第19話
黎皇子の触れる手から伝わる温かさに、麗華は、自分が彼にとっての**「色彩そのもの」**になっているかのような、不思議な感覚を覚えた。
彼の心に、自分が描く色が、希望の光として灯っていく。
その事実は、麗華の心を深く満たした。
しかし、麗華と黎皇子の間に育まれる絆は、宮廷の深奥に潜む者たちの思惑を、さらに複雑に交錯させていた。
翌日、麗華は、翠蘭と林と共に、新たな染料の調合に取り組んでいた。
今回の目標は、黎皇子がまだ認識できていない「黄色」の感覚を、彼の心に届けることだった。
(黄色は、光の色。喜びの色。希望の色……)
麗華は、慎重に材料を選び、配合を調整した。
彼女の指先が、まるで生き物のように、正確に動く。
その横で、翠蘭が心配そうな顔で尋ねた。
「麗華様。皇后様が黎殿下とのご面会を制限しないと仰せになったとはいえ、煌淵殿下は、きっと黙っていないでしょう」
「ええ。それに、煌峻殿下も、麗華様の力を利用しようと画策しているはずです」
林もまた、警戒心を露わにした。
麗華は、深く頷いた。
「わかっているわ。だからこそ、わたくしたちは、一瞬たりとも気を抜いてはならないのよ」
麗華は、今回の染料が持つ意味を考えていた。
「黄色」は、煌国の象徴の色でもあった。
黎皇子にその色を認識させることは、彼の心の回復だけでなく、彼が煌国の次期皇帝として覚醒する一助となるはずだった。
その頃、煌淵皇子の屋敷では、焦燥に駆られた煌淵が、張を怒鳴りつけていた。
「皇后が、あの廃皇子の接触を容認しただと!まさか、母上まであの女の術中に落ちたというのか!」
煌淵の顔は、怒りで歪んでいた。
「殿下、皇后陛下の意図は、まだ定かではございませんが……麗華妃の言葉には、確かに人心を動かす力があります」
張は、震えながら報告した。
「くそっ……!ならば、より巧妙な手を打つまでだ。あの女を、宮廷から追い出すだけでなく、あの廃皇子を完全に無力化する策を」
煌淵の瞳には、かつてないほどの憎悪が宿っていた。
彼の心には、麗華への嫉妬と、黎皇子への劣等感が渦巻いていた。
一方、煌峻皇子の屋敷では、李が麗華の故郷に関する新たな情報を持ち込んでいた。
「殿下。麗華妃の故郷『彩の里』の言い伝えに、『色の乙女』と呼ばれる存在の記録がございました」
煌峻は、興味深そうに身を乗り出した。
「色の乙女、だと。詳しく話せ」
「はい。『色の乙女』は、特別な感応力を持ち、人の心の状態を色彩として感じ取ることができたとされます。そして、その色彩を染料に込めることで、心の病を癒し、運命を切り開く力を持っていたと」
李の言葉に、煌峻の瞳が鋭く光った。
「なるほど……。麗華妃は、まさにその『色の乙女』の末裔というわけか」
煌峻の心には、麗華の力が単なる染色技術ではなく、より根源的な「精神への干渉能力」であるという確信が芽生えていた。
「李よ。麗華妃の力を、完全に解明せよ。その力を、私が自由に操れるようになれば、この煌国の全てが私のものとなる」
煌峻は、静かに、しかし恐ろしいほどの野心を秘めた目で呟いた。
彼は、麗華の力を手に入れるためなら、どんな犠牲も厭わないだろう。
数日後、麗華は、黎皇子の離宮を訪れた。
彼女の手には、鮮やかな「黄色」に染められた、小さな扇子が握られていた。
離宮の警備は、以前よりは緩和されたものの、それでも厳重だった。
麗華は、黎皇子の部屋の扉を開けた。
黎皇子は、窓辺に置かれた書見台の前に座り、静かに書物を広げていた。
彼の横顔は、以前にも増して凛々しく、そしてどこか憂いを帯びた美しさがあった。
麗華は、黎皇子の変化に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼が、少しずつ、外界に心を開き始めている。
