【百匹目の猿現象】
暗転
ぴるぴるぴる。
「……」
ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。
「……う……?」
ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。
どこかで内線だか外線が鳴っていた。
一向に鳴り止む気配はないので、かけてきた相手は急を要しているかもしれなかった。けれども眠くて眠くてしかたない僕には起き上がって応対するだけの余力がない。
ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。
「……う……う……?」
微睡みに委ねたくなる気持ちに抗いながら、僕は目を瞑ったまま手を伸ばしてーー。
見つからない。
どこに向かって腕を伸ばしても受話器は指にかすりもしない。
切れる前に出なくちゃいけない気がして、重たい瞼を何とか持ち上げーー
「…………うへ?」
ふと気づくと見知らぬ廊下の真ん中で突っ立っていた。
てっきり眠っていたと思ったのに何故、こんな場所にいるのだろうか。夢遊病にでもなったのかしらと自らを疑いたくなるほどに前後不覚だ。
「どこ?」
廊下は延々と続き果てが見えず、等間隔に左右対称に並ぶドア。
ただ正確に言えば左右対称ではない。
何故ならポスト口に新聞がこれでもかと詰め込まれたドア、スプレー缶で罵詈雑言が書かれたドア、何故か板に釘を打ち付けて厳重に封印されているドア、無数のお札が貼られたドアや、文字化けした表札のかかったドアーーどれひとつとっても形状や色が違っていて個性豊かだったからだ。
マンションの廊下のようでもあり、何処かの施設のようでもあり、ドアの見本市といえばそうでもあった。だが何よりも不可解なのは僕は何故ここにいてどういう経路で辿り着いたのか皆目思い出せないでいること。
ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。ぴるぴるぴる。
「ああ電話に出るんだった」
背後からのベルに振り返るとーー公衆電話のボックスがあった。
内部にある緑色電話機がぴるぴると誰かが受話器をとるのを待ち続けている。
釈然としない思いに駆られながらも僕はドアを開け、恐る恐る受話器を取った。
「もしもし?」
「やあ早速だけど授業を始めようか」
女の声だった。
いや、だれだよ?
「1979年、生物学者ライアル・ワトソンが出版した『生命潮流』。
そこにある『百匹目の猿現象』という言葉ご存知だろうか」
電話の向こう側にいる女性らしき人物は名乗りもせずに、一方的に何かよく分からない話をし始めた。
「いや、どなたですか?」
「例えば猿の一頭がイモを洗って食べる事を覚える。するとそれを見た猿が真似をする。
そうやって「洗う」という行為の模倣が延々と繰り返された100匹を超えた結果、何が起きるか?」
何が起きるか言われても。
こちらの至極当然な質問はスルーですか。
「突然遠く隔てた場所にいた猿の群れでも同じ行動が見られるようになったんだ」
「……」
「「ある行動、考えなどが、一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」現象。
つまり専門用語でいうところの集団的自我やテレパシーというやつだね」
僕は困惑しながらも、何故か受話器をハンガーに戻すことも耳から離すこともできずに話を聞き続けている。
テレパシーとか明らかに頭のおかしい人の話なのにも関わらず。
「勿論、この書物が出版された頃には色々と不都合があったこの話は後々、創作という扱いを受けることになる」
そういえばつい最近、あるいは大昔に似たような話を聞いた事があるような気がした。
あの時、登場したのも猿だった。いやイタチだったかもしれない。シェイクスピアがどうとか。
いずれにしても動物がどうこうという話だったのは間違いない。
「それから十七年後、神経生理学者ジャコモ・リッツォラッティの研究チームが猿の脳のF5と呼ばれる領域においてあるものを見つける。
『ミラーニューロン』だ」
一方的にただひたすら一方的に女の語りが続く。
「それは「他人がしていることを見て、我がことのように感じる」ーーつまり共感に関係した脳細胞。だがこの時点では本当の役割については解明されていなかった。
例えば先に述べた『百匹目の猿現象』を意図的に引き起こす行為ーーつまりは思考をコーデックして受送信することなどを行うなどの機能。
このいわゆるサイオニクスと呼ばれ、長年フィクションとされてきた能力の実在が科学的に証明されるのはその更にずっと後の話だ」
ガチャ、ギイーー
何処かで錠が解かれドアが開く音が聞こえた気がした。
「ふむ扉の音がしたということはそろそろ時間か。……とりあえず警告だけはしておこう」
「警告?」
「教団はかなり厄介な連中だ。なかでも司祭クラスは洗脳を始めとするサイオニクススキルを有しているはずなので君でも手こずるだろう」
「教団てなに?」
「ESP耐性がないというのはつまりセキュリティ対策ゼロの端末でネットサーフィンするようなもの。
或いは両腕両足を縛られたままリングに上がってサンドバッグにされるようなものだ」
「……」
本当に何だかよくわからないが、電話の向こう側の女性は僕に、これから起きることに気をつけろと言っているように聞こえた。
「まあ君の場合、既に警鐘をカンストさせているから知恵の実を齧る資格は十分に手に入れたことになる」
「知恵の実?」
「だが齧るだけだ貪るほどには至らない。だから最低限の備えを与えよう」
じゃあねダーリン、彼女は最後にそう告げるとガシャンと受話器を叩きつけるような音がしてーー
ツーツー……と電話が切れた。
「いやだから誰?」
こつん。
「……うん?」
何か小さな音がしたので気になって釣り銭口を調べてみると可愛らしい林檎の絵柄がプリントされた包み紙のキャンディが一つ転がっていた。
僕には何故かそれが電話の主が言う「最低限の備え」なのだと理解していて、包み紙から取り出して口に入れる。
広がっていく林檎の味ーーそれをゆっくりと味わいながら僕は公衆電話を出て廊下を歩き出した。
無数のドアが並ぶここがどこか未だに分からなかったが、何故だか先程開いたはずのドアに向かえばいいことだけは理解していた。
《心領防壁を獲得しました》




