【第一話】夢の向こう側
「ねえ、聞いたことある?」
『なにを?』
「ほら、あれだよ! あの《ポ◯モンスリープ》の怪談!」
『怪談?』
「そう! 一晩中、寝言とか物音とかをアプリが録音して、睡眠スコアをつけるでしょ? でもね、朝に再生すると……自分の知らない声が入ってるんだって!」
『はは。そんなわけないだろ。考えすぎw』
「だから怪談なんだってば〜」
教室の隅で、そんな会話が耳に入った。
……録音の再生中に、知らない声が混ざる?
その瞬間、俺の口元は勝手に冷えていく。笑いにもならない、薄い冷笑が漏れた。
もし再生に、俺以外の声が入っていたとして。
それはきっと――いつもの、両親の喧嘩だ。
この家の、あの声。怒鳴り声と泣き声。瓶の音。壁が軋む音。
……でも。
もし喧嘩じゃなくて。
俺の知らない、もう一つの声が入っていたら――それは、少しだけ面白いかもしれない。
*
下校のチャイムが鳴って、気づけば一日が終わっていた。
また、あの家に帰る。
十六年も住んでいるのに、いまだに玄関のドアを思い浮かべるだけで胸が硬くなる。
古びた鞄を無言で整えながら、ふと手を見る。
香煙で焼かれた、小さな「痕」。
逃げたいのに、生活という足枷が足首に食い込んで離れない。
――籠の鳥。そんな言葉が頭に浮かぶ。
理解されるはずがない。
誰も、「馴染めない俺」を理解しようとしない。
誰も、「未来の時限爆弾」を理解したがらない。
なのに不思議と、俺が一番“楽”なのは帰り道だった。
一時間の距離が、五分みたいに溶けていく。
気づけば、家の前に立っていた。
「……ただいま」
空っぽのリビングに、小さく言う。
返事はない。
この家はずっと空っぽだ。迎えも、関心も、最初から存在しない。
小説みたいな“完璧な家庭”は創作の中にしかない。
いや、完璧そのものが創作なんだ。
たとえそれが、俺のすぐ近くで実在しているとしても。
部屋に入って、ベッドへ倒れ込む。
静かだ。
あまりにも静かで、世界に俺しかいないような錯覚に落ちる。
「……誰かが、同じ気持ちを味わってくれたらいいのに」
そうすれば、惨めじゃなくなる気がした。
「あ……そうだ」
教室で聞いた噂を思い出す。
睡眠アプリの録音に、幽霊が話しかけてくる怪談。
死んだ祖父の話では、この家は祖父の戦友の墓地の上に建っているらしい。
祖父は戦争で交わした約束を忘れないために、戦友の墓の上に家を建てた――そう言っていた。
……今さら考えると、だいぶ陰気だ。
どんなに立派な理由を飾っても、祖父も戦友も、そんな場所で安らげたのだろうか。
でも。
もし録音から祖父の声が聞こえたら?
あるいは、他人の声が混ざったら?
――それはそれで、少しだけ面白いかもしれない。
俺はアプリをダウンロードした。
起動して、寝る準備をする。
両親が帰ってくる前に寝てしまわないといけない。
そうしないと、今夜が壊れる。
目を閉じる。
意識が、ゆっくり沈んでいく。
夢を見た。
妙な夢だった。
見知らぬ同い年くらいの誰かと、公園のベンチに並んで座って話している。
その人はよく笑って、
まるで世界が最初から色彩を持っていたみたいな顔をしていた。
何を話したのか、思い出せない。
でも彼は、俺と話すことを心から楽しんでいるように見えた。
彼は俺に「色」を分けてくれた。
俺の世界は白黒テレビみたいなのに、彼の色が触れたところだけが、ほんのり温かい。
――その温かさが、俺の中の貪欲を刺激した。
触れたい。
もっと欲しい。
そう思って手を伸ばした瞬間、彼の瞳孔が勝手に大きくなって、
俺は、もう彼の生命線を断っていた。
彼の舌が、まるで俺にキスしたがっているみたいに口から出している。
俺は嬉しかった。
この温かさの源を、俺はひとつの言葉に決めつけた。
『愛』
舌と舌が触れ合う直前。
激痛が俺を叩き起こした。
世界が裂ける。
視界に飛び込んできたのは――「父親」だった。




