第98話 測る者は、測られる側へ落ちる
若い測量士は、また来た。
白砂の袋を背負い、細鎖を腰に巻き、測水鐘を首から下げて。
ただし、前とは違う。
人数が少ない。
護衛が二人。
封迷技師見習いが一人。
そして、若い測量士。
合計四人。
少ない。
少なすぎる。
「……捨て駒だな」
《その可能性が高いです》
白い部屋の監視面には、迷宮入口前の森が映っていた。
迷宮の外は、余の目が届きにくい。
だが、今はフィルエの契約糸がある。
森の葉擦れ。
靴裏が湿った土を踏む音。
白砂袋の擦れる音。
護衛の苛立った声。
それらが、細い糸を通して白い部屋まで届いていた。
『ロード』
「何だ」
『若い測量士、かなり疑われてる』
「前の調査で死体を置いて逃げたからか」
『うん。正しい判断だったけど、人間側ではそう見られてない』
「人間は面倒だな」
死体を拾おうとして死ぬ。
死体を置いて逃げたら責められる。
どちらに転んでも、迷宮から見れば隙になる。
入口前で、護衛の一人が若い測量士に言った。
「今度は逃げるなよ」
若い測量士は、白砂袋を下ろしながら答えた。
「必要なら逃げます」
「あ?」
「全滅するより、記録を持ち帰る方がいい」
護衛が胸倉を掴もうとした。
だが封迷技師見習いが間に入る。
「やめろ。杭師殿の指示だ。こいつの目は使う」
使う。
その言葉を聞いた時、若い測量士の顔がわずかに曇った。
仲間として連れてこられたのではない。
道具として持ち込まれた。
本人も、それを分かっている顔だった。
「フィルエ」
『うん』
「あいつは、もう人間側で浮いているな」
『浮いてる。でも、まだ落ちてはいない』
「なら、落とす」
《殺害しますか》
「違う」
余は監視面を見下ろした。
若い測量士は危険だ。
戻り水に気づいた。
白砂の異常にも気づいた。
音を捨て、足跡を捨て、死体を捨てる判断までした。
だが、だからこそ殺すだけでは惜しい。
迷宮を測る目。
外へ報告を持ち帰る手。
人間側に疑われ始めた立場。
全部、使える。
「今日は、殺さず落とす」
四人は迷宮へ入った。
入口に白砂を撒く。
細鎖を垂らす。
測水鐘を鳴らす。
ちりん。
澄んだ音が、第一層の湿った通路に落ちた。
若い測量士は、足元を見すぎない。
見たいはずだ。
白砂の筋。
戻り水の濡れ。
影縫いの起点。
その全部を見たいはずだ。
だが、前回で学んでいる。
足元を見れば止められる。
視線を落とせば、天井を見ない。
だから彼は、床と壁の境目を見るように歩いていた。
「厄介だな」
《はい》
「だが、よい」
《よいのですか》
「見る奴には、見せたいものだけを見せればいい」
余は指示を出した。
「影縫い大蜘蛛。白砂には触るな」
《白砂改竄を停止しますか》
「今日はな」
《理由は》
「前と同じことをすれば、あいつは“迷宮が砂を消す”と確信する。今日は消さない。砂を信用させる」
《了解》
「カゲヌイも待機。まだ影を縫うな」
白砂は乱れない。
戻り水も動かない。
測水鐘も、正しく鳴る。
迷宮は静かだった。
護衛の一人が鼻で笑う。
「何も起きねえじゃねえか」
若い測量士は答えない。
ただ、白砂の端を見て呟いた。
「静かすぎる」
「臆病者のくせに、今度は静かだと怖いのか」
「怖いです」
その声に、護衛が一瞬詰まる。
若い測量士は続けた。
「怖いから見ます。怖くないと思った人から死にます」
「……気味悪い奴だな」
よい。
実によい。
人間側で浮くはずだ。
こいつはもう、恐怖を恥だと思っていない。
恐怖を道具にしている。
それはロードに近い。
だからこそ、落としやすい。
四人は第二層《偽封餌場》へ入った。
床下には、蟲の腹。
壁裏には、赤錆噛み。
横穴には、湿骨兵。
天井には、影縫い大蜘蛛。
針路には、影縫い罠師カゲヌイ。
そして奥には、灰刃追跡者。
ただし、最初に動かすのは戻り水ではない。
「マネ」
「ギ」
「護衛の声を出せ。後ろからだ」
「ギィ」
通路の後方で、護衛の声が響いた。
「おい、測量士。戻れ」
四人が振り返った。
護衛本人も振り返った。
「俺は言ってねえ!」
「分かっています!」
若い測量士が即座に叫ぶ。
「声を信用しないで!」
早い。
判断が早い。
だが、全員が振り返った。
その一拍で十分だ。
