体調はどうですか? / 【記憶の残滓】
《あの御主人様、まだ夕方では(´-`)》
「まあそうだな」
《こんな時間から寝るのはどうでしょう(´-`)》
クオヴァディスの言いたいこともわかる。
新しいスキルの説明を読んだり、実際に使ってみたりすべきことは沢山あるだろう。
ただ、まだ十六時だというのに窓の向こうは真っ暗だ。
街灯は点っていたが、霧が濃くなってきたせいで見通しの悪さに拍車がかかっている。
薄気味悪い夜――こういう日は毛布を被って眠るに限るのだ。
「まあ惰眠を貪りたいのもあるけどさ、実際のところクタクタなんだよ」
地下で蜘蛛の化け物に散々追い回されて恐怖の連続だったというのもあるが、それにしたって午前中の話だ。
なんだろうね。
このまま目を閉じたらそっこう熟睡できそうだ。
《体調はどうですか? 何か違和感や不快感などはありますか?》
「いや今のところないな……寧ろ気分はいいのかな」
健康的なトレーニングをこなした後のような心地良い充実感があった。
贅沢を言えば風呂に入りたかったけれど、そこは言っても仕方ない。
《もしかしたら生存戦略の影響があるかもしれません》
「……生存戦略の影響ねえ」
確かにここ数日で、何ヶ月もかけて身につけるような筋肉や技術、常識では考えられない特異な体質をタップひとつで得てきた。
「これだけのことが起きて肉体への影響がゼロのまま済むはずがないか……」
果たしてこの肉体改造に代償はあるのか?
このありえない強化の果てにはいったい何が待っているのか?
疑問が湧いてきたりもする。
けれどまあそんなことを気にかけている余裕もなかったりする。
毎日が生きることに必死だ。
なにより今は眠くて眠くて仕方がない。
「ふああ……じゃあ明日に備えて寝るよ」
《承知しました》
クオヴァディスも納得してくれたらしく、素直に静かにしてくれる。
明日は明日でやることが山積みだ。
帰宅するための移動は勿論、食料の確保は必須だ。
それに新しい兵種がどういうものかも把握しなくてはいけない。
射撃統制やその他のスキルがどんな効果をもたらすのか知るのは、正直ちょっと楽しみであったりもする。
「アラームセット、朝10時に起こしてね」
《畏まりました》
「おやすみクオヴァディス」
すぐ近くのテーブルで、静かに暖色系の僅かな光だけを灯した携帯端末が答える。
ソファに横になって毛布を被ると、睡魔が容赦無く襲いかかってきた。
《おやすみなさい御主人様、どうぞよい夢を^ ^》
そして僕はいつの間にか泥みたいに眠っていたのだった。
◆◇◆◇
これは多分、夢――
いつかどこかの記憶の残滓。
ゆらゆらと揺れている。
生温い水溶液のなかではちみつ漬けのナッツみたいにたゆたっている。
そこでは何もすることがない。
何もすることができない。
ただ微睡みに身を委ねながら「ちょっとした昼寝」を繰り返すだけ。
「やあダーリン」
薄ぼんやりした意識のなか、円い窓の向こう側にひょっこりとひとりの人物が現れる。
二十代前半くらいの白衣の女性だ。
胸のプレートには「Dr.白兎」とある。
「いつもの三分間がやってきたよ。さてさて今日の授業は何がいいかな?」
手にしていたシーフード味のカップ麺を書類の散乱した机におくと、首から下げた懐中時計をこちらに向けてくる。
どなた様でしたっけ?
どこかで見た覚えがあるような気もするし全く知らない気もする。
「ふむ……そうだな君の受けているこの臨床試験――時計職人計画の全貌についての話にしようか」
彼女はそうやって一方的に語りかけてくる。
彼女の髪は寝癖がついたままで化粧気もない。
おまけに眼鏡の向こうからのぞく眼つきはどこか拗ねているようで、口元にはシニカルな笑みを浮かべている。
ただその口ぶりはとても親しげで楽しげでとても初対面とは思えなかった。
「ウォッチメイカーという名称は、
イギリスの進化生物学者・動物行動学者であるクリントン・リチャード・ドーキンスの著書から拝借している。
そうご存知『盲目の時計職人』だね」
いや言われても知らんけど。
そんな話よりもカップ麺が気になる。
蓋の端から湯気が出ていて実に美味しそうだ。
「この試作型ウォッチメーカー(仮)の真の使い道を知る者はごく一握りだ。
こいつは健康管理アプリでもなければ軍用兵器でもない」
白衣のポケットから取り出した携帯端末の画面を見せてくる。
若干デザインが違っているけれど見覚えのあるアイコン――
もしかしてウォッチメイカーって生存戦略のことか?
兵器じゃなければいったいなんだというのか?
「さて唐突に話が変わったと思うかも知れないけれど、
もし猿がタイプライターを打ったとして、
シェイクスピアの『ハムレット』の一節ーー “Methinks it is like a weasel”(おれにはイタチのようにも見えるがな)
という文字を正確に打ち出す確率はいったいどのくらいだろう?
実のところ進化というものに意思の力は介在しない。
それはあくまで自然淘汰の結果でありまったくの偶然の産物に過ぎない。
例えばキリンは木の葉を食べたくて首を伸ばしたんじゃない。
たまたま首が長かったおかげで木の葉を食べ続けることができたから生き延びたのがキリンなんだ。
分かるかな?」
猿?
シェイクスピア?
キリン?
話が小難しくてよく分からない。
僕は断然シーフード味のカップ麺が気になる派だ。
「つまりね。進化とは盲目の時計職人が作り出す時計のようなものだってことさ。
人類が今この地球上に存在して我が物顔で振舞っているのは全くの偶然が積み重なったからでしかない。
人類のたゆまぬ歩み? 叡智の賜物? ちゃんちゃらオカシイね。
ヒトという猿はこれまでたまたま「正しい文章」を打ってきたから生きてこられたんだ。
だけどいつかはタイプミスをする。正しい進化ができないまま人類は終焉を迎える。
お偉方はそいつが不安でガクブルで眠れないらしい」
偉い人は馬鹿だな。
僕はそんなこと、気にせずいつでもたくさん食べられるし、
いつでも昼寝ができるのだ。
今も目の前のカップラーメンが食べたくて仕方がないしまたうとうと眠くなってきている。
「だからちゃんとした時計職人を用意しよう。正しい進化をコントロールしよう。ってのがこのウォッチメイカー計画の趣旨なんだな。
分かるかなダーリン?
……よし三分経ったみたいだね。今日の授業は終わりっ!」
白衣の女性は懐中時計をしまうと、待ち兼ねたようにカップ麺の蓋を取り、もりもり食べ始めた。
「いやはや業の深い話だね! まったく……ずずっ……人類なんか! ……ずずっ……滅びちゃえばいいのに!」
ああラーメンがとても美味しそうだ。
でも眠い……。
とても眠い……。
◆◇◆◇
《◾︎◾︎◾︎◾︎を獲得しました》