7月28日 ―4―
俺は自分のアパートに戻った。実家に帰るにあたって、結構準備がいる。
まず、日持ちする食材をまとめること。冷凍して保存してある食材もクーラーボックスに入れて持って行く。これの準備は出かける直前になるだろう。それから、前回実家に帰った時に足りなそうだった日用雑貨をまとめる。
普通こういった日用雑貨とか食材って、実家から仕送りとして来るものじゃないのだろうか? なぜ、俺が実家に持っていかなければいけないのか……。
そんなことを考えながら荷物をまとめていると時刻は九時半にさしかかるところだった。そろそろ着替えようかと思っているとインタホンが鳴る。
何だろうか?
ドアを開けると、アリアちゃんが立っていた。
「兄ちゃん、おはよー」
「……、お、おはよう」
なぜ、アリアちゃんがここに?
「兄ちゃん、聞いたよ。ウチにご飯食べに来てたんだってね」
「えと、うん」
「あたしは、兄ちゃんが帰った後で起きて、一人で寂しく二階でご飯だったよ」
「えと、ごめん?」
そんなこと言われても。俺にどうしろと?
「二人だけ兄ちゃんとご飯食べて、とても悔しかったので遊びに来たよ。麗華が兄ちゃんの部屋教えてくれたし」
「そう、なんだ。えと、上がって」
「いいの? お邪魔します」
帰すのも可哀そうだろう。俺は、六畳一間の我が家にアリアちゃんを通した。
「適当に、寛いでて」
「うん」
短く答えるとアリアちゃんは、迷わずベッドにダイブした。家に上げたものの、あまり構ってあげる時間もない。とりあえず着替えるか。アリアちゃんだし気にすることもないだろう。部屋でこのまま着替えよう。
「なー、兄ちゃん」
「ん? なに?」
「本がいっぱいあるけど、全部、兄ちゃんは読んだの?」
「うん。何か、読みたいのが、あったら、貸すよ? 小説、しか、ないんだけど」
「ホント? じゃあ、えっとねー」
そう言って、アリアちゃんが部屋の五段積みの本棚を眺める。
本は一人暮らしの生活において時間を長く潰せるので、かなり読んでいる。一日丸々カラオケに費やすことは出来ないので、カラオケに比べたら安上がりな本は割と大事な生活必需品だ。実家に居る頃から買っていたものも持って来ているのでかなりの数の本がある。
ジャンルはストーリーのあるものが多く、実用書みたいなものは買っていない。これは俺の完全な趣味だ。だが、その枠内なら、ミステリーや剣客劇、ライトノベルや児童書、ハムレットなどの戯曲まで幅広く抑えている。
「わかんないから、兄ちゃんのお勧めを貸して」
しばらく本棚を眺めていたアリアちゃんだったが、何を選ぶにしても判断基準が無いようで、俺にお勧めを聞いてきた。
「えっと、わかった。アリアちゃん、漫画、好き?」
「うん、好きだよ。難しい本よりずっといいな」
「じゃあ、この辺、かな?」
俺は、戦記もののライトノベルを手渡した。国を異国の王に奪われた王子が自分の無力を痛感しながらも家臣に助けられて成長し、国を取り戻す。主人公は無力で敵は強大。わかりやすくて読みやすい物語だ。
加えて、ライトノベルはマンガの延長みたいな感じがあるからちょうどいいのではないだろうか。女の子向けかはわからないけど、かなり面白い。
「ありがと、頑張って読むよ!」
「頑張ら、なくても」
「いーの。それより兄ちゃん。いつまでそんな格好でいるの?」
俺はアリアちゃんに言われて、ベッドの脇にある全身鏡を見てみた。そこには、ベッドに座って本を受け取る小さな女の子と本を差し出すパンツ一丁の変態が映っていた……。そういえば、着替えの途中だったな。とりあえず全部脱いでしまったのは癖なので仕方なかった。
「えと、そう、だね。すぐ、着替える」
さっさと着替えようと思い、動き出そうとするとインタホンが鳴った。ちょっと待ってもらおう。このままでは出られない。
「はーい」
アリアちゃんが俺の横を駆けて行き、勝手にドアを開けた。
ちょっと待って!
「アリア、居ないと思ったらやっぱりここに居たの。母さんに聞いたら太郎さんの部屋がどこか教えたって言っていたから、もしやとは思ったのよ」
訪問者は彩さんだった。
「兄ちゃんが上がっていいって言ったんだよ、彩ねえ。本も貸してくれるって。ねー、兄ちゃん」
そう言って、アリアちゃんだけこちらに戻ってくる。
「えと、うん」
「太郎さん、アリアと何してたの? そんな格好で」
玄関からこちらを覗いている彩さんが怪訝そうに尋ねてくる。視線が冷たい。
俺、着替えようとしていた訳ですが、何か問題でも?
傍目から見れば問題しかないような気がするが。パンツ一丁の年頃の男と小さな女の子……。最悪の組み合わせだった。良い方に考える方が難しい。
「えと、……着替えを」
「してあげてたんだよ」
「違うよね!」
何で、アリアちゃんに着替えを手伝ってもらわなくちゃいけないのか?
