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62 ハンナ無敵になる


「気に入ったというか……いや、たぶん久しぶりに会ったあの日から気に入ってはいたのだと思う。あのときはスケッチブックの件があったからその確認のために訪ねたのだが、思いもかけず楽しかったのは本当だ。そしてハンナも知っての通りその後すぐに婚約が決まった。その時もスケッチブックの持ち主ではないかという疑いは確かにあった。しかし同じくらいフルール本人に対しての興味もあった。顔も家柄も重視しない、まるで家族のように接することができる者がいる。それが心地よかった。毎朝花束を持って家を出ることが嬉しく、毎日が新鮮な気持ちになれた」


 花束を拒否しなかったお嬢様に賛辞を。

 ハンナは心の中で拍手した。

 あの時の一言が違えば今が存在しないかもしれない。タイミングとはそんなものだ。


「しかし、わたしの中のフルールが次第に大きくなってきて、なにやらそれまでの心地よさが止まってしまった。婚約の解消がフルールの口から出た時は、心臓が止まりそうになったし、今も誰にも渡したくない気持ちがある。一度はこれが、愛しいという思いかと思ったが、この苦しい気持ちと上手く付き合うことができず──」


 リリックの話を聞きながらも、ハンナは頭の片隅でどうやら本当にこれが本題のようだと悟った。では、さっきまでの話はなんだったのだと思うが、あれは仕事の話で、リリックにとっての本題ではなかったということか。


「──フルールを前にしても、昨日感じたようなこみ上げる何かは鳴りを潜めたのか出てこない。一晩たって、神のいとし子だと思ったからそう感じたのだろうかとも思ってしまい、自分はなんと低俗な人間なのだと、なにやらこの気持ちの行方が本当にわからなくなってしまった」


 ハンナは本題を聞いておおいに安心した。

 安心したからか、リリックの聞きたい事がわかった気がした。


 フルールが重視するのは体だが、そこにはリリックの体は入っていない。昨日それに気づいたのだろう。だから仕事にかこつけてまで、慌てて相応しいかどうかを聞きに来た。本当は「ふさわしか」でなく「好みか」どうかを聞きたかったのだろう。しかし、好みではないと言われることはわかっている。その場合のショックを回避したかったとみえる。


 初恋の初期症状。

 恋だと自覚した途端、それはまるごと初恋なのだとわかり、思春期も満足に取れなかったのでついでにそれも乗っかった。恋愛感情を抱いたことがないのだから、当然のこと愛情表現も知らない。

 何のことはない、初恋と思春期を大人の事情に当てはめて処理しようとしたができなかったというだけだ。──つまり拗らせた。


 しかし拗らせたままにしておくのはよくない。拗らせとはときにとんでもない方向に向かうことがある。お嬢様の家出騒動がいい例だ。拗らせたものを忘れ、ふと思い出しあんな騒ぎにしたのだ。

 子ども時分の拗らせであれだ、大人の拗らせの果ては考えたくはない。特に色恋のそれは厄介だと聞く。



「リリック様、昨日バート様もあの場にいたそうですね」

 先ずはと、バートの名前を出してみる。

 するとみるみる間にリリックの顔が歪み眉間に皺がはいる。そして、その男のことは思い出したくないとばかりに、どんどん険しい顔つきになっていった。

 基本的に無表情でいることが多いリリックだがフルールといるようになり表情が少し増えた。本人が気づいているのかいないのかは分からないが、これはその最たるものだろう。

 しばらくその様子を見ていたハンナはさらに聞いた。

「鳴りを潜めた、昨日感じたこみ上げる何かはきましたか?」

「……あ、ああ。確かにそれらしきものが今チラッと」

 一拍置いたリリックの顔からは険が消えた。


 鳴りを潜めるとは上手いこという。

 それは常に表に出ているものではありませんからね。

 そして誰彼かまわず出るものでもない。


「リリック様。来月お嬢様がデビュタントを迎えるのはご存じですか?」

「ああ、母から聞いた」

「そのダンスの練習をお嬢様としてみてはいかがでしょう」

「ふ、フルールとか?!」


 ええ、お嬢様の話をしています。

 なんでしょう、このリリック様もどきのヘタレは。

 そんなに驚く要素がどこにあったのでしょう。


 ハンナはリリックの表情を見ていると今までの毒気を抜かれていくような気がした。

 ああ、公爵家の使用人は皆この境地なんだわ。

 何も知らない無垢な赤子と同じなのでしょう。


 その表情は眉をハの字にして親に助けを求める顔だ。

 ストンと胸に何かが落ちたハンナは、リリックのどんな攻撃も効かなくなった。


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