64 ハンナの過去
「ようこそおいでくださいました。ハンナさん」
優雅に微笑む公爵夫人を前にして、さすがのハンナもこれはどういうことだと内心動揺している。しかしナート家の名のもとに来たのだ。それを見せてはいけない。ナート家の使用人としてナート家の品位を下げてはならない。
「身の程をわきまえない挨拶を受けることをお許しください」
「堅苦しい挨拶は抜きよ」
「お気遣いいただきありがとうございます。わたくしのことはどうかハンナとお呼びください」
この、どこかつかみどころのない公爵夫人から、会って話がしたいと連絡が来たのは、リリックと話をした翌日。つまりフルールが訪ねた翌日でもある。何かあったのだろうかと素直に呼び出しに応じれば満面の笑みで迎えられ、あまつさえ客人として扱われている。
「あなたノルディンの出よね?」
そこで懐かしくも、思ってもみない名前が出た。
『ノルディン事件』
当時世間を騒がせた事件だ。
舞台はノルディン孤児院。
そこは貴族が慈善事業の一環として建てた孤児院で、当時賛同した家の寄付でそれまで成り立ってきた。
そこがどうやらおかしいと、最初に感じたのはシュトラーゼ侯爵夫人。ナート家の奥様の母上だ。妹クララの勤め先の大奥様。当時奥様であった大奥様は、人の裏をかくことが好きな、いたずらっ子を大人にしたような方で、おかしいと感じたその場で護衛と突っ込んだそうだ。
この武勇伝だけでも十分だが、なんと無鉄砲なことを侯爵家の夫人がするのだと、各方面から非難のような小言を貰ったときに「まあ‼ 子どもの安否にぼんくらでいられる人がいらっしゃるの? どなたかごぞんじ?」と周りの口を瞬殺で閉口させた兵だ。
なんとなくフルールと同じ匂いを感じるが、それが確実にその血を引いているという証拠だろう。母方のこの祖母は、それはそれはフルールを可愛がっている。
それはさておき、その孤児院に引き取られた子どもたちは特殊な訓練をさせられていたことが子どもたちの証言からわかった。表向きは職業訓練とされていたが、その実態は真っ黒で、子どもを売り物にしようと従業員が高く売り飛ばせるように教育していたのだ。
毒や刃物の扱いまで仕込んでいたようで、それはやり過ぎだと仲違いした者が外部にリークしたため、事件が発覚した。商品になる前に表ざたになったため、売られた子どもがいなかったのは不幸中の幸いと言えよう。
行くは暗殺者か諜報員かといった内容の訓練を、年端も行かぬ子どもたちが嬉々としてやっていたという事実に、人々は愕然とし、その事実は隣国まで渡った。ゆく先々で世間に激震を与えたこの事件は、子どもの救済を最優先とし、当時の名前を変えて一旦貴族の養子とした後、その先は子どもの希望を聞き職場を斡旋した。
ハンナとクララはふたりで働けるところを希望し、そこにシュトラーゼ侯爵夫人が名乗りをあげてくれたというわけだ。その縁でハンナは今ナート家にいる。
「はい、わたくしと妹のクララは当時その孤児院におり、後にシュトラーゼ侯爵家の奥様に引き取って頂きました」
「あなた達は名前を変えなかったのね?」
「はい。事件となったのは、わたくしたちが行って半年ほどしてからです。名前を変えることで、この先の人生が楽になるとも言われたのですが、わたくしもクララも両親が付けてくれた名前を捨てることはできませんでした。あそこにいたのは貧困故に親に置いて行かれた子が多く、孤児院で名前をつけてもらった子がほとんどでしたが、わたくしたちは両親が事故でなくなったので自分たちの足で行ったのです。だから名前は両親がくれたものなのです。それを変えることはできませんでした」
ハンナの視線誘導はこの孤児院で取得させられた技だ。ほかにも隠密になれるくらいにはそれなりに覚えた。当時はこれが出来れば職に就くのに有利だといわれていたので率先してやっていた。これが子どもたちが嬉々としてやっていた理由だ。
しかし、今は視線誘導くらいしか使う事もなくほかに習得したものはお蔵入りをしている。視線誘導だってフルールの悪癖がなければお目見えすることはなかっただろう。
催眠療法は、その悪癖を取り除けないかとフルールにかけてみたが全く効かなかった。やはり使わなければ腕は落ちるのだ。
しかし、この年になって、まさかここでこんな話をするとは思わなかった。
とても遠い記憶の向うにチクンと胸が痛む。
笑顔がかわいくて、泣き黒子がある泣き虫で、懐いてくれていた女の子。たった半年だったが三人姉妹のように一緒に暮らしていた。
泣き虫なあの子は今しあわせだろうか。




