第十七話 帰る
「行かないで...」
「ケイがいないと困る...」
乾いた音を立てて、斧が止まった。
ケイの腕から力が抜けた。
握りしめていた柄から両手が離れ、ケイの両肩がガックリと落ちた。
幹に食い込んだ黒い斧は輝きを失っていた。
泥にまみれたサトが、恐る恐る顔を上げる。
途切れ途切れの吐息を繋ぎながら、必死に腕を伸ばした。
指先が、ケイの肌に触れる。熱いほどの体温。
サトはそのまましがみつき、体を預けるようにして、その温もりに縋りついた。
震えるケイの体が、ゆっくりとサトの方を向いた。
視線が落ち、二人の目が合った。
その瞳には光が宿っている。激しく上下する胸の鼓動が、腕を通じて伝わってきた。
ケイは何かを言おうと口を開くが、声にならない。
サトもまた、涙と泥と血で汚れた顔を歪めたまま、ケイを見上げた。言葉が出ない。
ケイの腕にすがりついて泣いた。
ケイの手が、サトの腕に触れる。その動きはまだぎこちなく、そこにある存在を確かめるかのようだった。
二人の指が絡み合った。
サトはその手を握り返す。離さない...
力が抜けた。サトの膝から力が抜け、崩れ落ちた。
それを支えようとしたケイも足元をふらつかせ、二人は泥を跳ね上げてその場に座り込んだ。
荒い息が重なる。
少し離れた場所で足を止めていたソウジが、重く長い溜息を吐き出した。
「戻ったか...」
それだけ言った。
サトには立ち上がる気力を失っていた。
ケイが震える肩を貸し、サトがそれに寄り添う。
二人で互いの重みを支え合い、しばらくして、ようやく腰を上げた。
「帰るぞ」
そう言ってソウジが背中を向けた。
三人はゆっくりと斜面を下り始めた。
踏み出すたびに脆い土が崩れ、草履が泥にまみれた。
サトがつまずけばケイが引き上げ、ケイがよろめけばサトが必死に支えた。
「重いな...お前」
ケイが掠れた声でこぼすと、サトは肩で息をしながら、彼の背中をぽんと弱々しく叩いた。
「そっちこそ...同じよ」
その言葉に、ケイの口元がわずかに緩んだ。
しばらく山道を下ったところで、前を行くソウジがぽつりと口を開いた。
「昔な......」
独り言のような低く掠れた声だった。
「親父が山でおかしくなった。目は虚ろで、呼んでも返事もしねえ。ただ、憑かれたように斧を振るっておった」
サトとケイは、足元の感触を確かめながら、黙ってその背中を見つめ、耳を傾けた。
「おっ母が止めに入ってな。必死に親父の腕を引っつかんで、わめき立て、叱りつけ、力尽くで引き戻そうとしたんじゃ」
ザッ、ザッ、と土を踏みしめる三人の足音だけが響く。
「そのおっ母の横顔を、わしは見てしまった」
ソウジが足を止めた。
「わしのおっ母の顔は、鬼になっとった......」
サトの足がすくみ、ケイがその肩を抱き寄せた。
「そのまま二人とも、山の奥へ消えた。二度と戻っては来んかった」
ソウジが遠くの峰を見つめる。
「私も鬼に...」サトがつぶやいた
「鬼に憑かれたケイを見れば、サトも諦めるかとな......しかし、サトは声を出してしもうた。おっ母と同じように...」
ソウジが振り返りサトの目を見た。
「だが...サトの心が通じたのかもしれんな」
そう言ってソウジは口を閉ざした。
それから三人は無言のまま険しい山道を下り続けた。
やがて木立が途切れ、視界が開けた。
頬を撫でる風が変わり、遠くに村の灯火がまたたいている。夕餉の支度だろうか、懐かしい煙の匂いが流れてきた。遠くで人の呼ぶ声がかすかに混じる。
サトはふと足を止め、今しがた下りてきた山を振り返った。
深い闇に沈む木々。そこにはもう、何も動く気配はない。
ケイも同じように振り返ったが、すぐに決別するように前を向いた。
「帰ろう」サトが微笑んだ。
その泥と血に汚れた顔が夕陽に輝く。
ケイが眩しそうな目をして深くうなずき、二人は並んで歩き出した。
触れ合う肩の重みが心地よく、サトはそのまま寄りかかった。
ケイもしっかりとその重みを受け止める。
先を行くソウジは一度も振り返らなかったが、二人の足取りに合わせるように、その歩幅はわずかに緩やかになっていた。
村の端までたどり着くと、軒先の灯火が足元を温かく照らし出した。どこかで犬が一度だけ吠え、また静かになった。
サトは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。肺に満ちる優しい煙の匂い。
「あったかいね...」
泥だらけの顔をほころばせ、サトが小さく笑った。
三人とその長い影法師は、村の柔らかな明かりの中へと消えていった。




