7月27日 ―9―
プルルル――。
だいぶ歌ったので、そろそろ時間かと思っていると聞きなれた音と共に連絡が来た。受話器を取ったのは俺だ。
「はい」
「お時間が八分前になりました。ご延長になられるかな、太郎君? ご延長になる場合は隣にあるスイッ――」
「結構です、でわ」
いろいろと言いたいことがある延長確認だったが、まさか受話器越しに下らない討論を交わす訳にもいかないのでさっさと切った。もちろん、受話器の横にそんなスイッチは無い。出たのが俺じゃなかったらどうするつもりだったのだろうか?
「あの、十分前だ、そうです。えと、どう、します?」
「ありがとうございます、太郎さん。そうですね、そろそろ出ましょうか。いい? アリア」
「待って、彩ねえ! まだ一曲くらいいけるよね。もう一曲だけ、お願い」
「私は構わないけど。太郎さん、いいですか?」
「えと、もちろん。どうぞ」
「ありがとう、兄ちゃん!」
「で、やってないことって何、アリア? あまり時間はないわよ。早く曲選んで歌いな」
「うん、時間はないから早くした方がいーね。でも歌うのはあたしじゃないよ。彩ねえと兄ちゃんの二人」
はい? これはまた、唐突によくわからないことを言われた。
「何で私と太郎さんが歌わなきゃいけないの? 太郎さんはどうかわからないけど、私はもう、今日は十分に歌ったわよ」
「歌った数は関係ないんだよ、彩ねえ。今日、あたしは兄ちゃん、彩ねえと一緒に歌ったけど、二人が一緒に歌っているのはまだ見てないよ。だから、歌って」
「また太郎さんを困らせるようなこと言って。私は別にいいけれど、それは必要なことなの?」
彩さんが溜息をついて尋ねた。アリアちゃんのこういう突然な言動に呆れているのかも。単に俺と歌いたくないということも十分にあり得るが。
「必要だよ! だって、兄ちゃんは『彩』のメンバーになったんだよ。だったら、仲良くなるためにデュエットをするのはカラオケにいれば必然なんだよ」
そんな必然は初耳だ。だが喋るのが苦手な俺としては、それが上手くやっていくための方法としてアリならやっておきたいと思った。
「えと、……俺も、その、歌い、たいです」
「ほら、兄ちゃんもああ言ってるし。じゃあ決まりだね」
「そうね。太郎さんがいいのなら、いいわ。太郎さん、私の知ってる曲から選んでもらっていいですか?」
「は、はい」
そうして二人で選曲を始める。その様子を見ているアリアちゃんは満足そうだ。しばらくして、曲を決めた所でアリアちゃんが口を開いた。
「ところで、彩ねえ」
「何?」
「さっきため息ついてたけど、やめた方がいーよ」
「それは、どういうことかしら?」
なんだか、話の雲行きが怪しいと思った。彩さんが、ある程度アリアちゃんの回答が見えるのに、あえて確認するあたりにも不安が過る。
「幸せが逃げるよ。ついでに、老けてるよ」
やっぱりだった。二人の今日の会話から、彩さんの外向けの態度を崩させるためにわざとやってるのかと思っていたけど、もはやただのアリアちゃんの趣味なような気がしてきた。老けてるって、……言いたいだけじゃないのか?
「いいのよ。その程度で逃げるような幸せになんて興味ないわ」
彩さんの回答はとても格好いい。
「それより、今の、ふ、老けてるっていうのは、溜息とは関係のないことだったわよね!」
でも、格好良さは続く言葉で霧散してしまった。過剰に反応して声が震えてる。
「ごめん、彩ねえ。間違えちゃった。ホントは余計に老けこんで見えるって言おうと思ったんだよ」
「それはつまり、溜息を吐いた時に余計に思える程に、私のことを老けてると思って見ていたということでいいのかしら?」
だから彩さん……、声が震えてます。
「違うよ、彩ねえ。またおばちゃんとか言われたら、彩ねえは今度こそ犯罪に走る気がするから警告してあげてるんだよ、あたしは!」
「余計なお世話よ! そういえば、この部屋に入った時のことも保留にしてたわね。……そうね。もう私が溜息を吐かなくて済むようになればいいのよね」
彩さんが、口元に薄らと笑みを浮かべた。それを目にした俺は、思わず入口付近までじりじりと身を引く。
「うん。だからおばちゃんなんて言わせないために、アンチエイジング的なのもいいんじゃないかな? より良くするための努力は大事だよね」
アリアちゃんは気にせず会話を続けている。なんだ? 問題ないのか? ドア付近まで思わず逃げてしまった俺が馬鹿みたいじゃないか。
「そうね、より良くするための努力ね。アリア、私は努力することに決めたわ。まずは、あなたを黙らせることから始めるわね♪」
ここに来て初めて自身の身の危険を察知したのか、アリアちゃんがもの凄い勢いで俺の後ろに隠れた。――やはり、アウトだったようだ。
「ご、ごめん、彩ねえ。あたしが悪かったよ。だから、一度れいせいに話しあお?」
「そう? じゃあ何が悪かったのか言ってみな?」