「赤錆噛み」
《待機中》
「右の護衛。膝具の留め金を噛め」
《了解》
壁裏の細穴から、赤錆色の小さな影が走る。
灰噛みネズミから変質進化した、金属を喰う小さな歯。
赤錆噛み。
戦わない。
殺しに飛びかからない。
ただ、敵が壊れないと思っているものを壊す。
ぎり。
ぎりぎり。
護衛の膝具の裏金に、赤い錆が浮いた。
護衛はまだ気づかない。
偽声に意識を取られている。
若い測量士だけが、視線を落としかけた。
だが、足元を見すぎないという自分の判断を守ってしまった。
だから、見逃した。
膝留めが外れる。
「うおっ?」
護衛の右膝が落ちた。
体勢が崩れる。
その真横の壁が、湿った音を立てて割れた。
湿骨兵の槍が突き出る。
狙いは胴ではない。
膝裏。
崩れた足を、さらに壊す。
「ぎゃあああっ!」
護衛が白砂の上に転がった。
「引け!」
封迷技師見習いが札を構える。
「使うな!」
若い測量士が叫んだ。
「白光に蟲が来ます!」
「じゃあどうしろってんだ!」
「足を切って下がる!」
空気が凍った。
倒れた護衛が、若い測量士を見上げる。
「ふざけんな……!」
もう一人の護衛も、封迷技師見習いも、若い測量士を見た。
正しい。
だが冷たい。
正しいのに、人間の中では許されない判断。
若い測量士の顔が歪む。
自分で言った言葉に、自分で傷ついている。
それでも判断は変えない。
「ここで止まれば、全員死にます!」
「なら、まず一人だ」
余は静かに命じた。
「湿骨兵。殺せ」
二本目の骨槍が、倒れた護衛の首を貫いた。
《対象一名、死亡》
《ソウル獲得:十九》
ソウルが流れ込む。
白い部屋の奥が、わずかに熱を持った。
必要だ。
ソウルがなければ、迷宮は何もできない。
殺して、得る。
得て、育てる。
ロードの仕事だ。
倒れた護衛の死体へ、アンデッドゴブリンが壁裏から這い寄る。
腐った腕で足首を掴み、ずるずると奥へ引きずり込む。
若い測量士はそれを見た。
顔を青くした。
だが、手を伸ばさない。
前回と同じ失敗をしない。
死体は餌だと、もう知っている。
「学んでいるな」
《危険観測餌としての精度が上昇しています》
「だから落とす価値がある」
残った三人は後退しようとした。
そこで、初めて戻り水を動かす。
床下を、細く。
白砂の上ではない。
白砂の下を。
水は流れた。
表面は濡れない。
だが砂の重さだけが変わる。
踏んだ場所が、わずかに沈む。
戻った水が、足跡の下から押し返す。
若い測量士が止まった。
「砂の表面じゃない……下だ」
よく気づく。
だが遅い。
「カゲヌイ」
《待機解除》
「封迷技師見習いの影を縫え」
影縫い罠師カゲヌイの針が、白砂の下へ潜った影を刺した。
封迷技師見習いの足が止まる。
「動けな――」
言い終わる前に、天井から影縫い大蜘蛛の糸が落ちた。
首ではない。
手首。
札を持つ腕を絡める。
「札を!」
残った護衛が剣を振る。
その剣の鍔に、赤錆噛みが飛びついた。
ぎり。
金具が腐る。
振った瞬間、刃の角度がずれた。
糸は切れない。
「灰灯喰い蟲」
《成体一匹、出します》
「札だけ食え。腹いっぱいにするな」
床下から灰灯喰い蟲が飛び出した。
白い札に食らいつき、光を吸う。
ちりちりと白火が散り、札の端が黒く腐る。
封迷技師見習いが悲鳴を上げた。
その胸へ、湿骨兵の槍が入った。
深く。
確実に。
《対象一名、死亡》
《ソウル獲得:十六》
「二人目」
余は息を吐いた。
「ここまでは予定通りだ」
《残存敵:護衛一、若い測量士一》
「護衛は逃がすな。測量士は奥へ落とす」
《了解》
残った護衛は、死体を見た。
封迷技師見習いが崩れるのを見た。
そして、若い測量士を見た。
「お前のせいだ……!」
「違います。下がってください。まだ生きられます」
「黙れ!」
護衛は出口へ走った。
迷宮の外へ。
人間の光がある方へ。
入口へ。
その時、通路の奥で泥が盛り上がった。
ずるり、と床が膨れる。
湿灰と泥が混ざり、骨片を含んだ肉のように盛り上がる。
その中から、巨大なゴブリンが姿を現した。
グズ。
泥門番長ゴブリン。
最初の頃の、そこらで小便を垂れるだけの馬鹿なゴブリンではない。
門を覚えた。
泥を覚えた。
侵入者を押し返すことを覚えた。
