23 恋煩い
「はぁ…」
「お嬢様どうしました? ため息などおつきになって」
ハンナが知る限り、演習場から帰ってのため息など初めての事だ。
「あの方が最近いらっしゃらないのです」
あの方?
お嬢様の交友関係は極端に狭いので検討が付きません。
「どなたですか?」
「右腹部の筋肉を持つ方です」
確か、平民のバート様の時そんな単語が出ましたね。
「その方がどうしたのですか?」
「今日もいらしてなかったわ。あの方の腹部がもう一度見たいのに」
「お嬢様。その言葉はハンナ以外の前では言ってはなりませんよ。特にリリック様の前では絶対だめです」
「わかってるわ。殿方の前では他の殿方を見ても口を開いてもいけないのでしょ」
それはまた大げさな、と思ったがハンナはそれに乗っかった。
「ええ、そうでございます。お嬢様、どなたかに聞いたのですか?」
淑女教育でも、さすがに他の男と喋るなとまでは教えていない。
「領地でメアリーに聞いたわ。どうやって素敵な旦那様と結婚したの? って」
聞けばどうやらジョンは相当なヤキモチ焼きで、メアリーがよそ見をしようものなら視線の先に立ち、道を尋ねられた相手が男だというだけでも我慢ならないらしい。
「だから、メアリーは『ちょっと道を聞かれただけでも知られたら後で大変なのよ』って言ってたわ。でもそれがお付き合いのマナーなんでしょ?そうしてるうちにジョンがプロポーズしてくれたって言ったもの」
ジョンが知らぬところでヤキモチ焼きな事を暴露されているが、メアリーがいい仕事をしてくれたものだとハンナは頷きながら「そうでございます。そのマナーを守らないと大変なことになります」とさらに乗っかった。
「ではどうすればいいの?」
「どうすればとは?」
「どうしたらあの腹部にもう一度会えるの?」
早くも『あの方』は居なくなりました。そして『あの腹部』へと想いを馳せるお嬢様の顔は切なげです。
「お顔も名前もわからない上、話もできないのにどうすれば……」
それはなんと言えばよいものか。
荒唐無稽な恋煩い──とでも申しましょうか。
お嬢様、普通は名前も顔もわからなければ、会いたいとは思わないのです。いえ、思えないのです。…いや、まず腹部に会いたいとは絶対にならないのですよ。
心の中でフルールに訴えかけたハンナは大きな大きなため息をついた。
この婚約はどちらかと言えば政略に近い形のものとなる。
お互い知らない仲でもないし、両家の関係も良好だが、リリックを国外に出さない為に結ばれた、謂わば王命のようなところがある。
リリックの美貌に揺らがない娘は砂漠でダイヤモンドを探すより困難だろう。もしそれを探し当てたならばどれ程の値がつくだろう。
公爵家にとってそれがフルールなのだ。
美貌の君を探すより、その美貌に惑わされない者を探すほうが難易度は遥かに高い。そのような者が近くにいれば捕獲されて当然。
だが、公爵家が高くかってくれているフルールの価値は、裏を返せば伯爵家の汚点となる。
フルールはそれをわかっているのかいないのか。
伯爵家の娘として、家名に泥を塗らぬよう公爵家に入る事に重きを置いていることはわかる。
だが、たぶん、公爵家に入ることによって、今まで愛でていたものたちから距離を置かなくてはいけないことをまだわかっていない節がある。
「バート様が騎士を辞めなければいつかまた見ることができますよ」と、とりあえず斜め上の策を練られる前に諭したが、どうしたものかとハンナは頭を抱えた。




