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「……どうげん。ひさしぶり。こんなとこであうなんてめずらしい」
男は長い前髪の隙間から片目を覗かせ、思いもよらない来訪者の名を呼んだ。
「何、この辺りに野暮用があったからな。もしかしたら、あんたがまだここにいるかもしれないと思って立ち寄ってみただけだ」
どうげん――火之道間は、今朝がた降り積もった雪を踏み分けながら男に近づく。火之が一歩進むたび、彼の手にしている錫杖からは、シャンと涼しげな音がした。
「――……」
男はふっと息を漏らすように笑い、背を預けていた大木から立ち上がる。
「それにしても驚いた。あんた、まだここにいたんだな」
「まぁ、ね」
そう言って笑う男の頭にはツノが一本生えていた。側頭部――といっても左側だけだ――にある太いツノは、奇妙に捩じりながら天に向かって伸びている。
――異形だ。
ツンと尖った耳も、にやりと笑う口元から覗く牙も、和服のようにも見えるが奇天烈な服装も――そのすべてが、彼がただの人ではないことを示している。
「どうだ。目的は果たせそうか?」
火之が訊くと、男は小さく首を振る。
「どうげんは?」
「おれもまぁ……、まだ難しそうだ」
言って火之は眉根を寄せた。火之はもとから強面であったから、このように渋い顔を作るといっそうに迫力が増す。容貌のこともあり、普通の人間ならば近づきたくはないだろう。
容貌――。
そう、火之もまた、男と同様に異形であった。
浅黒い肌、額に生えた二対のツノ、僧侶のような恰好でありながら、その眼は鋭い。
ただ男と違い――火之は歴とした人間で、《探偵》だった。
かつて請け負った仕事で対峙した《異形の者》をその身に封じ、以降この姿になってしまっただけで、鬼のような外見であっても中身は「人間」なのだ。
「どうげん、たいへんだな」
「それはおまえのほうこそだ。こんな雪山の中で何年も……。よくやる」
男は曖昧な笑みを浮かべた。肯定も否定もしなかった。
「…………」
火之は黙って男を正視する。男は笑みを浮かべたまま――木刀をさすっていた。
「……おれは、おまえが木刀を人間相手に振るったと耳に届くまでは、何もする気は無い。だが――」
わかっているな、と火之は続けたが、男はやはり何も言わなかった。
「じゃあな。おれはそろそろ行く」
「うん」
火之が踵を返すと、額に冷たいものがぶつかった。
――雪が降ってきたのだ。
「ねぇ」
早めに山を下りなければ面倒なことになりそうだ――と、火之が大きく足を踏み出した時、背後から声をかけられた。
「――……」
ゆっくりうしろを振り向くと、男は手持無沙汰なのか木刀を弄んでいるところだった。
「なんだ」
火之が訊く。
「そういえば、いっておいたほうがいいかもしれないとおもって」
「……なんだ?」
「――きつねがみやこに行くよ」
「都? 東京か? 狐が……東京に?」
男はこくりと頷いた。
「きつねは、たびをする。このあいだひさしぶりにあった。『そろそろみやこにかおをだしてやろう』って」
「……狐、か。あんたと話してるんだから、動物の狐ってことはないだろう。――《異形の者》か?」
火之の問いに、男は首を傾げる。
「なんだ、何かの隠語か?」
男はまたしても首を傾げた。火之は嘆息し――埒が明かない、と話を続けた。
「――で、狐が東京に行くことがなんだ? 東京に来たら何か起こるのか?」
「さぁ」
「さぁ、はないだろう。わざわざ引き留めてきたというのに」
火之は眼光鋭く男をねめつけた。――が、男はどこ吹く風で、再び「さぁ」と肩を竦める。
「しらない。おれはあいつがなにをするか……するつもりなのか、しらない」
言って男は、「けど」と目を細めた。
「あいつになにができるかはしってる。――あいつ、むれをつくる」
「群れ?」
「むれ。ええと、なんていうんだったか――」
男は言葉を探すように空を見た。すぐにふさわしい言葉が思いついたらしく、パッと表情を明るくさせ、口を開いた。
「しんじゃ、だ」
「信者……」
「そう、しんじゃ。あいつ、めんどくさがりだから、しんじゃつくる。それでらくする。あいつはそんなにはらへらない。だけどときどきへる。だけどしんじゃがいるからだいじょうぶ。あいつ、さいごに『はらがへった』っていってたからさ」
「なっ……!? ちょ、ちょっと待て、整理する……!」
男の説明は言葉足らずで要領を得ない――が、それでも何か危険なことを話していた気がした。火之は男の言葉を反芻し、「つまり」と片ツノの鬼を見た。
「狐の《異形の者》が東京に行き、人間を喰らうと宣言した――ということか?」
男は弄んでいた木刀で自らの肩をトンと叩き、
「さぁね」
と短く答えた。
「でも、そうなるかもな。――これ、どうげんのしごとだろ?」
そう言って男は「あー……」と間延びした声を上げた。
「……? なんだ」
「どうげんは、あわないほうがいい。――あいつも『ひ』を使う。ながびくよ、たたかえば。あいつ、ほんきでやればそこそこつよい。めったにほんき、ならないけど」
「………………」
火之は目を伏せ、腕を組んだ。錫杖がシャン、と鳴る。
「おい、東京のどこへ向かうか話していたか?」
「いや」
「……だろうな」
火之は、唸りをひとつ上げ「一口に東京と言っても広い」と呟いた。
「やくにたたないか?」
「いや……。小耳に挟んでおくだけでも違うだろう」
言って火之は軽く頭を下げる。――と、わずかに頭の上に降り積もっていた雪が落ちた。
「知り合いにも知らせておく。もしかしたら何かの役に立つかもしれない」
「そう。おれ、あいつけっこうきにいってる。だからいうかちょっとまよった。――けど、どうげんとは……ま、へんなえんがあるし」
そう言って男はツノをさすった。ツノ繋がり――とでも言いたいのだろう。
「ふ……」
人間である火之にとっては忌々しいツノだ。だが男の仕草にはユーモアがあった。
「はは」
つい吹き出した火之につられるように男も顔をほころばせた。
「それじゃあな。下りられなくなる前に行く」
「それがいい。じゃあな」
「ああ。次会う機会があるかわからないが――また近くに来たら立ち寄ろう」
「おたがい、いきてたらあえるな」
火之はこれにニヤリと口角を持ち上げることで答えると、何も言わず山を下った。
片ツノの鬼のその後の行方は――今はまだ謎である。