迷靄洞の入口を守る、泥の門番。
手には、泥と骨片と壊れた盾の残骸で固めた棍棒。
通路いっぱいに立ち塞がったグズが、濁った息を吐いた。
「グオオオオオオッ!」
咆哮だけで、白砂が震えた。
護衛が足を止める。
「な、何だよ……あれ……!」
若い測量士が叫ぶ。
「出口へ行かないでください! そこはもう出口じゃない!」
正しい。
だが、もう遅い。
護衛は外へ逃げたい。
だから出口を見る。
出口を見た時点で、グズの間合いだ。
「グズ」
余は命じた。
「殺すな。押し返せ」
「グオッ!」
グズが棍棒を横に振った。
護衛は盾で受けた。
だが、受けきれない。
盾ごと体が浮き、壁に叩きつけられる。
骨が軋む音がした。
まだ死んでいない。
だが出口へは行けない。
グズが通路を塞いでいる。
背後には迷宮。
前には門番。
奥には、灰刃追跡者。
若い測量士の顔から血の気が引いた。
「逃げ道を……選ばされている……」
そうだ。
グズは殺すために出したのではない。
出口を奪うために出した。
外へ逃げようとした人間を、奥へ押し返すために出した。
迷宮は奥だけではない。
入口も、すでに腹の中だと理解させるために。
護衛は、恐怖に押されて奥へ逃げた。
若い測量士とは反対方向へ。
「違う! そっちは――」
若い測量士の声は届かない。
奥から、灰色の刃鳴りがした。
灰刃追跡者が現れた。
割れた兜。
落武者のような影。
灰を帯びた刃。
封迷箱の白線を記憶し、白杭の歪みを道として読み、測量線さえ追跡路へ変える魔物。
《灰刃追跡者、封線追い起動》
護衛が曲がる。
追跡者は、すでにその先にいる。
護衛が戻る。
追跡者は、戻り道の線を読んでいる。
迷宮内ならどこまでも追う。
走らない。
焦らない。
ただ、逃げ道の終わりに立つ。
「来るな……来るなああああっ!」
護衛の叫びが、通路の奥で途切れた。
一閃。
《対象一名、死亡》
《ソウル獲得:二十一》
《合計獲得ソウル:五十六》
白い部屋に、静かな熱が満ちた。
いい。
これでソウルは得た。
迷宮は損耗を補える。
蟲の腹も、赤錆噛みの走路も、グズの泥門も、さらに強化できる。
だが、まだ本命が残っている。
若い測量士だけが、第二層に残された。
・
・
若い測量士は、動かなかった。
動けなかったのではない。
動かない方が生存率が高いと判断したのだ。
白砂の上に立ち尽くし、測水鐘を握り、細鎖を垂らしたまま震えている。
後ろには、グズ。
出口を塞ぐ泥門番長。
前には、灰刃追跡者。
逃げ道を先に読む刃。
天井には、影縫い大蜘蛛の糸。
床下には、戻り水。
壁裏には、赤錆噛み。
彼の影の端には、カゲヌイの針。
完全に詰みだった。
《殺害可能です》
「殺すな」
《了解》
『ロード』
フィルエの声が、契約糸から柔らかく響いた。
『ここからだよ』
「分かっている」
余は監視面を見下ろした。
若い測量士は、迷宮の中で一人になった。
仲間は死んだ。
外は彼を捨て駒にした。
中は彼を殺せる。
だが、殺さない。
それが一番怖い。
灰刃追跡者が一歩近づいた。
若い測量士の膝が震える。
グズが後ろで棍棒を床に置く。
逃げ道が、音を立てて閉じた。
「なぜ……殺さない」
若い測量士が呟いた。
声は小さい。
だが迷宮の中では聞こえる。
「マネ」
「ギ」
「余の言葉を真似ろ。ただし、声は若い測量士自身の声で」
「ギィ」
通路に、若い測量士自身の声が響いた。
「おまえは、もう測る側ではない」
若い測量士の顔が引きつった。
自分の声が、自分ではない言葉を喋っている。
その気味悪さに、息が乱れる。
「おまえは、測られる側へ落ちた」
白砂の下で、戻り水が動いた。
表面を濡らさず、砂粒だけを押す。
白砂がゆっくりと崩れ、文字を作った。
⸻
北
⸻
若い測量士が、それを見た。
「北……?」
違う。
戻り水の本脈は北ではない。
だが、人間側にそう思わせる。
そう書かせる。
そう報告させる。
フィルエの契約糸が、若い測量士の足元近くまで伸びた。
直接は触れない。
まだ契約ではない。
だが、道を示すには十分だった。
『ロード、短く』
「分かっている」
マネが、若い測量士の声で続ける。
「生きて帰りたければ、記録しろ」
白砂がさらに動いた。
⸻
戻り水の中心は北側にある
