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30 フルールとハヤブサ

 

 なんてこと! アップルパイを持って行ったという事は一人ではないはず。もう日が暮れる。急がないと。


「はぁ、はぁ、旦那様ハンナ様、大変です。馬が、馬が一頭盗まれました」


 時をおかずに駆けつけたリツギは、息を切らせながら報告する。


「それはいつだ」

「今しがたです。桶を洗いに厩舎の裏にまわり、洗って戻るとハヤブサがいなくなっていました」


 やはり! と伯爵もハンナも青くなる。


 ハヤブサとは、ハヤブサのように速くなることを願い、フルールがつけた名前の馬で、フルールはとても可愛がっている。だが、残念なことに懐かれてはいない。


「フルールお嬢様が乗っていった可能性があります。リツギは直ちに捜索を」


 リツギは即時に部屋を出る。


「旦那様私は厩舎を見てきます。アップルパイを持って出たと言うことは……」


「わしも行く……」


 二人が思ったことはたぶん同じだ。


 ──フルールがハヤブサに好物を与え連れ出した。


「やはり……」


 ハヤブサの柵の前にパラパラとこぼれているパイのカス。

 そして無造作に連れ出された跡がある。リツギならこんな雑な仕事はしない。


 昔、フルールが淑女教育をはじめた頃、男性との触れ合いを禁じられ、フラストレーションが溜まりに溜まって脱走した事があった。勉強が嫌で逃げ出したのではない。男性との触れ合いを求めて外へ飛び出したのだ。

 フルールが可愛がっていた馬と共に。


 フルールは領地にいた頃、厩舎によく出入りしていた。

 理由は馬丁のサムが大好きだったから。いや、大きなサムの体が大好きだったから。

 夏の草取り行脚の一番の被害者は、サムだろう。


 伯爵令嬢が厩舎に入りびたりなど外聞が悪いが、ここは領地。わざわざ自領のよくない噂を流すものなどいない。


 従って、既に疲れ果てていた奥様は、敷地内にいるのならば、水遊びでも泥遊びでも、男漁りでも存分にどうぞ、という境地だった。


 そんな中で、フルールが馬に興味を持つのは自然な流れで、馬に乗りたいと言い出すのも自然の流れだった。


 フルールは実にテンポよく馬の乗り方を覚えた。もちろん、サムが手取足取り教えてくれたからだ。それが嬉しくて楽しくて、あっという間に一人で乗れるようになった。


 そして、生まれたばかりの子馬に名前を付ける権利をもらったフルールは喜んでハヤブサと名付け、自分の馬とした。


 しかしハヤブサは、フルールの所有になったつもりはない、と言わんばかりにサムにしか懐かない。それでもフルールはフルールなりに一生懸命お世話したし、可愛がった。

 例え鼻先でブルブルと嫌がられても、シッポであっちに行けとされても、毎日会いに行った。


 そんな毎日を重ね、徐々に寒さが増してきた頃に淑女教育がはじまった。

 そして淑女教育も半月が過ぎる頃、フルールが脱走した。


 当時、あまりにも進まない状況のフルールを見て、伯爵が、フルールの好む使用人をみんな隠してしまったから、屋敷には女性と、見習いの発展途上の青年しかいなかったのだ。


「もう、お父様ったらほんとうにいじわるなんだもん!」


 フルールはとりあえずジョンのところに行こうとした。レバンの実を取りに通っていたから道はわかる。


「お願いね。ハヤブサ」とハヤブサの好きなりんごで作ったアップルパイを口元に差し出すと、ハヤブサはぱくんと一口で食べて、もっとくれとでも言うように口をハムハムして鼻をヒンヒン鳴らした。


「ごめんね。今日は、これしかないの。でもまたもってくるね」


 フルールは馬が甘いものが好きだとサムから聞いていた。

 だから、ハヤブサの好きなりんごをもっとずっと甘くしたアップルパイは絶対に好きだろうと考えた。


 そして、アップルパイのおやつが出る日を狙って、計画を実行した。


 名付けて、ハヤブサを餌付けして脱走するぞ作戦!


 残念ながらフルールはハヤブサに懐かれていないので、自分のおやつを献上するしかない。


 ハヤブサに鞍を付けて、空き箱を踏み台にして少し勢いをつけて乗る。

 ハヤブサはまだ子馬だが、子ども一人が勢いをつけて乗ったくらいではびくともしない。


 尤も、フルール一人の時はいつもこの乗り方だから慣れている。

 サムがいるときは抱き上げて乗せてくれるがサムも隠されてしまった。






「ねえ、ハヤブサ。あなたもサムが好きなの?」

 ヒヒーン。

「サムの腕すてきよね」

 ヒヒヒーン。

「ブラシかけてもらってる時うれしそうだもんね」

 ヒヒン、ヒヒン。

 なんとなく掛け合いが成立しているらしく、フルールは楽しそうだ。

「でもしばらく会えないの。さみしいわよね」


 道中はこんな会話を交わしながら、順調にジョンの家に向かっていたが、途中からハヤブサの様子がおかしくなった。

 急に止まったかと思うとしきりに前掻きをする。


 何かのサインだと思うが、見ることが出来ない。箱がないため降りようにも降りられないのだ。

 ジョンの家に行けばすぐにジョンが気づいて降ろしてくれると思っていたし、途中でのアクシデントなどフルールの計画にはない。


 フルールはどんどんハヤブサの動きが大きくなる中、振り落とされまいと馬の首にしがみつく。恐怖で涙が出てくる。


 その時に「おじょうさまー!」と後方からサムの声が聞こえたのだ。




 ハヤブサはどうやらお腹が痛くなったようだ。


 その夜フルールは二度とハヤブサにアップルパイをあげてはいけないと言われ、こってりと怒られた。


 伯爵もハンナもあの日の事を思い出す。

 あの時は助けが間に合ったからよかったものの、今回間に合わなかったら、落馬してしまうかもしれない。今度こそ大変なことになる。


 そう言えばなぜアップルパイをあげてはいけないのか説明したかしら?

 今更ながらにハンナの頭にそんなことが過る。

 フルールは説明して理解すれば、納得してくれる。

 だが、逆を返せば理由なく納得したことはなかった。

 だからまたアップルパイをあげた?

 どうか、暮れ行く森の中に、具合が悪くなった馬とお嬢様が迷い込みませんように。

 ハンナは祈ることしかできなかった。


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