最後の夏
恭一と約束した日、私が波浜に着いたのは夕方だった。
ホテルに着いて部屋のベランダに出ると、海水浴場が見えた。海水浴客はまばらだったが、夜まで営業している海の家からダンスミュージックが響いていた。
「いま着いた」と連絡したら「そっちへ行くよ」と恭一がやって来た。久しぶりに見た恭一はあまりにも変わっていなかった。昔と同じように日に焼けていて、ひょろりと細くて、そして笑顔だった。
私たちは、海岸を歩いて、ハンバーガーを食べに行くことにした。
日が落ちた海は、夜行虫がきらきらと光っていた。
この海の夜行虫は他の地域よりも明るいらしい。これも龍穴の影響だと何かで読んだ。海に足をつけるとキラキラと光が舞うように見えた。浅瀬をちゃぷちゃぷしている私を、恭一は笑って見ていた。
「夜の海って吸い込まれそうな気がする」
と私は言った。
「わかるよ。でも危ないからあんまそっち行くな」
「真面目だなあ」
「ねえ、サークル入った?」
夜行虫が光る海を見ながら私は訊いた。
「はいってない」
「彼女できた?」
「いない」
「え?なんで?」
「なんでって言われても。自分は?」
「1月に別れた」
「なんで?」
「なんでって言われても」
「いや、いた場合はその返事じゃないでしょう」
「明日朝迎えに行くよ」
とハンバーガーを食べたあと別れ際に恭一は言った。
「ねえ私、明日龍穴とさ、それと水族館行きたい。去年リニューアルしたんでしょ?」
「お、じゃあ早起きだな。10時にここに来るよ」
「うん。じゃあ、おやすみ」
ーーーー
翌日水族館に行くと、私の見知った水族館じゃなくなっていた。
「え、やばいんだけどチケット3,000円もする」
「知らなかったの?」
「ここ小学校のとき校外学習で無限に来たじゃん?あの時の印象でどうしてもタダだと思ってしまう」
「おこがましいな。もう大人なんだから黙って金払う」
「あーもう。わかってるよ」
入場すると展示内容も全然記憶と違っていた。私たちはぐるっと順路の通り回った。
「シャチいるよ、シャチ。ねえ、シャチとイルカって何が違うの?」
「シャチのがでかいの。どっちもイルカの仲間」
「さっすが詳しーい」
「おおまかせとけ」
「魚は得意だもんね」
「イルカは哺乳類だけどな」
恭一は、子供のころから魚にはめっぽう詳しかった。そのうえ、龍穴の影響を受けた生物の研究をしたいと言って、その研究室がある大学に進学したから、順調に魚博士への道を突き進んでいるとも言える。就職に有利そうだからなんとなく、という理由で商学部に進学した私とは大違いだ。
水族館には地元の魚の展示コーナーがあった。普通の銀色の魚と、白く光る魚、両方が展示されていた。
龍穴ができた直後、最初に話題になったのは、魚が白く光るということだった。テレビや新聞もやってきて、やれ環境被害だとか、汚染の可能性だなんて報道していた。当時小学生だった私たちにとっては、白く光る魚は格好のおもちゃだった。海に繰り出しては、光る魚がいないか探したものだ。
その中で恭一だけは興味の向け方が特殊で、海で釣りをして魚を捕まえてはその魚の絵を描いていた。龍穴の影響を受けた魚とそれ以外の魚の差を見たいんだと言っていた。外側の絵を描くと魚を捌いて内臓も見て、それもまた絵を描いた。
「台所が臭くなるからやめてほしい」
と文句を言いながら、恭一のお母さんは毎回その魚を天ぷらにして振舞ってくれた。光っていてもいなくても、味に差は感じなかった。
「恭一が昔ずっと釣りして解剖してたの懐かしいよね、まじでマッドサイエンティストだった」
と展示を見ながら私は笑った。
「いまでは人並みに綺麗とか思うぞ」
「いままで思ってなかったんだ」
水族館から龍穴に向かって歩くと町は知っていた姿とは別物になっていた。よく食パンを買ったパン屋がなくなって薬局になっていたし、駄菓子屋が駐車場になっていた。
「ここなくなったんだ。切ない」
「なくなったとき高3だったからまだいただろ?」
「え、知らない」
「閉店セールしてたじゃん」
「受験の真っ最中になんでそんなこと気付けるの?そっちのほうがびっくりなんだけど」
「駅行く時にここちょうど通るの。めっちゃお菓子買いまくった」
「いいなあ、教えてくれたらよかったのに」
龍穴があるのは、海に張り出した小さい山の上だ。私は、山登りは暑いから死んじゃうと言って、ロープウェイを使った。
