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36 一転した良き日の苦い想い

 

 ヒヒンヒヒン。

 ここよここよ。とでも言っているのだろうか。

 ハヤブサは、その声に確実な嘶きを返す。

 そこに現れたのは、見た事もないこれまた立派な体躯の男だった。


「君がハヤブサか? と言うことはあなたがフルール嬢ですね」


 フルールは返事をするのも忘れて、その男をジッと見る。


 騎士団の人かしら?

 フルールは、描きあげた数々の裸体の肉付きを思い出す。


 この体は、見たことがないわ。

 そして笑顔になった。


 今日はなんて良い日なのかしら。

 素敵な人たちとこんなに近くで会えた。


 剣術大会の装いに、アップルパイも食べられない程がっかりして萎んでいたのに、ゲンキンなものだ。


 それもそのはず。

 リュイもこの兵士も服の布地は薄く、その下の胸板がしっかりわかり、袖口はまくっているので、腕が見放題。

 目の前の兵士など、肩口がパンパンでフルールのウェストよりもありそうだ。

 それをこんなに近くで拝めるのだ。


 フルールは、領地から帰って来てからというもの、ずっと騎士団の演習場に通ってはいたが、それでも物足りなかった。

 領地ではすぐ会いに行けるところにサムがいたし、少し歩けば、畑には腕まくりをして汗を拭う男たちが仕事をしていた。


 料理人のリダが、王都の屋敷では一番のお気に入りだが、仕事柄、火を使う場所にいることが多いので飛びつくなど言語道断。リダが火傷でもしたら大変だ。


 リツギもしっかりとした良い体をしているが、筋肉の付き方が上品と言うか、リリックのようにシャープな筋肉を持つ体だった。

 それはそれで良さがあるのだが、フルールの目が奪われるのは、決まって、大きくてガッシリした体だった。


 それが目の前にある。

 しかも二体。

 こんなことは領地にいた時以来だ。

 無意識に見てしまうのは無理もない。

 ハンナはもちろん、誰も止める者がいない今……食いつくようにジッと見てしまっても……しかたない。


 ヒーンヒヒンヒーン。


 ひとりいた。いや、一頭か。止める者がいた。

 なに見てんのよ。あたしのよ。あたしが呼ばれたの。あんたじゃないわ。

 たぶんこう言ってるのだろう。

 ハヤブサがシッポを振って、フルールの視界を遮ろうとしているのがその証拠だ。


「フルール嬢で間違いないだろうか……」

 呼びかけに応答しないフルールとエキサイトする馬に対し、兵士は不安になった。


「フルール!」


 兵士の再の問いかけよりも更に大きな声が、フルールの意識を呼び戻す。

 呼ばれた方へと顔をむければ、馬から飛び降り駆け寄るリリックが見えた。


「リリックさっ、」


 あっという間に距離を詰めるリリック。


「っ、心配した」


 名前を呼びかけたフルールだが、気づくとリリックに抱きしめられていた。

 閉じ込めるようにすっぽり抱きしめるリリックの腕には力が入り、肩で息をしている。

 かかるその息は熱く、頬がぺたりとくっついた胸の奥からは、ドッドッドッと速い鼓動が聞こえる。


 すごく、捜してくれたんだわ。


「心配かけてごめんなさい」


 フルールは、自分の行動の至らなさを恥じた。

 思い付きで動いたことで、リリックにまで迷惑をかけたことを。


 剣術大会は思ったものではなく、確かにがっかりしたし、あまりのがっかりさに、アップルパイも喉を通らなかったが、それを憂いて出てきたのではない。


 いや、その鬱憤を晴らすつもりでハヤブサと出掛けようと思い立ったのだが、アップルパイを前にしてハヤブサとの約束を思い出し、そこから先は過去にタイムスリップしたまま剣術大会の鬱憤は霧散した。


 サムから教わった方法に「わかったわ」と返事をし、ハヤブサとの約束を守れることに安堵してから、早数年。


 フルールはあの日から心配ごとがなくなり、よく眠れるようになった。

 だから、すっかり忘れていたのだ。

 ハヤブサとした約束を。


 アップルパイを前にして、それを急に思い出した。


 そして「また持ってくる」というハヤブサとの約束を果たすために、目の前のアップルパイをバスケットに入れ部屋を出た。


「大事なくてよかった。帰ろう。伯爵も夫人も皆心配している」


 あのがっかりした状態で、家からいなくなれば誰でも心配する。

 言葉と共にリリックの胸が離れた瞬間、なにかで頭を殴られて目を覚ましたかのような、気が付けばフルールの胸の中に、今まで感じた事のないような濃い苦味が走る。


 誰にも何も言わないで出てきたことを、今更ながらに気づく。


 お父様もお母さまも家族はもちろん、みんなも心配してるに違いない。


 急に姿を消したフルールに、ミルは困惑してるだろうし、ハンナだって絶対心配してる。それに今日一日付き合わせたのに、きちんとお礼も言っていない。帰りの馬車では腰が痛そうだった。


 フルールは両手を胸の前で組んだ。

 胸に広がる苦味を刻み込むように。


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