「お、今のは良かったよ、兄ちゃん。やっぱり、兄ちゃんと仲良くなるにはこうするのが一番良さそうだよ」
「いいから、アリアと遊んでないで早く着替えて、太郎さん。その、眼のやり場に困るから」
「あ、うん」
俺はすごすごと着替え始めた。目のやり場に困るって言っていたのに彩さんの視線を凄く感じる。とても気恥ずかしく、居心地が悪い。それにしても、目のやり場に困るなんて彩さんは意外に純情なようだ。
着替えを終えてから、彩さんに声をかけた。
「えと、もう、出れる? 俺、もう少し、準備、あるから、上がって、待ってて」
「いいの? そうね。じゃあ、待たせてもらうわ」
彩さんは家に上がって、ベッドに座るアリアちゃんの横に腰を下ろした。
「ところで太郎さん。何が意外だったのかしら?」
「……何の、こと?」
「私が着替えてって言ったら、凄く意外そうな顔してたわよ」
「いや、えっと、アリアちゃん、連れ帰りに、来たの、かなって。でも、帰るよ、って、言わなかった、から」
「本当のことは言ってない気がするわね。まあ、いいわ。そうね、いつもなら、迷惑だから止めなさいって言うんだけど。太郎さんなら、少しならいいかなって。嫌だったら言ってね」
「……ありがと。その、そうして、くれるのは、嬉しい、かな」
「そう言ってもらえると、私も嬉しいわ」
それから、俺は残りの荷物をまとめ始める。
「それにしても、太郎さんの部屋。綺麗に片付いているわね」
「あたしも思ったよ。なんとなく、兄ちゃんの部屋はごちゃごちゃしてそうな気がしてたのに」
二人とも、迷惑はかけてもいいけど、というか迷惑だと思ってないし。でもね、失礼なのはどうかと思うよ。俺の部屋が綺麗だと都合悪いのかな? しょうがないんだよ。家ですることないと、ついつい掃除してしまうんだから。俺は毎日掃除しているんだよ。
「いや、掃除は、まめに、するので。というか、家事は、結構、好き、だから」
「そうなのかー。じゃあ、兄ちゃん、あたしの部屋も今度、綺麗にしてくれないかな?」
「いや、それは」
「それくらい自分でやりな、アリア」
「彩ねえがちょっとくらいならいいかなって言ったのにー」
「ちょっとじゃないでしょ!」
二人が、また言い合いを始めてしまった。もう、本当に慣れてしまったな。
「まったくもう……。そういえば、本借りたって言ってたわね。何を借りたの?」
「これだよ、彩ねえ。兄ちゃんのお勧め」
そう言って、アリアちゃんが彩さんに両手で持って本を突きだす。どうだ! とでも言わんばかりだ。
「へー、知らない本ね」
「何か、気になるの、あれば、どうぞ」
彩さんも気になるものがあればと思い声をかけたが、反応が無い。
「……。っえ? 私? いいわよ、私は」
「そんなこと言わないで、借りなよ。彩ねえ。いや、借りるべきだよ」
「なんなのよ、その言い方。わかったわよ。えと、じゃあ、ちょっと見せてもらおうかしら」
そう言って、本棚に近づく彩さん。まあ、気に入ってもらえるものがあるかはわからないけど。
……あれ? 本棚にジャンル的にいかがわしい本って置いてないよな。
人がウチに来るなんて想定していなかったのだから、丁寧に隠している訳がない。はっきりどこにやったか覚えていないが、怪しいのは最上段だ。何とかして最上段から目を逸らさなければ。
「へー、シェイクスピアとかも持っているのね」
「どうぞ、持ってって。有名なだけ、あるよ。楽しめる、と思う」
「ありがと、太郎さん。じゃあ、借りていくわね」
戯曲は三段目でまとまっている。最上段にはない。大丈夫だろう。さて、荷作りも終わった。変なものが出て来る前に家を出よう。
「えと、荷作り、終わった、から、行こうか?」
「うん、行こ、兄ちゃん」
「そうね、行きましょう」
二人が答えて、アリアちゃんがベッドから腰を上げ、彩さんが本棚から離れた。
「えと、戸締り、確認してくから、先、出てて」
「わかったよ、兄ちゃん」
そうして、先に二人に出てもらい戸締りを確認した。
気になったので本棚を見ると、彩さんが借りて行った“ロミオとジュリエット”の裏にも、タイトルは読めないが本があるのが見える。本の数が多いので前後二段に入れて、奥にはあまり読まない本を置いているのだった。
何気なく、一冊抜けて傾いてしまった本を避けて奥の本のタイトルを見てみた。
“初めての痴漢”
先に言っておこう。この本は別に、痴漢のハウツー本ではない。ウチにある数少ない官能小説の一冊だ。
弁明があまり、弁明にならなかった気がするのはなぜだろうか? それと、これも言っておかなくては――。
痴漢、ダメ、ゼッタイ。
まあいい。それよりも大丈夫だよな? 見られてないよな? 彩さん、特に反応してなかったし。俺は、今日帰ってきたら危険物を整理することを決意して家を出た。
1時の分はここまでです。
次話から実家へ向かいます。