が、いざ入ってみるとロープウェイは空調がなくて激暑だった。
「やばい、暑い。蒸し焼きになっちゃう」
「これ、ワンチャン歩いて登った方が楽だったんじゃね?」
と言いあった。
山上には、観覧車とメリーゴーランドだけがある小さな山上遊園がポツンとある。観覧車は龍穴の影響で白く変色していて、まばらにいる観光客がそれを写真に収めていた。
山上遊園を通り越して、少し登ると、龍穴がある。といっても、龍穴周辺は立ち入り禁止になっていて、高いフェンスが張り巡らされている。私たちは、そのフェンスの前まで歩いていった。フェンスの隙間からは、ただ続いている雑木林だけが見えて、龍穴そのものは見えない。
その時ふと思い出した。私たちは、あのフェンスを越えたことがあったのだ。
「昔さ、あそこ入っていったじゃん。覚えてる?」
と私は訊ねた。
「覚えてるよ」
と彼はさもあたりまえのように言った。
あれも小学生の時だ。龍穴を実際に見たいと恭一が言い出して、立ち入り禁止区域のフェンスを登って越えたのだ。フェンスの向こうは、そこまでの整備された登山道とは違い、下草が生え放題の森と化していた。当時まだ小さかった私たちの足では歩くこともままならなかった。なんとか掻き分けながら進んでいくと、途中で前を歩いてた恭一が悲鳴を上げ、視界から消えた。
何事かと思って周囲をきょろきょろ見ると、恭一は1メートル程下に滑落していた。
「え、うそ、大丈夫?」
「うん、とりあえず」
私は手を出して恭一を引っ張り上げた。大丈夫と言っていたが、顔が歪んでいた。
「どっか痛い?」
と聞くと、
「足やったかも」
と恭一は答えた。
あとで分かったことだが、恭一は軽い捻挫だった。私たちは、それで探検を諦めて引き返した。家族には、立ち入り禁止区域に入ったことは黙って、ただ転んで足を挫いたと説明した。
「去年、俺またこの中に入ったんだよね。うちの学部で龍穴の研究してる教授に無理言ってついて行かせてもらって。やってたことは、土壌調査の土掘り返したり、調査対象の生物を捕まえる手伝いをしたりみたいな雑用なんだけどさ。あの時めちゃくちゃ大変だった道とかもう別に大人だからなんか普通に歩けるようになっててさ。ちょっと懐かしかった」
恭一は目を細めながらそう言った。
「実際龍穴のすぐそばまで行って、肉眼で見れたんだ。10年越しに夢が叶ったわ、って思ってちょっと感動した」
でもさ、と恭一は言葉を続けた。
「あの時は、何見ても新しくて面白くて、龍穴を見にいったのも人生最大の大冒険って感じだったのに、実際たどり着けちゃうとなんだか大したことないような気がしてさ。なんかちょっと意外だったんだ」
その顔はあまりにも寂しげだった。でも私もなんとなくわかった。あの頃はあまりにも全てがキラキラしていたのだ。毎日釣りして魚を観察していたことも、親に黙って龍穴を見に行こうとしたことも、私にとっては美しすぎる思い出で、それはきっと恭一にとってもそうなんだろうと思った。
「あれより面白いことなんてあるのかな、って最近よく考える」
恭一は静かに言った。私は少し黙って、言葉を探した。目の前にあるフェンスは白く変色していた。このフェンスもまた、龍穴が封鎖されたらなくなってしまうのかもしれないと思った。
「私留学しようと思う」
と私はわざと明るい声で言った。
「え、そうなの?海外とか興味あったんだ」
「いや、今決めた。なんかまだ見たことない世界?があるかもって思ったんだ」
「うわ軽」
「いいでしょ別に。そんなもんでしょ」
「そうだな。俺もなんか見つけなきゃな」
「大丈夫だよ。100歳まで生きるとしてあと80年も時間があるんだから、もっと面白いことなんかいくらでも見つかるよ」
なんだか言いながら涙ぐむのを感じた。
「なんでお前が泣くの?ねえちょっと」
「泣きたいからだよ。いいでしょ別に」
「ていうか100歳まで生きるの?野心的だな」
「私は科学と医学の進歩を信じてる」
「そっか。じゃあ、俺も信じる」
恭一は苦笑しながら言った。
私はじゃあまたね、と言って電車に乗って東京に向かった。
光る魚も、白い鳥ももう見られないんだと思った。子供のころは同じ世界が永遠に続くと思っていた。そうじゃないものばかりだった。
電車の窓から海が見えた。私はゆっくりと目を閉じた。
するとその時、LINEの通知が鳴った。
「また来いよ」
何て返すか少し迷って、スタンプを返した。