「えっ? えっと……」
「まさか、自分の何が悪いのかわかってないのに適当に謝った――なんてことはないよね、アリア?」
「……えっとね、そのね」
どうやら打開策がアリアちゃんには無いみたいだ。どうしようか。時間もある訳ではないので、ここは何とか丸く収める方法を考えないといけない。
俺としては現状、アリアちゃんの方が話しやすい。だから、アリアちゃんからの搦め手で彩さんの矛を収めさせる必要がある。
「アリア、正直に今思っていることを話したら、私も手を引くことを考えなくもないわ」
「ホント?」
「ええ、ホントよ」
アリアちゃん、何か揺らいでいるようだけど、断言してないからね。
「あたしは、彩ねえにもっと、あたしと接するように普段からふるまってほしいって思ってるよ。それに彩ねえには、なるべく今の綺麗なままでいてほしーとも思うよ」
これは、中々に良い線をいっている回答ではないだろうか? アリアちゃんが本音を言うことに危機感しか感じなかったが、俺が頑張らなくても何とかなりそうだ。
「そう、で?」
だが、そんな回答に彩さんは冷たい返事で続きを促した。
「だから、つい本当のことを言って怒らせちゃったり、彩ねえが老けて綺麗じゃなくなっちゃうのが心配になっちゃったりするんだよ」
「本当の事、さっきの私が老けてるってのが本当の事、ね……。良かったわね、アリア。どうやら、私の溜息の原因が今日、取り除けるみたいよ」
……この子も彩さんと同じだ。言葉を重ねると悪い方にしか転がっていかない。
「よかったね、彩ねえ!」
良くない、良くないよ!
「それにね、彩ねえ。今日は兄ちゃんと会って、『彩』のメンバーにもなってくれたんだよ。彩ねえには、あたしと接するみたいに兄ちゃんと接してほしーよ。それに、兄ちゃんも本当の彩ねえがどんなに怖い人なのかは知っておいたほうがいいと思ったんだよ」
なるほど、彩さんが怖いのは会ったときから若干感じていたよ、アリアちゃん。だから、彩さんにアリアちゃんに接するみたいにされたら、俺は泣いてしまうかもしれない。でも、そんなことより、それを今言うのは火に油な気がするね。
「ん、アリア。私のどこが怖い人なのかしら?」
彩さんが、完璧な笑顔で俺の方を見ている。正確には俺の後ろにいるアリアちゃんを。そして、表情を笑顔で固定して少しずつこちらに近づいてくる。
俺の手が震える。完成された笑顔がこんなに恐ろしいとは思ってもみなかった。笑顔は見とれたい程に綺麗なのに、怖くてそんな余裕は無い。その裏に激情が見え隠れしている。俺の前まで来て、彩さんが口を開いた。
「太郎さん、少し退いてもらえますか? そいつに手が届かないので」
退きます、退かせて下さい、お願いだから、アリアちゃん。俺の服の裾を離して下さい。
「えと、ど、退き、たいのは、そうなん、です、が」
「そうですか、太郎さん。太郎さんはアリアの言うことを聞くんですね。太郎さんもアリアと同じように思っているんですか?」
えっと、大体は。とか答えられる空気じゃない。どうする?
「答えられないんですね? 太郎さんにまでそんな風に思われているなんて、会って初日で残念ですけど、太郎さんともここでお別れになってしまうなんて、残念です」
俺もこんな終わり方は残念過ぎると思うんですよ、マジで。
ここは、アリアちゃんに間違っていたと認めてもらうのが一番だろう。俺だって我が身は可愛い。決意をした俺は、アリアちゃんの手を服から離させる。勢いよく振り向き、アリアちゃんと目線を合わせ、両の肩に手を乗せた。
そして、その目を見てゆっくりと、どもらないように言葉を告げる。失敗は許されない。俺はまだ、死にたくない。
「いいかい、アリアちゃん。彩さんにそんなことを、言っては駄目だ。まず、彩さんが老けて、いるなんてことはない。まだ、十代の彩さんが、老けてる訳、ないんだよ。もし、アリアちゃんに、そう見えるなら、それは、大人びて、見えているだけだ。老けとは訳が違うよ」
頼む! 乗っかって上手い返事をして! 変な事しか言えていないがこれが俺の精一杯だ。……アリアちゃんは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに答えてくれた。
「う、うん。そ、そうだよね。彩ねえは老けているんじゃないよね。あたしは、勘違いをしてたみたいだよ、彩ねえ。大人びてるのと老けとの見分けがつかないなんて、あたしはまだまだ子供だよ」
「そうかしら? じゃあ、アリア。確認するわよ。私は溜息を吐くとどう見えるの?」
「も、ものうげなおとなのみりょくがまんさいだよ! 彩ねえ!」
「よろしい。アリア、次は無いと思いなさい」
よし、これでとりあえず、老いの話は解決だろう。だが、もう一つ俺にも関係する話がある。
また、数話まとめての掲載です。
お付き合い頂いている皆様、本当にありがとうございます。