⸻
若い測量士は息を呑んだ。
「嘘を、書けってことか」
余は笑った。
理解が早い。
実にいい。
「嘘ではない」
マネが、若い測量士の声で言う。
「おまえが生きるための地図だ」
「僕が、それを書いたら……」
若い測量士は、震えながら問う。
「次に来る人たちが、北へ行く」
「そうだ」
「死ぬ」
「かもしれぬ」
「僕は、人間を売ることになる」
余は黙った。
ここで甘いことを言うつもりはない。
ロードは人間を救うためにいるのではない。
迷宮が生きるためにいる。
余が消えないためにいる。
「マネ」
「ギ」
「そのまま伝えろ」
若い測量士の声が、迷宮に響く。
「ならば、外へ戻れ。そして外の人間に言え。迷宮は優しかった、とな」
若い測量士が歯を食いしばった。
「……違う」
「そうだ。違う」
白砂の文字が崩れる。
次の文字が浮かぶ。
⸻
選べ
⸻
灰刃追跡者が刃を上げた。
グズが棍棒を握り直す。
影縫い大蜘蛛の糸が、わずかに揺れる。
カゲヌイの針が、彼の影の端に触れる。
殺せる。
今すぐ。
若い測量士は、それを見た。
そして、自分の足元を見た。
白砂。
戻り水。
影。
地図。
彼は測量士だ。
道を読む者だ。
だから分かる。
今、生き残る道は一つしかない。
若い測量士は、測水鐘を床に置いた。
細鎖を外した。
白砂の上に膝をついた。
震える指で、白砂に書く。
⸻
戻り水の中心は北側にある
⸻
その瞬間、カゲヌイの針が影から抜けた。
影縫い大蜘蛛の糸が天井へ戻る。
灰刃追跡者が刃を下ろす。
グズが、出口を塞いでいた巨体を半歩だけずらした。
戻り水が、出口へ向かう細い濡れ道を作る。
《半契約条件、成立》
「半契約?」
《正式な従属契約ではありません。ただし、対象は迷宮の利益となる偽記録を自発的に作成しました》
「分類を変更しろ」
《危険観測餌から変更可能です》
「変更だ」
白い部屋の床に、新しい文字が刻まれる。
⸻
若い測量士
分類変更:
危険観測餌
↓
迷宮の地図に落ちた者
状態:
半契約未満。
迷宮側の偽報告を一度受諾。
記録係候補として監視継続。
聖杭技師からの疑念に注意。
⸻
「よし」
余は静かに言った。
「測量士は、余の地図に落ちた」
若い測量士は、生きて迷宮を出た。
ただ一人で。
護衛二人も、封迷技師見習いも戻らない。
彼だけが、白砂に濡れた靴で森へ出る。
外で待っていた者たちが騒いだ。
「他はどうした!」
「何があった!」
「報告しろ!」
若い測量士は、しばらく何も言わなかった。
喉が震えている。
膝も震えている。
だが、生きている。
迷宮が殺さなかったからだ。
やがて、掠れた声で答えた。
「戻り水を確認しました」
少し離れた場所に、聖杭技師がいた。
白杭に手を置き、静かに若い測量士を見ている。
「場所は」
若い測量士は、ほんの一瞬だけ迷宮の入口を振り返った。
そこには何も見えない。
だが、余は見ている。
フィルエも見ている。
グズも泥の奥で息を潜めている。
灰刃追跡者も、奥で刃を鳴らしている。
若い測量士は言った。
「北側です」
聖杭技師の目が細くなる。
「本当に?」
若い測量士の指が震えた。
だが、声は逃げなかった。
「はい」
彼はもう一度、はっきりと言った。
「戻り水の中心は、北側にあります」
白い部屋で、余は笑った。
大声ではない。
静かに。
だが、確かに笑った。
《敵側へ偽情報が伝達されました》
「まだ完全ではない」
《はい》
「聖杭技師は疑っている」
《はい》
「若い測量士も、まだ余のものではない」
《はい》
「だが、一度落ちた」
監視面の中で、若い測量士が俯く。
彼は人間側に戻った。
だが、もう前と同じ場所には立てない。
仲間を失い、嘘を持ち帰り、迷宮に殺されなかった。
その記録は、彼の中に残る。
殺すより厄介な傷として。
『ロード』
フィルエの声がした。
『グズ、いい仕事したね』
「当然だ。門番長だからな」
入口側の泥の中で、グズが低く唸った。
褒められたと分かっているのか、分かっていないのか。
ただ、棍棒を持つ手に力が入った。
白砂に書かれた嘘の文字は、戻り水に濡れてゆっくり崩れる。
崩れた砂は、迷宮の奥へ戻っていく。
その水音は、まるで報告書が濡れる音に似ていた。




