第1話 存在しない男
午前二時の新宿歌舞伎町。ネオンの看板が濡れたアスファルトを青赤と妖しく照らし、通りには終電を逃した酔客や、深夜営業の店へと消えていく人々が行き交っていた。
相馬蒼は、雑居ビルの隙間にある狭い路地裏で、煙草の煙を吐き出す男を少し離れた位置から観察していた。
着古したグレーのパーカーに身を包んだ三十代前半の男。名前は佐藤学。
三日前まで、彼はごく普通のシステムエンジニアとして都内のIT企業に勤めていた。しかし現在の彼は、日本のあらゆる行政データベースにおいて「存在しない」扱いになっている。
「……相馬先輩、対象を確認しました。戸籍、マイナンバー、保険証データ、すべて先ほど完全に削除完了のマークがつきました」
耳元に装着した極小のイヤホンから、配属されて二ヶ月の新人・結城の緊張した声が聞こえてくる。結城は数百メートル離れた路地に停めた偽装車両の中で、ノートPCの画面と格闘しているはずだ。
「了解。周囲の防犯カメラのログは」
「本庁の交通課および警視庁Nシステムを含め、当該エリアの映像データから彼に関するフレームのみリアルタイムで自動補正・消去処理が入っています。彼が今そこを歩いていても、監視カメラの記録上、彼は『最初から映っていない』ことになります」
「結構」
相馬はポケットから黒い革手袋を取り出し、手に嵌めた。
これが、内閣府直属の非公式部署『特別住民除籍係』の仕事だ。
法律の限界を超えた不都合な事件、国家的な情報漏洩の危険を孕んだ人物、あるいはシステム上の理由で「社会から完全に切り離さなければならない人間」。それらの存在を、暴力ではなく「行政データとデジタル記録の完全抹消」によって抹殺する。
殺すわけではない。ただ、日本という社会のあらゆるシステムから「いなかったこと」にするだけだ。
相馬は足音を立てずに歩き出し、パーカーの男——佐藤の背後に近づいた。
「佐藤学さん」
低い声で呼びかけると、男は肩を跳ねさせ、驚いたように振り返った。
「な、誰だ……? 俺を知ってるのか?」
「あなたのスマートフォンは一分前に圏外になり、保持しているクレジットカードはすべて無効化されました。銀行口座は凍結され、賃貸契約も解除手続きが完了しています。あなたの身元を証明する手段は、今この瞬間、地球上のどこにもありません」
相馬は淡々とした声で言い放つ。佐藤の顔から急速に血の気が引いていくのが、路地裏の街灯に照らされてよく見えた。
「な、何を言ってるんだ……気違いか? 警察を叫ぶぞ!」
「呼んでも構いませんよ」
相馬は表情一つ変えずに続けた。
「ですが、警察官が駆けつけてあなたの身元を確認しようとしても、身元照会システムには何も表示されません。あなたの指紋データも、警察庁のデータベースからすでに削除されています。彼らから見れば、あなたは『存在しない架空の人間』であり、身元不明の不審者として処理されるだけです」
「そんな……バカな……! 俺は……俺はただ、会社の裏金データをちょっと見ただけで……!」
佐藤が震える声で叫び、後ずさりする。
(やはりな)
相馬は心の中で納得した。
今回、上層部から「即刻除籍」の命令が下りた理由は、単なる失踪や事件事故の偽装ではなかった。佐藤が務めていたIT企業は、大手官僚組織とパイプを持つインフラ系のシステム開発会社だ。そこで彼が「見てはいけないデータ」に触れてしまったため、国家の息がかかったこの除籍係に依頼が回ってきたのだ。
「佐藤さん。あなたに選択肢は二つあります」
相馬は懐から、一冊の真新しいパスポートと、印字されていない一枚のICカードを取り出した。
「一つ目。このまま『存在しない人間』として街を彷徨うこと。誰とも契約できず、医療も受けられず、逮捕されても名前すら残らない。二つ目はこのカードを受け取り、提示された場所へ行くこと。そこでは別の名前と戸籍が用意され、二度と東京に戻らないことを条件に、新しい人生が保障されます」
佐藤は息を呑み、相馬の手元にあるカードと、相馬の冷ややかな目交互に見つめた。
「君は……君たちは一体、何なんだ……?」
「ただの公務員ですよ。制度の隙間を掃除するだけの」
その時だった。
『相馬先輩、緊急事態です!』
イヤホン越しに結城の悲鳴に近い声が跳ね跳んだ。
『何だ』
『た、たった今、除籍係のメインサーバーに外部から侵入がありました! 対象・佐藤学のデータ消去処理に対して、上位権限によるオーバーライドがかけられています!』
「何……?」
相馬の眉がわずかに動く。
特別住民除籍係のアクセス権限は内閣府の最深部に位置している。それを上書きできる存在など、この国に存在するはずがなかった。
『データが書き換えられています……! 佐藤学の戸籍消去がキャンセルされ、代わりに……代わりに……!』
「落ち着け、結城。何が書き換えられた」
『相馬先輩……! 先輩の戸籍とIDが今、システムから『除籍』処理されています!』
夜の歌舞伎町の静寂の中、相馬の端末が一瞬だけ電子音を鳴らし、画面上の「認可ステータス」が真っ赤なエラー表示へと変わった。
社会から消去されたのは、目前の男ではなく——自分自身だった。