その変化は、紛れもなく麗華がもたらしたものだった。
「黎殿下」
麗華の声に、黎皇子がゆっくりと顔を上げた。
彼の黒い瞳が、麗華の姿を捉えようと、微かに揺れる。
その視線が、麗華の心臓を直接掴んだかのように、ドキリとさせた。
(ああ、なんて美しい方なのだろう)
麗華は、改めて黎皇子の容姿に見惚れた。
彼の白い肌と、漆黒の髪のコントラストは、まるで夜空に輝く月と星のようだった。
そして、その憂いを帯びた表情は、見る者の心を惹きつけてやまない。
麗華は、小さく息を吸い込み、黎皇子の元へと歩み寄った。
「麗華。来てくれたのだな」
黎皇子の声は、以前よりも温かく、麗華への親愛の情が込められているのが伝わってきた。
麗華は、その言葉一つで、心が震えるのを感じた。
(殿下の声が、こんなにも優しくなった……)
麗華は、黎皇子に扇子を差し出した。
「黎殿下。本日は、この色をお持ちしました」
黎皇子は、扇子をそっと受け取った。
彼の指先が、扇子の絹の感触を確かめる。
その瞬間、彼の心の中に、温かく、そして明るい光が差し込んだかのような感覚が広がった。
それは、これまでの「青」や「桃色」とは異なり、もっと直接的で、心を満たすような感覚だった。
彼の視界の奥に、微かな「黄色」の光が、点滅するように現れた。
まだ、具体的な色として認識できてはいない。
だが、その光は、彼の心に確かな「喜び」をもたらした。
「……光、のようだ。そして……温かい」
黎皇子は、信じられないというように、扇子を見つめた。
彼の顔には、驚きと、そして純粋な喜びの表情が浮かんでいた。
「はい。これは、黄色の色です。太陽の色、黄金の色。希望と、実りの色です」
麗華は、黎皇子の言葉に、心の底から嬉しさがこみ上げてくるのを感じた。
(殿下が、今、この色に、希望を感じてくださっている……!)
その喜びは、麗華自身の心にも温かい光を灯した。
黎皇子は、扇子を握りしめ、麗華の方を向いた。
彼の瞳は、まだ完全ではないが、麗華の顔の輪郭を、以前よりもはっきりと捉えようとしているようだった。
そして、彼の顔に、かつて見せたことのない、穏やかな笑みが浮かんだ。
その笑みは、麗華の心を射抜いた。
麗華は、彼の微笑みに、ドキリと胸が高鳴るのを感じた。
(こんなにも、殿下は美しく笑うことができる方だったのね……)
彼が魅力的だと感じさせるのは、その容姿だけでなく、彼が心を開き、感情を表現し始めたことだった。
彼の内面から溢れる光が、麗華の心を強く惹きつけた。
黎皇子は、麗華の手に、そっと自分の手を重ねた。
その触れ合いに、麗華は全身が痺れるような感覚を覚えた。
(なんだか、ずっと見てしまいそう……)
麗華の心は、彼への切ないほどの愛情で満たされていく。
彼の指先から伝わる温かさは、麗華の心に、これまで感じたことのない安らぎを与えた。
「麗華。そなたは、私の世界に、光をもたらしてくれた」
黎皇子の声は、静かに、しかし深く響いた。
その言葉は、麗華にとって、何よりも尊い褒め言葉だった。
麗華は、彼の言葉に、瞳を潤ませた。
彼との絆が、日を追うごとに深まっていくことを実感した。
しかし、その穏やかな時間は、長くは続かなかった。
数日後、宮廷から新たな通達が発せられた。
それは、煌国全体の文化の向上を目的とした「色彩振興会」の設立を告げるものだった。
そして、その会長には、麗華の他に、煌峻皇子が名を連ねていた。
(煌峻殿下が……!?)
麗華は、その通達に、強い警戒心を抱いた。
煌峻皇子が、自らの野望のために、麗華の力を利用しようと動き出したのだ。
新たな役職は、麗華の行動範囲を広げる一方で、煌峻皇子との接触を増やすことを意味していた。