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46 通り過ぎたその名

 

 一方、先に踵を返した公爵夫人は、訓練場をでてすぐにあれこれ指示をだした。

「リン。アデューのデザイナーを呼んで、針子たちも集めて。それから敷地内にある生地を全部出してちょうだい」

「畏まりました」


 公爵邸内は、たちまち蜂の巣をつついたように慌ただしくなる。

「至急早馬を出せ。アデューまで急げ!」

「荷車と下働きの男たちを大至急!」

「ハロンさんに鍵を揃えてもらって!」

「誰が針子たちに伝えに行ったの?」

「生地を全部となるとホールを開けるしかないわ。そこにまだ使っていない絨毯を敷いて!」


 公爵夫人の思い付きはいつもの事なので慣れているとはいえ、邸内の生地を全てというのは近年稀にみる大仕事である。


 全てと一口に言っても、保管場所も生地の量もまちまちだ。公爵夫人の兄である、隣国の王から贈られたような特別高級な生地は、宝飾品と同じ扱いで厳重な保管庫にあるし、針子部屋にあるものは使用人の制服の修繕ですぐ使えるように小さく切ってある。生地の素材によっても、保管条件が異なり一所にまとめておくわけにはいかない。虫干しの時も何日もかけて少しずつ行うくらいだ。全ての生地が集まったことなど一度もない。


 針子を抱えていることからおわかりのように、この家に小さな洋品店が入っているといっても過言ではない。その生地の種類は本職同様かそれ以上だ。なんといっても筆頭公爵家である。


 使用人たちは間違いなくそこにフルールが関係していると思った。

 どんなに条件のいい家から婚約の打診が来ても頷かなかった主夫妻が、フルールを自ら求めたという話は使用人たちの耳にも届いている。


 古くからいる使用人は、小さかったフルールと対面したことがある者もいるが、人となりを知るわけではない。なぜ夫妻揃って望むのか、そこまでする価値はあるのか、好奇心という熱に踊らされた使用人たちからはそわそわした空気が流れだす。

 その熱気が後押しするかのように使用人の士気は上がり、次々と運び込まれる生地の列はやがてホールを埋め尽くした。


「あらやだ、わたくしとしたことが。まだ伯爵様にお話を通してなかったわ」

 ホールに確認に来た夫人は、また踵を返して颯爽とでてゆき、夫と伯爵の間に割って入った。


「伯爵様。ぜひ受け入れて頂きたい提案がございます」


 公爵と昼から酒を飲んでいた伯爵の顔はだいぶとろけている。

 それでも夫人からの言葉に襟を正す。

「はい、なんなりと」

「確かフルールちゃんは来月のデビュタントですよね? その準備を全て公爵家にまかせて頂きたいのです」

「ぜ、全部ですか?」

「ええ。頭の天辺、髪の先から足の先、手の先爪の先まで全てです」



 ──カーン、ガツッ、シャー。

 剣のぶつかり合う音にその剣をいなす音。


 斬撃の音の中リリックは──どうしてこんな格好でガロンと打ち合いをする事になった? あれよあれよと仕立てられたこの状況に、改めて疑問が湧いた。

 そしてフルールに対しても言い知れぬ感情が湧いていた。

 ガロンとリュイを前にフルールはふわりと笑った。いつもリリックに見せる“にっこり”ではなく“ふわり”だ。

 野に咲く花が季節の訪れを待って咲いたように、自然と開く花びらのように、ゆっくりと柔らかく、ふわっと。


 その笑みになぜかリリックの心が揺さぶられた。

 ……なんだ今のは。

 なにかいつもと違うものを感じたが、その正体は名を明かさずに通り過ぎた。

 そしてどうやら無意識にガロンを睨んでいたようだ。


 剣でも振って心を落ち着かせたい。

 そう思ったリリックにとって、フルールの申し出は渡りに船だった。


 はじめて見たフルールの笑顔はリリックを落ち着かなくさせた。急に首の後ろあたりがもぞもぞとしてなにかが這いまわるようだ。ここは体の中にある急所のひとつ。そんなところが落ち着かなくなれば、気もそぞろになる。

 同時に、いつも自分に見せるにっこりとしていた笑顔が急に、花屋で用意された向きの揃った花のように、余所行きの、他人の笑顔のように感じられた。


 しかしよもや裸になろうとは──。


 それはガロンも同じだった。

 だからしぶしぶ脱いだのだ。勢いのいい脱ぎっぷりも、半ばやけっぱちだった。フルールの、意味もわからず期待に満ちる目と、その後ろから追ってくるリリックの殺気のような視線。

 ──かんべんしてくれ。

 ガロンは、巻き込まれたことへの愚痴を心の中で呟いた。




「そろそろ上がろう」

 ガロンがその言葉に知れずひと息吐いたとき、リリックへと近づく従者が見えた。

「奥様がお呼びです。フルール様もご一緒にとのことです」

「……なにやらあまり歓迎できるお呼びではなさそうだが、すまないが付き合ってくれるか、フルール嬢」

「もちろんです。お母様がお呼びとあらば」

 タオルと共に用意された笑顔に、リリックは今度こそ明らかにがっかりした。

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