らなかった選択。


 再び迷宮へ持ち込んだ事実。


 それらを、重さに変える。


 ロウゼンの剣筋がわずかに沈んだ。


 その一瞬。


 グズの泥が床下から吹き出した。


 グズ本体ではない。


 泥核だけだ。


 足元を奪う。


 ロウゼンは跳んだ。


 だが、跳んだ先に白磁花の花粉があった。


 視界が白く焼ける。


 彼は目を閉じたまま剣を振る。


 正確だった。


 しかし、耳に入るのはマネの声。


 ニルの声だった。


「ロウゼンさん」


 ロウゼンの剣が止まった。


 0.2秒。


 それで十分だった。


 カゲヌイの最後の影針が、ロウゼンの肘を縫った。


 影縫い大蜘蛛の糸が、白銀磁片を握る手首に絡む。


 戻り水が足元を沈める。


 そして、帰路喰らいの落武者の影刃が、ロウゼンの胸を貫いた。


《対象:ロウゼン・ハルト、死亡》


《獲得ソウル:970》


《取得:Bランク探索判断記憶、ロウゼンの剣片、白銀磁片保持履歴、帰路罠解析断片、ニル救助失敗記憶》


 ロウゼンの体が倒れた。


 手の中の白銀磁片が、床に転がる。


 余は、その小片をしばらく見ていた。


 外へ出た宝。


 値が付いた宝。


 売られなかった宝。


 そして、また迷宮へ戻ってきた宝。


 よい。


 実によい。


「白銀磁片を回収」


《回収します》


「ただし、傷を残せ」


《傷?》


「ニルとロウゼンが持ち帰った記録を残す。次に使う時、ただの白銀磁片ではなくする」


《名称を変更しますか》


「そうだな」


 少し考えた。


 戻ってきた宝。


 広告塔の終わり。


 帰り道で折れた価値。


「帰還傷の白銀磁片」


帰還傷きかんきずの白銀磁片、登録》


 宝物室には、まだ魔術師の女と採取役が残っていた。


 2人は震えている。


 逃げようとしている。


 余は少し考えた。


「逃がすか」


《情報漏洩します》


「漏らせ」


《よろしいのですか》


「ニルとロウゼンが死んだ話は必要だ」


 宣伝役の終わりも、宣伝になる。


 生還者が、最終的にどこで死んだのか。


 宝に慣れた者。


 罠を読んだ者。


 Bランクの護衛。


 それでも、灰白小宝庫で喰われた。


 その話は強い。


「2人は帰す。ただし、白銀磁片は持たせるな」


《はい》


「ニルの短剣の折れ片を持たせろ」


《理由は?》


「人間は遺品を信じる」


《承知しました》


 魔術師と採取役は、這うように逃げた。


 帰路は軽くする。


 ただし、背後でニルの声を1回だけ響かせる。


 ロウゼンの剣音を1回だけ鳴らす。


 恐怖を刻む。


 そして、外へ出す。


 2人は入口の外へ転がり出た。


 泣きながら、泥を吐きながら、ニルの折れた短剣片を握りしめて。


 彼らは話すだろう。


 ニル・カートは死んだ。


 ロウゼン・ハルトも死んだ。


 灰白小宝庫で。


 白い箱の前で。


 宝を選んだ後で。


 帰り道が重くなり、影が動き、死んだ。


 そして、迷宮はまだ奥に続いている。


《戦闘結果》



討伐:

ニル・カート 獲得ソウル:520

ロウゼン・ハルト 獲得ソウル:970

赤錆噛み損失:1体

影針損失:3本

影糸損傷:軽度

灰白小宝庫:稼働継続可能


回収物:

ニルの罠記録片

ニルの恐怖と欲の混合記憶

ロウゼンの剣片

Bランク探索判断記憶

帰路罠解析断片

帰還傷の白銀磁片


現在保有ソウル:22,070



「22,070か」


《はい》


「増えたな」


《はい》


「だが、ニルはもういない」


《はい》


 少しだけ、白い部屋が静かになった。


 フィルエが言った。


「惜しかった?」


「惜しかった」


 余は認めた。


「だが、必要だった」


「うん」


「広告塔は、地図になる前に折る」


「ロードらしい」


「褒めているのか」


「うん。たぶん」


 余は灰白小宝庫を見た。


 そこには、ニルの血とロウゼンの血が少しだけ残っている。


 白磁床に染み、戻り水に薄く流れ、灰に沈んでいく。


 この部屋は変わる。


 ただの宝物室ではなくなる。


 生還者を喰った部屋。


 広告塔を折った部屋。


 いずれ人間どもは、ここを恐れて呼ぶだろう。


 名前を付けるかもしれない。


 なら、こちらも名を付ける。


「灰白小宝庫の別名を設定する」


《名称をどうぞ》


「広告塔の墓」


《別名:広告塔の墓、登録》


 余は笑った。


 宝は置いた。


 人間は来た。


 噂は育った。


 広告塔は役目を終えた。


 次は、新しい人間どもが来る。


 ニルの話を聞き、ロウゼンの死を知り、それでも宝を欲しがる者たちが。


「来い」


 余は、白い部屋の中央で告げた。


「次の広告塔は、誰にする?」

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